“日月神示”地つ巻 第二十六帖 Kellyさん的解釈
今回も、地つ巻 第二十六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。
雨の日は傘いるのざと申して晴れたら要らぬのざぞ、その時その時の御用あるのざぞ、
晴れた日とて傘いらぬのでないぞ、
今 御用ある臣民と、明日 御用ある臣民とあるのざぞ、
二歳(ふたつ)の時は二歳の着物、五歳(いつつ)は五歳、
十歳(とう)は十歳の着物あるのざぞ。
十柱の御役もその通りざぞ、役変るのぞ。
旧八月の十二日、ひつ九のか三。
この、第二十六帖は、第二十五帖と同様に、第二十四帖の“衣(ころも)はくるむものであるぞ、くるむとは、まつらふものぞ、神の衣は人であるぞ、汚(けが)れ破れた衣では神はいやざぞ。”にかかる文章だと思える。
それは第二十四帖の解釈で述べたとおり、“衣(ころも)”=肉体であり、心(靈)が“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の発振、発信ならば=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)ならば、“上”はかかれない。 それは当たり前のことやし、今後=アセンション後、人(日止、霊止)が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行かんならんのは、時間の進行に伴う“創造”の“主(ヌシ)”の計画であり、だから“日月神示”では“上”との感応共振をする人(日止、霊止)という意味の、“天詞様”と述べられているし、そうなるためには、自分の心(靈)を自分の智性(神性)で観る=自己観察=“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”する。 その意味の表記が“身魂掃除”“身魂洗濯”。 そして肉体組織の結晶化は、困難に立ち向かい、困難を試練として、生体内電流の増幅をして、それが“行”の意味と意義であり、それを“日月神示”では、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化と称している。
そして事象の“創造”っていうのは、自分たちの“思惑の顕現”=現象化であり、心(靈)の動きが大事であり、かかってくる霊的存在=通信を受けたりすること、思想を共有する事が大事でもある。
また、自分の思惑が、今より早く顕現する事象になることが時空の結晶化でもある。 さらに“日月神示”では、今の事象よりも相対的な表記として、“半霊半物質”(今の事象よりも思惑が早く顕現する)という言い回しもしている。
ちょっと余談になったけど、まず冒頭の文。
“雨の日は傘いるのざと申して晴れたら要らぬのざぞ、その時その時の御用あるのざぞ、
晴れた日とて傘いらぬのでないぞ、”
これは揶揄(やゆ)した言い回しであると思える。 この文の“雨の日”は、人(日止、霊止)が背負っている因縁とか、それ以外にも(霊的なものの見方が出来ないから理由の分からない)災厄とか、不幸と感じる事象とか、それらはすべて恨みの連鎖の霊的干渉の現象化であるけれど、それを“雨の日”と称されていると思える。
前のブログで述べた事やけど、恨みの連鎖の霊的干渉を背負ったなら、それに立ち向かい、逃げず、恨みの連鎖の霊的干渉にかかわっている霊的存在の自省(胸の磁性“十”)を促すのが、一番根本的な解決であり、それは恨みの連鎖の霊的干渉を背負っている人間と、背負わせている霊的存在、その両者の霊的成長になる。 しかし、今の人間は、甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)心(靈)の動きをするものが多いから、すぐ逃げるとか忘れようとするとかする。
また苦難や試練を、忘れられたり逃げられた事を、癒されたなんて解釈をする人が大半でもある。
そんな人間を騙す形骸の宗教や、自称霊能力者、あなたの不幸を救いましょう、除霊、浄化しましょう、お祓いしましょうみたいな詐欺は、とても多いし、騙すほうも騙されているほうも、霊的な事柄に対する認識はとても低いとしか言いようが無い。
またまた余談やったけど、この文の“雨の日は傘いるのざと申して晴れたら要らぬ”は、恨みの連鎖の霊的干渉がなくなる事象を“晴れたら要らぬ”と称され、いうまでも無くそれは、自省(胸の磁性“十”)を果たした人が“創造”する、今後=アセンション後の事象。
そして“その時その時の御用ある”は、恨みの連鎖の霊的干渉で背負った因縁とかを自分たちが解決する。
このことも、今、恨みの連鎖の霊的干渉の結果としての“痛みと悲しみの星”となっている地球を何とかすることでもあるけれど、アセンションにはタイムスケジュールがあるから、もうその方法だけでは、良い方向になりえない。 間に合わんってことでんねん。
だから自省(胸の磁性“十”)の出来た人と、自我の肥大した自己奉仕者は、分けなければ、今と同じような恨みの連鎖の霊的干渉が増大していく事象はずっと連続して、最後には人間は完全に滅亡するやろ。
当然のことながら“創造”の“主(ヌシ)”はそんな事を許さないし、だから“上”からの教えとして、さまざまな宗教も出来た。
また、S会=紫光会でローム太霊さんが述べた事、“苦に苦を重ね、苦を求め、更に苦を求めるのだ。楽を求めてはいかん。”は、自分が試練と立ち向かい、自分に背負った因縁の原因のひとつでもある、恨みの連鎖の霊的干渉由来の霊的存在に、自分が立ち向かっているところを観察させ、自省(胸の磁性“十”)を促すようにする…その意味のことも言っている。
(しかし、このローム太霊さんの言い回しでもっとも大事な事は、自分がやっている“行”に対し、その姿勢を忘れるな、もっともっと“行”を極め、もっともっと“上”からの通信を受けろ、感応共振しろっていう意味だと解釈する。 by ○○○大先生)
さらに“日月神示”でも“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの通信で、人(日止、霊止)の霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の事を、さまざまな表現で述べているけれど、そこまで読み取れる人間はとても少なく、ただ、ありがたそうなところだけ引用し、自分たちの金儲けにする=“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)に成り下がっている。
またまた余談やったけど、この文の“御用”は、恨みの連鎖の霊的干渉を解決するのが今の地球の現状を何とかする事であり、その心(靈)の動きを持ったものは、もう恨みの連鎖の霊的干渉を増大させないものでもある。
しかし、その心(靈)の動きを忘れるなっていう意味で“晴れた日とて傘いらぬのでないぞ”と称されていて、いつも自分の心(靈)の動きを見張る事をしろって言われてて、それは、人の心(靈)は、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)において、本能から発現し、今は、ほんの少し智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)、目上(めうえ)の心(靈)を発現した。 何回も説明している通り、自分の“上”の心(靈)が“下”に向かうのが“日月神示”表記の右回転でもある。
そしてそれは自我の肥大であるし、自我は独り神(ひとりがみ、日取り神)になる過程としての必須要素でもあるし、だから自分の自我をよく観察する事が重要。
その意味で、○○○大先生が解釈した“日月神示”の右回転の画像を以下に貼っておきまんねん。
またまた余談になったけど、次の文。
“今 御用ある臣民と、明日御用ある臣民とあるのざぞ、”
この“今”と“明日”は、たった今の事象と今後=アセンション後の事をいっている。 あえて言うまでも無いし、S会=紫光会の交霊会でも、“これからの人、明日の人”って言い回しをしていた。
先ほど述べたように、恨みの連鎖の霊的干渉の結果としての“痛みと悲しみの星”、その原因と現象の根拠である恨みの連鎖の霊的干渉を解消すること、因縁に立ち向かい逃げない事、困難を避けない心(靈)、それがこの文の“今 御用ある臣民”だろうし、そして今、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして、“上”との感応共振をして、“上”の思惑を顕現しようとする人が“明日御用ある臣民”だと思う。
そして次の文は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に伴う肉体の変容をさした表記。
“二歳(ふたつ)の時は二歳の着物、五歳(いつつ)は五歳、
十歳(とう)は十歳の着物あるのざぞ。”
この文の“歳”は、時間の進行と、霊的成長度における“上”と“下”、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)を指していると思われ、“二歳(ふたつ)”は、“富士(二二)”の“二”と同義、それは、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道だと思われる。
そして“五歳(いつつ)”は、“五”は、糸巻きの象形文字、それは神経が密になるさま。 生物の進化は神経が密になる事でもあり、それは一個体の肉体の磁性の強化と変容でもあり、“行”の意義=“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の意義でもあり、さらにそれは、心(靈)が“慈(しげる)”っていう意味で、“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”の“慈(しげる)”でもある。
そして“十歳(とう)”は、胸の磁性“十”をさす表記。
そして“着物”は、第二十四帖の“衣(ころも)”と同義で、肉体の事。 だからこの文は、霊的成長の秘密を解き明かした表記でもある。
そして次の文。
“十柱の御役もその通りざぞ、役変るのぞ。”
この文の“役変わる”は、今の恨みの連鎖の渦巻いた事象と、今後=アセンション後の事象では、当然その事象を酔い形に変えていくには違う事をする。
そやから、今後=アセンション後は、ただただ“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”して、自分の神性の顕現のために、考え、思い、追求して行動をする。
それは、今の物欲中心の世ではなく、言い換えれば、土=2~3番目のオーラの“行”ではなく、さらに言い換えれば、低い砌(みぎり)の“行”=右往左往ではない世界になり、霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)それが中心の世になるやろ。
そしてその心(靈)は、胸の磁性“十”中心であり、“十柱”っていうのは、要はこの表記が人の完成に至るっていう意味やけど、以前紹介した“柱”の解字の画像を以下に貼っておきまんねん。
今回はこれくらいにしときまんねん。
コメント
コメントの投稿
トラックバック
http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/tb.php/311-14a04050