“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示”日月の巻 第二十七帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日月の巻 第二十七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の国は生きてゐるのざぞ、国土おろがめよ、神の肉体ぞ。神のたまぞ。
道は真直ぐとばかり思ふなよ、曲って真直ぐであるぞ、人の道は無理に真直ぐにつけたがるなれど曲ってゐるのが神の道ぞ。
曲って真直ぐいのざぞ。人の道も同じであるぞ。足許から鳥立つぞ。愈々が近づいたぞ。
世の元と申すものは泥の海でありたぞ。
その泥から神が色々のもの一二三で、いぶきで生みたのぞ。人の智ではわからぬ事ざぞ。眼は丸いから丸く見えるのざぞ。この道理わかりたか。
一度はどろどろにこね廻さなならんのざぞ。
臣民はどない申しても近慾ざから先見えんから慾ばかり申してゐるが、神は持ち切れない程の物与へてゐるでないか。幾ら貧乏だとて犬猫とは桁違ふがな。それで何不足申してゐるのか。まだまだ天地へ取上げるぞ。日々取上げてゐる事わからんか。神が大難を小難にして神々様御活動になってゐること眼に見せてもわからんか。
天地でんぐり返るぞ。やがては富士晴れるぞ。富士は晴れたり日本晴れ。元の神の世にかへるぞ。
日の巻終りて月の巻に移るぞ。愈々一二三が多くなるから、今までに出してゐた神示よく腹に入れておいてくれよ、知らせねばならず、知らしては仕組成就せず、臣民 早よ洗濯して鏡に映る様にしてくれよ。
今の世 地獄とわかってゐるであろがな。今のやり方 悪いとわかってゐるであろがな。神まつれと申すのぞ。外国には外国の神あると申してあろが。み戦さすすめて外国に行った時は、先づその国の神まつらねばならんぞ、まつるとはまつろふ事と申してあろが。
鉄砲や智では悪くするばかりぞ。神先づまつれとくどう気つけてあるのは日本ばかりではないぞ。此の方の申すこと小さく取りては見当取れんと申してあろがな。三千世界の事ぞ。日本ばかりが可愛いのではないぞ、世界の臣民 皆わが子ぞ。わけへだてないのざぞ。この神示よみて聞かしてくれよ。読めば読むほどあかるくなるぞ。富士晴れるのざぞ。神の心晴れるのざぞ。あらたぬし世ぞ。
十一月二十三日、一二 ローレンツ力と ○

 まず、冒頭の文。
“神の国は生きてゐるのざぞ、国土おろがめよ、神の肉体ぞ。神のたまぞ。”

 この文も、“国”“土”を、そのまま解釈してては意味が通じない。 これまでも述べているとおり“国”は(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”であり、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すものであり、完成(“王”=“一二三”のオーラの大きくなった形容)を目指す心(靈)って述べるのが妥当。
 そして心(靈)の入れ物、心(靈)が育つために必要なのが、“土”=肉体であり、肉体があるからこそ、(動物と共通の)2~3番目のオーラがあり、それは“一”=智性=1番目のオーラに昇華しうるし、そうなるために“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことって方法論がある。
 今述べた“一”=智性=1番目のオーラの獲得、それを強調しているのがこの文の後半の“神の肉体ぞ。神のたまぞ。”であり、この文の“神”を、“日止、霊止”が獲得しうる“神性”(“一”=智性=1番目のオーラ)って当てはめて読めば、理解しやすいと思う。
 
その意味で次の文。
“道は真直ぐとばかり思ふなよ、曲って真直ぐであるぞ、人の道は無理に真直ぐにつけたがるなれど曲ってゐるのが神の道ぞ。
曲って真直ぐいのざぞ。人の道も同じであるぞ。足許から鳥立つぞ。愈々が近づいたぞ。”

 これも、地球人が未熟であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道程であるからこそ述べられているからであり、当然未熟な地球人(の心(靈))は、神が持ちうる基準や思想を理解できていない。
 しかしそれを求めるのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でもある。
 だから人間は、(ローム太霊の言葉の)右往左往と左往右往するものでもある。
(補足として述べるが、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするってことでもある)
 今、大半の地球人は、“江戸と尾張”(腹の水、“江”は、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンをしめす)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程であり、“上”から見たら未熟でもある。 しかし、未熟ゆえの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をするからこそ、自分の認識は高まる=右往左往と左往右往でもある。 
それが霊的成長の一端でもあるし、それが無ければ、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の認識(悟り、幸取=さとり)がきちんとできない。 
そして“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を理解し始めれば、だんだん“創造”の“主(ヌシ)”の視点や観点に近づく=天の御目(あめのおめ)の獲得になっていくものである。
 それを踏まえ、この文を読めば、“道は真直ぐとばかり思ふなよ、曲って真直ぐであるぞ、”は、今述べた、右往左往と左往右往により、だんだん進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の基準の獲得をする=天の御目(あめのおめ)の獲得をするって解釈が妥当だと思うし、それを理解できていない進化過程、自我の確立=固定化の段階の心(靈)は、自我が肥大しやすく、自分は間違っていないとか自分は正しいとかの考えに陥りやすく、それをこの文では“人の道は無理に真直ぐにつけたがるなれど”って示され、自我の肥大(“石屋の仕組み”)を戒めて諌めている文だと思う。
 そしてこの文に続く“曲ってゐるのが神の道ぞ。曲って真直ぐいのざぞ。人の道も同じであるぞ”は、今述べた自分が未熟って自覚が無い=自我の肥大をしている人に対しての言い回しであり、“曲ってゐる”=右往左往から左往右往するのが心(靈)の進化=霊的成長の過程であることを示唆しているし、それがまた進化の道筋だから“人の道も同じ”と述べられ、そしてそれは、現状の地球人の進化過程の、腹の心(靈)、マニピューラチャクラ、“江戸と尾張”、第三密度、から、胸の心(靈)=自省(胸の磁性“十”)、アナハタチャクラ、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、第四密度、に移行するって事。
またそれは、大局的な見方としての進化(霊的成長、神格化に向かうこと)としては、“曲って真直ぐいのざぞ”ってことでもある。
そして“江戸と尾張”の心(靈)の動きで出来た事象は、今後=アセンション後、“日月神示”表記の“グレン”と変わるから“足許から鳥立つぞ。愈々が近づいたぞ”って言われ、それは重複するが“愈々”って事でもある。

 次の文。
“世の元と申すものは泥の海でありたぞ。
その泥から神が色々のもの一二三で、いぶきで生みたのぞ。人の智ではわからぬ事ざぞ。眼は丸いから丸く見えるのざぞ。この道理わかりたか。
一度はどろどろにこね廻さなならんのざぞ。”

 これも先に述べたことと重複しているが、人(丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現))と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が、“創造”している現津(あきつ)、観察され得る事象は、人の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)=“世の元”であり、“世”は、現津(あきつ)、観察され得る事象であり、“元”は、人の肉体=“二”と、時間の進行を示す儿部(じんぶ、にんにょう)(人が歩くさまに象る)でもある。
 そしてそれは、“泥の海”って称されており、高い心霊が使う“泥”→“石”→“玉(ぎょく)”、あるいは同様の意味として、“土”→“塔”=“山(脳)”って言い回しもあり、“土”“塔”“山”は、たんぱく質の高分子化を感じさせるものでもあるが、それが“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の段階を示すものであり、同時にそれは、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)における心(靈)の発現を示すものでもある。 
そのことを示しているのが“その泥から神が色々のもの一二三で、いぶきで生みたのぞ。人の智ではわからぬ事ざぞ”であり、この文の“神が色々のもの一二三で、いぶきで生みた”は、宇宙の中心と認識される大極からの発振、発信=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、それで“上”からの荷電粒子(アイ)を、生命は受け(受信と感応)て進化してきた。 
これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもある。 
またこの文の“色々のもの一二三で”って称されているのは、こちら側(“創造”の“主(ヌシ)”に対しての被造物)からみた、振動の違いであり、それはまた、人の発信しうる“一二三”のオーラになりうる要素ってことだと思う。
それで今の地球人の進化の概念には、当然こんな概念は無いので、それを揶揄された言い方が“人の智ではわからぬ事ざぞ。眼は丸いから丸く見えるのざぞ”って言い回しであり、低い進化過程の既成概念で判断するなってことを言われている。
そして“一度はどろどろにこね廻さなならん”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するには、今起きている醜い事象や、心(靈)の中の葛藤を体験せねば=右往左往と左往右往しなければ、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”にならず、自省(胸の磁性“十”)も発現しないことを示唆していると思える。

次の文。
“臣民はどない申しても近慾ざから先見えんから慾ばかり申してゐるが、神は持ち切れない程の物与へてゐるでないか。幾ら貧乏だとて犬猫とは桁違ふがな。それで何不足申してゐるのか。まだまだ天地へ取上げるぞ。日々取上げてゐる事わからんか。神が大難を小難にして神々様御活動になってゐること眼に見せてもわからんか。”

 あえて解釈が必要ないようなことでもあるが、“近慾ざから先見えんから慾ばかり申してゐる”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の進化過程の心(靈)が行っていること。 それは低い認識と低い既成概念、目先の欲望の達成が幸福だと思うとか、金儲けのために“善悪”を無視するとか、今までいろんな指摘や言い回しをしてきたが、神は人を生かし、進化させたいからこそ“神は持ち切れない程の物与へてゐるでないか。幾ら貧乏だとて犬猫とは桁違ふがな。それで何不足申してゐるのか。”って述べており、それは、このことを理解しろって言い回しであり、このことを理解させるためにアセンションに伴う醜い事象=自己奉仕者の行いの結果を示すってことを、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑として顕現し、それがこの文の“まだまだ天地へ取上げるぞ。日々取上げてゐる事わからんか。”ってことでもあり、しかし神は猶予を与え、考える時間をくれており、それは自省(胸の磁性“十”)の時間でもある。それを感じさせるのが“神が大難を小難にして神々様御活動になってゐること眼に見せてもわからんか”でもあると思う。

 次の文。
“天地でんぐり返るぞ。やがては富士晴れるぞ。富士は晴れたり日本晴れ。元の神の世にかへるぞ。”

 言うまでも無く“天地でんぐり返る”は、今の価値観や既成概念は崩壊し、先に述べたように地球人のごく一部は、腹の心(靈)、マニピューラチャクラ、“江戸と尾張”、第三密度、から、胸の心(靈)=自省(胸の磁性“十”)、アナハタチャクラ、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、第四密度、に移行する。
 それがまた、“日月神示”で多用されている“富士は晴れたり日本晴れ”の意味であり、これについては何回も示した画像を以下に貼っておく。

富士の解字 
“晴れたり日本晴れ”の解字



 画像を詳細に見ればわかることだが、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、“日止、霊止”であり、それは“神性”(“一”=智性=1番目のオーラ)の発現であり、それが最終段階での進化過程=霊的成長の過程、普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階であり、それはまた“日月神示”表記の、○ 九 十 の、“九”“十”に示されており、卆(そつ、卒業の卒の異体字)から感じられる意味でもある。
 そしてそれはこの文の“元の神の世にかへるぞ”って文章からも感じられ、“元の神の世”は、進化した人間=“元”が、智性(神性)由来の事象の“創造”をすることを示唆しており、それは神の思惑、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑だからこそ“かへるぞ”って言われていると思う。

 次の文。
“日の巻終りて月の巻に移るぞ。愈々一二三が多くなるから、今までに出してゐた神示よく腹に入れておいてくれよ、知らせねばならず、知らしては仕組成就せず、臣民 早よ洗濯して鏡に映る様にしてくれよ。”

 これまでの地球人の進化過程は“上”からの荷電粒子との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は、主に2~3番目のオーラ=“土”の段階であり、今後=アセンション後はそれが変わってくるからこそ“愈々一二三が多くなる”って言われており、“上”からの思惑、人を進化(霊的成長、神格化に向かうこと)させたい思惑は、だんだん高振動になり、それを受ける人(日止、霊止)は、“一”=智性=1番目のオーラを大きくするものであり、そうならなければまた、進化=霊的成長、神格化に向かうことでは無いといいうる。
 そのことを今までの“日月神示”の文で、自己奉仕者の進化過程の心(靈)を見極めろ=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”せよとか、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化せよとか、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを示唆した文章もあったが、このことを現状の地球人の心(靈)=自我の確立、固定化の段階、それはマニピューラチャクラの進化過程だからこそ“今までに出してゐた神示よく腹に入れておいてくれ”って言われている。 だからこれは、本当の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を自覚せよって事でもあり、そのためにはまず、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”せねばならないからこそ“臣民 早よ洗濯して鏡に映る様にしてくれ”って言われ、“鏡に映る”は、自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)せよってことであるし、それはまた、地獄で自省(胸の磁性“十”)を促す、閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)の“鏡”でもあるだろう。
 そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、自分の人生における体験から認識されうるものであるからこそ、先に述べた右往左往と左往右往が必要でもあり、それをせねば天の御目(あめのおめ)、基準って言ってもいいけど、それを獲得しないし、それを獲得しなければ進化は見出せないからこそ“知らせねばならず、知らしては仕組成就せず”って言われていると思う。

 次の文。
“今の世 地獄とわかってゐるであろがな。今のやり方 悪いとわかってゐるであろがな。神まつれと申すのぞ。外国には外国の神あると申してあろが。み戦さすすめて外国に行った時は、先づその国の神まつらねばならんぞ、まつるとはまつろふ事と申してあろが。
鉄砲や智では悪くするばかりぞ。神先づまつれとくどう気つけてあるのは日本ばかりではないぞ。此の方の申すこと小さく取りては見当取れんと申してあろがな。三千世界の事ぞ。”

 あえていうまでも無く、この世界は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きの顕現中心で、恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちているからからこそ“今の世 地獄とわかってゐるであろがな。今のやり方 悪いとわかってゐるであろがな”って称され、それを解決するには“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)である“神まつれと申すのぞ”ってことであるし、それは“日月神示”表記の“天詞様”でもある。
 そしてこの文の“外国には外国の神あると申してあろが。み戦さすすめて外国に行った時は、先づその国の神まつらねばならん”の“外国”を言葉通りに解釈しては意味が通じないと思うし、それは自分の心が観察しうる外側(外国と幽界)の事象であり、“国”は心(靈)そのものでもあるし、それで結局、人が行う事象の“創造”は、外側(外国と幽界)の事象にあり、それは自分の内面とか内側(心の中と感じている事)の顕現であり、だからこそ、“上”の思惑を取り込んだ思想や認識で、外側(外国と幽界)の事象の“創造”を行い、それは結果として神の思惑を顕現する役目としての“日止、霊止”になりうるのであるけれど、この文の“み戦さすすめて外国に行った時”っていうのは、自分の内面の葛藤、心(靈)の動き、神の基準を獲得する過程って言えば分かりやすいが、それが“み戦さすすめて”であり、それゆえの事象の“創造”が“外国に行った時”であり、その事象の“創造”=“外国に行った時”には、“先づその国の神まつらねばならんぞ、まつるとはまつろふ事と申してあろが”って言われており、これは“上”との感応共振を示す意味での“まつる”“まつろふ”でもある。
 そしてそれは“鉄砲や智では悪くするばかりぞ。”と言われており、反目する心(靈)を“鉄砲”と揶揄され、自我の肥大ゆえの既成概念を“智”と揶揄(やゆ)されていると思う。
 そしてそんなことでは、神の思惑の反映した事象の“創造”はできないから“神先づまつれとくどう気つけてあるのは日本ばかりではないぞ。此の方の申すこと小さく取りては見当取れんと申してあろがな。三千世界の事ぞ”って言われ、自分の心(靈)が観察しうるすべての事象=“三千世界”(“三千世界”は、地つ巻 第四帖にも出てきた言葉で、そのときに、「三千世界は、“上”から“下”、霊的成長度の高い低いにかかわらず、神だろうが人(日止、霊止)だろうが下等生物だろうが肉体を持っていようがいまいが、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の行いの霊的存在だろうが、悪魔だろうが、悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)であろうが、すべてをひとつの事象とみなした概念と解釈した)に、“神先づまつれとくどう気つけてあるのは日本ばかりではない”でもあり、この場合の“日本”も、縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)ゆえの国の認識の“日本”ではなく、その意味は先に示した“晴れたり日本晴れ”の“日本”を参照のこと。

 次の文。
“日本ばかりが可愛いのではないぞ、世界の臣民 皆わが子ぞ。わけへだてないのざぞ。この神示よみて聞かしてくれよ。読めば読むほどあかるくなるぞ。富士晴れるのざぞ。神の心晴れるのざぞ。あらたぬし世ぞ。”

 あえて解釈することでもないが、“創造”の“主(ヌシ)”は、すべての存在の幸福=霊的成長、神格化、を、願っている。
 それがこの文の“日本ばかりが可愛いのではないぞ、世界の臣民 皆わが子ぞ。わけへだてないのざぞ”であり、“日月神示”に示されている霊的成長の秘密は、今後=アセンション後に移行するのに当たって必須のことでもあるからこそ“この神示よみて聞かしてくれよ。読めば読むほどあかるくなるぞ。”でもあり、事にこの文の“あかるくなるぞ”が、ひらがなで書かれていることに着目し、本当は、日+月=明るい、それはまた、日足と砌(ひたりとみぎり)の要素が、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に必須であることを感じさせる。 いうまでも無くそれは日月の巻でたびたび使われている意味での“御用”で、太陽凝視=“ひつく”“日津久”中心の“行”であり、そして月の凝視も行うべきことを感じさせるし、それは日月の巻 第二十五帖の“臣民一日に二度食べるのざぞ、朝は日の神様に供へてから頂けよ、夜は月の神様に捧げてから頂けよ、それがまことの益人ぞ”に示された意味でもある。 そして“益人”、そうなれば、神、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑は、人(日止、霊止)が感じうる=“創造”し得る、現津(あきつ)、観察され得る事象に顕現されるからこそ“神の心晴れるのざぞ。あらたぬし世ぞ(アセンション後の事象)”って示唆されていると思えることを述べ、今回はこれくらいにしときまんねん。

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 Kelly & ○○○大先生

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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


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自分達の欲望を満たしたい… 
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の思惑だと 思えます)

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