FC2ブログ

“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、46年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示”日月の巻 第三十帖 Kellyさん的解釈  “自凝(おのころ)”と“茲に(ここに)”の意義


今回も、日月の巻 第三十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通りなんやけど、今回の第三十帖はとても長いし、進化=霊的成長、神格化に向かうことの、重要な秘密を含んでいると思うので、今回はタイトルどおり、“自凝(おのころ)”と“茲に(ここに)”って表記が出てくる文までを解釈しまんねん。

おのころの国成り、この国におりまして あめとの御柱(みはしら)見立て給ひき。茲(ここ)に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)島生み給ひき。初めに
水蛭子(ひるこ)、
淡島(あわしま)、
生み給ひき。この御子、国のうちにかくれ給ひければ、次にのりごちてのち生み給へる御子、
淡道之穂之三別島(あわじのほのさわけしま)、
伊予の二名島(いよのふたなしま)、
この島、
愛媛(えひめ)、
飯依比古(ひひよりひこ)、
大宜都比売(おおけつひめ)、
建依別(たてよりわけ)
と云ふ。次、
隠岐の三子島(おきのみつこしま)、
天之忍許呂別(あまのおしころわけ)。
次、
筑紫島(つくししま)、
この島、
白日別(しらひわけ)、
豊日別(とよひわけ)、
建日向日豊久土比泥別(たけひむかひとよくづひぬわけ)、
建日別(たてひわけ)。
次、
伊伎島(いきしま)、
天比登都柱(あめのひとつはしら)。
次、
津島(つしま)、
天狭手依比売(あめのさてよりひめ)。
次、
佐渡島(さとしま)。
次、
大倭秋津島(おおやまとあきつしま)、
天津御空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)、
次、
吉備之児島建日方別(きびのこしまたてひかたわけ)。
次、
小豆島(あづきしま)、
大野手比売(おおぬてひめ)。
次、
大島大多麻流別(おおしまおほたまるわけ)。
次、
女島(ひめしま)、
天一根(あめひとつね)。
次、
知詞島(ちかのしま)、
天忍男(あめのおしを)。
次、
両児島(ふたこしま)、
天両屋(あめふたや)、
二島(にしま)、八島(やしま)、六島(むしま)、合せて十六島生み給ひき。次にまたのり給ひて、大島、小島、生み給ひき。
淡路島(あわじしま)、
二名島(ふたなしま)、
おきの島、
筑紫の島(つくしのしま)、
壱岐の島(いきのしま)、
津島(つしま)、
佐渡の島(さどのしま)、
大倭島(おおやまとしま)、
児島(こじま)、
小豆島(あづきしま)、
大島(おおしま)、
女島(ひめしま)、
なかの島、
二子島(ふたこしま)
の十四島、島生みましき。次に、いぶきいぶきて、御子神 生み給ひき。
大事忍男神(おほことおしをのかみ)、
大事忍男神(オホコトオシヲノカミ)、
石土毘古神(いしつちひこのかみ)、
石土毘古神(イシツチヒコノカミ)、
石巣比売神(いしすひめのかみ)、
石巣比売神(イシスヒメノカミ)、
大戸日別神(おほとひわけのかみ)、
大戸日別神(オホトヒワケノカミ)、
天之吹男神(あめのふきをのかみ)、
天之吹男神(アマノフキヲノカミ)、
大屋毘古神(おおやひこのかみ)、
大屋毘古神(オオヤヒコノカミ)、
風木津別之忍男神(かさけつわけのおしをのかみ)、
風木津別之忍男神(カサケツワケノオシヲノカミ)、
海神(わたのかみ)、
海神(ワタノカミ)、
大綿津見神(おほわたつみのかみ)、
水戸之神(みなとのかみ)、
水戸の神(ミナトノカミ)、
速秋津比神(はやあきつひのかみ)、
速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)、
速秋津比売神(ハヤアキツヒメノカミ)、
風神(かぜのかみ)、
風神(カゼノカミ)、
志那都比古神(しなつひこのかみ)、
木神(きのかみ)、
木神(キノカミ)、
久久能智神(くくのちのかみ)、
山神(やまのかみ)、
山神(ヤマノカミ)、
大山津見神(おほやまつみのかみ)、
野神(ぬのかみ)、
野神(ヌノカミ)、
鹿屋野比売神(かやぬひめのかみ)、
野椎神(ぬつちのかみ)、
鳥之石楠船神(とりのいわくすつねのかみ)、
天鳥船神(あめのとりふねのかみ)、
大宜都比売神(おほけつひめのかみ)、
大宜都比売神(オホケツヒメノカミ)、
火之夜芸速男神(ひのやきはやをのかみ)、
火之比古神(ひのかがひこのかみ)
生みましき。速秋津日子(はやあきつひこ)、速秋津比売(はやあきつひめ)、二柱の神 川海(かわうみ)に因(よ)りもちわけ、ことわけて、生ませる神、
沫那芸神(あわなぎのかみ)、
沫那美神(あわなみのかみ)、
頬那芸神(つらなぎのかみ)、
頬那美神(つらなみのかみ)、
天之水分神(あめのみくまりのかみ)、
国之水分神(くにのみくまりのかみ)、
天之久比奢母智神(あめのくひさもちのかみ)、
国之久比奢母智神(くにのくひさもちのかみ)、
次に、大山津見神(おほやまつみのかみ)、野椎神(ぬつちのかみ)の二柱神、山野(やまぬ)に依りもちわけて、ことあげて生みませる神、
天之狭土神(あめのさつちのかみ)、
国之狭土神(くにのさつちのかみ)、
天之狭霧神(あめのさぎりのかみ)、
国之狭霧神(くにのさぎりのかみ)、
天之闇戸神(あめのくらとのかみ)、
国之闇戸神(くにのくらとのかみ)、
大戸惑子神(おほとまどひこのかみ)、
大戸惑女神(おほとまどひめのかみ)、
大戸惑子神(オホトマドヒコノカミ)、
大戸惑女神(オホトマドヒメノカミ)
生みましき、伊邪那美神(いざなみのかみ)やみ臥(こや)しまして、たぐりになりませる神、
金山比古神(かなやまひこのかみ)、
金山比売神(かなやまひめのかみ)、
屎(くそ)になりませる神、
波仁夜須比古神(はにやすひこのかみ)、
波仁夜須比売神(はにやすひめのかみ)、
尿(ゆまり)に成りませる神、
弥都波能売神(みつはのめのかみ)、
和久産巣日神(わくむすびのかみ)、
この神の御子、
豊宇気比売神(とようけひめのかみ)
と申す。ここに伊邪那美神(いざなみのかみ)、火の神 生み給ひて、ひつちとなり成り給ひて、根の神の中の国に神去り給ひき。ここに伊邪那岐神(いざなぎのかみ)泣き給ひければ、その涙になりませる神、
泣沢女神(なきさわめのかみ)、
ここに迦具土神(かぐつちのかみ)斬り給へば、その血 石にこびりて、
石析神(いわさくのかみ)、
根析神(ねさくのかみ)、
石筒之男神(いわつつのおのかみ)、
雍瓦速日神(みかはやひのかみ)、
樋速日神(ひはやひのかみ)、
建御雷男神(たけみかつちおのかみ)、
建布都神(たけふつのかみ)、
豊布都神(とよふつのかみ)、
御刀(みはかし)の手上(たかみ)の血、
闇於加美神(くらをかみのかみ)、
闇御津羽神(くらみつはのかみ)、
ここに殺されし迦具土(かぐつち)の御首(みかしら)に成りませる神、
正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ)、
御胸に
於藤山津見神(おとやまつみのかみ)、
腹(みはら)に
奥山津見神(おくやまつみのかみ)、
陰(みほと)に
闇山津見神(くらやまつみのかみ)、
左の御手に
志芸山津見神(しきやまつみのかみ)、
右の御手に
羽山津見神(はやまつみのかみ)、
左の御足に
原山津見神(はらやまつみのかみ)、
右の御足に
戸山津美神(とやまつみのかみ)、
成りましき。ここに斬り給へる御刀(みはかし)、
天之尾羽張(あめのおはばり)、
伊都之尾羽張(いづのおはばり)、
と云ふ。ここに妹(いも)恋しまし給ひて根の国に追い往(い)で給ひき。
十一月二十五日夜、一二ローレンツ力と ○

今回の、日月の巻 第三十帖は、日月の巻の第一帖で“日月の巻は、ローレンツ力と ○ (ヒ)の巻(第一帖~第二十七帖)と月(ツキ)の巻(第二十八帖~第四十帖)の区別がある”と述べたように、月(ツキ)の巻でもある。 
そして、月(ツキ)は日(ヒ)に対して相対するものである。
それは言うまでも無く太陽と月、これは日足と砌(ひたりとみぎり)っていう神の極性の現われでもあるし、その極性って分類でいえば、心(靈)と肉体、またそれは、心(靈)の反映が肉体でもある。
また、すべて生命の行動は、思惑と顕現ってことでもあり、思惑は言葉を変えれば精神とか心(靈)の動きであり、それは日足(ひたり)の極性でもあり、そして事象への顕現は、思惑の結果であり、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)であり、行動でもある。
そして当然のことながら、神であろうが人であろうが悪魔であろうが、思惑の顕現は=それぞれの心(靈)の動きは、事象の“創造”ってことでもある。 
よって日足(ひたり)と砌(みぎり)の神の極性は、すべての現津(あきつ)、観察され得る事象に感じ取れるものであるし、すべての事象は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の顕現と、“創造”の“主(ヌシ)”以外の生命(“創造”の“主(ヌシ)”以外の心(靈))の思惑の顕現でもある。
そして、自分の心(靈)が観察しうる対象、それが、事象の“創造”、顕現=現象化っていう言い方もでき得るものでもあるし、さらにそれは、自己=観察する自身から見たならば、すべての観察対象は、外側(外国と幽界)の事象って言い方もできる。

(だから、人の心(靈)は、自己と他者、あるいは自分の内面とか内側(心の中と感じている事)と外側(外国と幽界)の事象を、区別するし、区別できうるものでもある。 そしてそれが、独り神(ひとりがみ、日取り神)に成り得る絶対の要素であり、だからこそ、生命(生きる使命=存在理由)の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)において、自我(“江戸と尾張”)の心の発現は、独り神(ひとりがみ、日取り神)になるために必須でもある。 
そして自我があるからこそ、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して“創造”の“主(ヌシ)”と成り得るものであり、だからこそすべての生命は“創造”の“主(ヌシ)”を目指し霊的成長する。 それを言い換えれば、“一”=智性=1番目のオーラの拡大のために“行”をして成長し、新たな“創造”の“主(ヌシ)”となり、それが神格化のゴールでもある)

要は、すべての現津(あきつ)、観察され得る事象には、日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性(と、霊的成長度の“上”と“下”、そして時間の進行)しかないのだが、この第三十帖では自分たちが観察しうる砌(みぎり)の極性の現れ、その事象、そして肉体の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)(霊的成長、神格化に向かうこと)、これらの事を述べていると思われ、それはまた、“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”の思惑の現われでもある。 
その“創造”の思惑と、生命の発現、それは心(靈)の発現、そしてそれが古事記の“国生み”の本当の意味だと思う。

(“国”は、自我の肥大した縄張り意識の進化程度の低い認識による国土とか自国や他国ってことではなく、(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”で“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示し、だからこそそれは霊的進化を目指す心(靈)=荷電粒子の場(フィールド)でもある)

そして“創造”の“主(ヌシ)”の最初の事象の観察(“創造”)と、生命の発現=“国生み”ついて書かれていたのが、 ローレンツ力と ○ (ヒ)の巻の以下の部分であったと思うので、それぞれの帖の原文を列挙して、Kellyさん的解釈の要旨を述べてから第三十帖の解釈に入ることとする。

まず、日月の巻 第六帖から。
アメツチノトキ、アメミナカヌシノミコト、アノアニナリマシキ、タカアマハラニ ミコトトナリタマヒキ。
天地(アメツチ)は、“上”と“下”、“創造”の“主(ヌシ)”と被造物である人、あるいは“創造”の思惑と、顕現した事象。 また、“思惑の顕現”=現象化を、(心(靈)、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が=すべての生命が)観察行為により認識し始めた時といいうるし、重複する説明になるけれど“アメツチノトキ”の“ノ”(の)と“トキ”(時)は、観察をして認識をし始めた時、またこのこと自体が“創造”の始まりっていう意味を示し、心(靈)が観察して認識する事象の“創造”の始まりを指し示し、その“創造”=事象の観察、それは神(“創造”の“主(ヌシ)”)の思惑で、その顕現=現象化を、“上”も“下”も=神もあらゆる生命も、“観察と認識”をしている事と、“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”の始まりと根拠=“どういうつもり”を述べている文。
そしてすべての“創造”は、この文の“アノアニナリマシキ”に示され、それは“亜”の“あ”(愛(炁)の“あ”=ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”)に成り増しき でもあるし、“亜”が出ずる、泉、であり、アイ=愛(炁)でもある。 だからこれは“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化であり、“創造”そのものでもある。 またそれは“ナリマシキ”=成り(実現(実現は事象の“観察と認識”でもある)し、完成を目指すこと)増し(増える、弥栄(いやさか)と同義)気(電磁波、荷電粒子)で、それは、生命(生きる使命=存在理由)が発振、発信するオーラ=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))。

日月の巻 第七帖から。
ツギ、タカミムスビ、ツギ、カミムスビノミコトトナリタマイキ、コノミハシラ スニナリマシテ スミキリタマイキ。
“高御産巣日神(たかみむすび)”、これは、高=“上”であり、そして御を使うのは、相手や第三者に対する敬意とともに、相手のもの、相手に関するものであることを表し、また和らげた命令表現のときにも使う(御黙り、御入り(おはいり)など)、よってこれは、第六帖で解釈したこと、それは、事象の“創造”を“上” が思い(想い)、そのことを使命とした(命、“実言(みこと)”)、言い換えれば“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を、顕現=現象化として、生命(生きる使命=存在理由)が感じうる(“観察と認識”)、事象の“創造”を、命としたことを指し示すこと。
そしてこの文の“コノミハシラ”“この三柱”は、第六帖の天之御中主(あめのみなかぬし)と第七帖の高御産巣日神(たかみむすび)と神産巣日神(かみむすび)之命(の“実言(みこと)”)のこと。 また“スニナリマシテ スミキリタマイキ”の“ス”には、素(す、もと、原材料の意)と巣(すみかの意、何々の巣、愛の巣など、場(フィールド)を示す意味とも解釈も出来る)を、当てることとした。

日月の巻 第八帖から。
ツギ、ウマシアシカビヒコヂノカミ、ミコトトナリナリテ アレイデタマイキ。
この“宇摩志阿斯詞備比古遲神”の一文字々々が示す意味は、“宇”は、宀(うかんむり、頭の意味)と“千”、宀(うかんむり、頭の意味)は天意、“創造”の“主(ヌシ)”の意思、“創造”の思惑。 
そして“千”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)とシンクロトロン放射の構造を示す“十”。
“摩” は广(まだれ)(頭蓋骨の意、あるいは灰分(かいぶん)の結晶化した部分)と林=胸の磁性“十”左右と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、そして手。 これは進化した生命(手が発現し始めた段階以上の生命っていう意味がもつ、肉体のシンクロトロンの構造。 また天之御柱(あめのみはしら)“上”と“下”を貫く磁性に対しての、日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性を指し示す事であると思う。
“志”は、“一二三” のオーラの“一”と“二”の上に突き出ている|(たてぼう、こん、縦の磁性))と、心(靈)。 それでこの|(たてぼう、こん、縦の磁性))は、“上”から“下”に書く=天意が下降したものでもあるし、“亜”の低振動化を指し示すものでもある。 もう一度述べれば、この場合の“一”は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑そのもので、天意そのもの=“亜”そのものであるが、それが泉のように出なければ、“アイ”愛(炁)ではないし、それは“上”から“下”に降りなければ、事象の“創造”にはなりえないってことでもある。
“阿”は、この字の意味そのものが、曲がって入り組んだ所、曲がり角、隈、おもねること、こういう意味があるが、それは“亜”が“上”から“下”に下降し、変容している状態を指し示すものであると思う。
“斯”は、この字の意味として、これ、この、ここ、ここに、すなわち、かく、かように、このように、の意味がある。 これは天意が下降して=愛(炁)による“創造”で、創造されうる場(フィールド)の位相を特定する表記であると思う。
“詞”は、詞(ことば)、“創造”の“主(ヌシ)”の心(靈)の動き=“亜”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を指し示す表記。
次の“備”“比”は、これ(比)備わるの意。
“古”は、場(フィールド)の意味を示す表記と、振動の受信の意味を持つ“口”。 これにシンクロトロンの仕組みである“十”をくわえた表記。
“遲” は遅の旧字、おくれる、おくらす、おそいってい意味があり、当然のことながらこれは時間の進行っていう意味での後、後発ってことの意味で、天之御中主(あめのみなかぬし)、高御産巣日神(たかみむすび)と神産巣日神(かみむすび)之命(の“実言(みこと)”)よりも、後発であるという意味。
そして“神”はいうまでも無く荷電粒子の回転を示す表記。
また、“比古遲”の“ヒコ”は、日足(ひたり)(ヒメに対してのヒコ(彦)で、男の極性)を表している。 これは“創造”は日足(ひたり)の極性で成されるのが正しい(“上”(“創造”の“主(ヌシ)”)と“下”(人)の思惑を取り込んだ事象)ことを示している。

 ことに、次の、日月の巻 第十帖からは、生命(生きる使命=存在理由)の発現=個々の生命の心(靈)の発現を述べていると思われる。
 
 まず、日月の巻 第十帖から。
ツギ、アメノトコタチノミコト、ツギ、クニノトコタチノミコト、ツギ、トヨクモヌノミコトトナリナリテ、アレイデタマイ、ミコトスミキリタマヒキ。
 この文の、この文の“天之常立(あめのとこたち)”“国之常立(くにのとこたち)”について、“天之常立(あめのとこたち)”の“天”は、“天=“一”=智性=1番目のオーラ+自省(胸の磁性“十”)+人(日止、霊止)”。 これは“天”そのものが(天之御柱(あめのみはしら)の)大極としての“上”の意味もあり、またこの“天”という表記は、進化した“上”の存在って意味もあり、さらに進化を目指すべき人のことを指し示した表記と解釈し、そして“国之常立(くにのとこたち)”の“国”は(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すとした。 
上記の説明における“天”と“国”、この二つが、“之”(これ)、“常立(とこたち)”で、常に立つことを示し、これ(之)常に立つの意味は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でしかない。 そしてそれは“命(“実言(みこと)”)”でなければならない。
また“立”っていう字が、ローレンツ力の変化した点と“一”(智性=1番目のオーラ、人の心(靈)における“上”、天地の天。 あるいは“一”を三つ重ね “天”“地”“人”天地人って言う意味を持つ)、そして左右の極性、そして下線の“一”は、自分たち、あるいは自分たちの“下”の部分(天地人の人)、位相を指し示す表記、これらを表したものだと思う。
要はすべての存在は立たねばならない=進化しなければならない=神格化の道を進むものであるし、それが生命の存在の根拠と目的でもある。

日月の巻 第十二帖から。
三ハシラ、五ハシラ、七ハシラ、コトアマツカミ、ツギ、ウヒジニ、ツギ、イモスヒジニ、ツギ、ツヌグヒ、ツギ、イモイクグヒ、ツギ、オホトノジ、ツギ、イモオホトノべ、ツギ、オモタル、ツギ、イモアヤカシコネ、ミコトト、アレナリ、イキイキテ、イキタマヒキ、ツギ、イザナギノカミ、イザナミノカミ、アレイデマシマシキ。

 この文の“ミハシラ”“三柱”は、第六帖の天之御中主(あめのみなかぬし)と第七帖の高御産巣日神(たかみむすび)と神産巣日神(かみむすび)之命(の“実言(みこと)”)、
そして“五ハシラ”“五柱”は、先の“三柱”に第八帖で解釈した“宇摩志阿斯詞備比古遲神(うましあしかびひこぢのかみ)”さらに第十帖の“天之常立(あめのとこたち)之命(“実言(みこと)”)”を加え、“五柱”とされ、そしてここまでの“五柱”、その後に述べられている“国之常立(くにのとこたち)之命(“実言(みこと)”)”、これはちょっと意味合いが変わり、それは第十帖の解釈で“天之常立(あめのとこたち)之命(“実言(みこと)”)”と“国之常立(くにのとこたち)之命(“実言(みこと)”)”については、“天之常立(あめのとこたち)”=進化した“上”の存在と解釈し、そして“国之常立(くにのとこたち)”の“国”は、“国”((囗)くにがまえ)と“玉 (ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)で、これは“上”と“下”を認識しうる自分の心(靈)の中の事象である と解釈した。
そして“宇比地邇(うひぢに)”は、(宇摩志阿斯詞備比古遲神(うましあしかびひこぢのかみ)と共通の意味での)“宇”は、天意、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑。
“比地”は、此れ、と、地は“下”。
“邇”は、ちかい、近い、近くにあるもの、身近なものから対処するという意味合いの表記。 これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)には、順序、順番があることを示唆していると解釈する。 そして“妹須比智邇(いもすひぢに)”は、“妹”は、砌(みぎり)の極性としての“女”という表記と、時間の進行を示す未来の“末”、そして“須”は、もとめる(求)、も(持)ちいる、ま(待)つ、すべし(全うするべく)、すべからく(完成を目指すために)、もとむ(求)、以上の意味がある。 
そして“比”は、これ。 “智”は、太陽=日を知る、それは第七帖の“高御産巣日神(たかみむすび)”と“神産巣日神(かみむすび)”の表記の“日”のこと。 
“邇”は先に説明したとおり。
 よって“宇比地邇(うひぢに)”“妹須比智邇(いもすひぢに)は、“上”=天意と“下”である地、天地っていってもいいが、この天地って言葉そのものが低い既成概念に囚われている感があり、だからそれは、“上”と“下”、神と人(日止、霊止)、“創造”の“主(ヌシ)”と被造物、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑とその顕現であるすべての事象、そういう解釈が妥当であると思う。 そしてそれは“上”からの荷電粒子を仲介する太陽=“日”で、天意=神の思惑を知り、それが“此”“智”で、現象化した砌(みぎり)の極性である、現津(あきつ)、観察され得る事象は“妹”で示され、よって“妹須比智邇(いもすひぢに)”は、“上”からの荷電粒子=“日”を知り(認識(悟り、幸取=さとり)として取り込み)、それを求め、完成を目指し=“須”、そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番を“下”から“上”に向かう=“邇”。 。
そして“角杙(つぬぐひ)”“妹活杙(いもいくぐひ)”、この表記の“角”“杙(杭)”は、縦の磁束により高分子化されている様子、あるいは結晶化されていく様子を指し示すと思う。 
ちなみに○○○大先生は“改”で、進化に伴う生物の一個体内の電気特性の変化と、“上”からの荷電粒子の影響、その両方が進むことにより、電気特性を持つアミノ酸がつみ重なり、それはたんぱく質の高分子化になり、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であることを説明しているが、それは巨大人の構造を持つ宇宙(場(フィールド))であっても同様で、宇宙は星間物質が凝り固まり(コ、(凝集の)凝、真固止の固)、星雲や星が出来ているし、密度の高い星(真に固い星)(白色矮星、ブラックホールなど)は、高いエネルギー(電磁波、高振動の星のオーラ)を放出している。 
そしてそれは、宇宙であろうが人であろうが下等な細菌であろうが、すべての事象は磁束と電気特性という性質において相似象であるとの解釈に基づいて思うことでもある。
だから“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化した人のオーラが大きくなるのが必然でもある。
少し余談だったけど、その意味合いで“角”“杙(杭)”は、尖ったもの=“角”、差し込むのも=“杙(杭)”という解釈をする。 
なぜその解釈が成り立つのかといえば、今後解釈する日月の巻の第十七、十八帖に“ヌホコ”“”ヌホト”って表記が出てくるのと、この二つの表記は、電磁誘導による発電の仕組みを示すものでもあると思うからであり、この詳細についてはそれぞれの帖で述べることとするが、その発電の仕組みを構成し始めること、成り立ちの初めの段階が、高分子化、分子の積み重なりであり、それが“角”“杙(杭)”である。
そして“角杙(つぬぐひ)”は、角として先に出来たものであり、杙=杭は、角から後(“妹”=末と、砌(みぎり)の極性(顕現)である女)に出来たのであるとの解釈をする。
だから“妹活杙(いもいくぐひ)”は、“杙”を“活かす”、そしてそれは“角”より後発であり、“思惑の顕現”=現象化の意味合いを持つものであり、だから角→杙、それは磁極性により(“亜”が材料の)何かが凝り固まり、それが差し込まれることにより“活”(活かす)(電磁誘導)ものであり、そしてそれは生命が観察して認識しうる砌(みぎり)=事象としての現象化であるとの解釈をする。
 次は“意富斗能地(おほとのぢ)”“妹大斗乃辨(いもおほとのべ)”。 まず、“意”は、日に立つ心(靈)、それは日を目指す(“日止、霊止”を目指す)って言い換えても良いと思う。 “富”は、宀(うかんむり、頭の意味)と“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(“亜”から出ずる、泉、アイ、向かって日足(ひたり)から砌(みぎり))と、自分に取り込む意味(吸収、止めるの意)の“口”と“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)、そして“富”は、生命(生きる使命=存在理由)が神格化するためのテンプレートとしての表記でもあり、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)の発現と強化にかかわる意味を持つし、またそれは“日月神示”の表記の“富士(二二)”でもあると確信しているし、だから“日月神示”表記の“富士(二二)”は、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道の意味があるのだと思う。 
そして“斗”は、たたかう(戦う)、にわかに(俄かに)、はるか(遥か)、わずか(僅か)の意味もあるし、柄杓(ひしゃく)の意味もあり、北斗(七星)とか南斗という星の命名の由来であったりもするが、今列記したそれぞれの意味も感じさせるものではあるが、水をすくう意味での柄杓がもっとも妥当な意味合いだと思う。 その理由は後述する。
そして“能”は、何かをなしとげる(成し遂げる)そのはたらき、(能力)、そして、ききめ(効能、効果)の意味がある。 そして“地”は、天地の地、“上”と“下”としての“地”。 
よって、“意富斗能地(おほとのぢ)”は“上”からの荷電粒子=日に立つ心(靈)の“日”で、智性(神性)を発現する、またそれは脊椎動物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のテンプレートである富士の“富”を、“下”である“地”に成し遂げ、それは、器である柄杓、水を入れる柄杓の意である“斗”とする。 またその水は、荷電粒子として最大の大きさを持つ錯体に取り入れる。 その水は、人(日止、霊止)において腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンでもあり、進化過程として、自我は、智性(神性)により支配されなければならないことも示唆していると思うし、自我の発現は独り神(ひとりがみ)になる過程、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の必然であり、自我が無ければ、自己と他者の認識も無く、他者を思いやる(“慈悲”と“慈愛”)事もあり得ないものである。 …という意味を感じさせるものでもある。
 “妹大斗乃辨(いもおほとのべ)”は、“妹”は前述したとおり時間の進行と砌(みぎり)の極性(事象への顕現)を感じさせる表記。 “大”は“一”(智性(“一”、1番目のオーラ))と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、そして“大”そのものの意味は、人が手足を広げた様の意味がある。 “斗”は、前述したとおり自我にかかわる水。 “乃”は、なんじ、それがし、(はっきりさせるのではなく、間をおいてつなぐ意味として)すなわち、の意味がある。 “辨”は、(正しいか正しくないかを)分ける、わきまえる、その意味がある。 よって“妹大斗乃辨(いもおほとのべ)”は、“理(ミチ)”(進化の法則性)を“辨”=わきまえた人、それは“一”(智性(“一”、1番目のオーラ))が大きくなった存在、天意と感応共振する事が可能な存在(真の意味での天皇)、またそれは古神道の表記の“日止、霊止”(“上”からの荷電粒子を止める表記)、それが“大”の意味で、だからまとめれば、顕現した生命(“妹”)は、自分の独り神(ひとりがみ)になるべく心(靈)(この場合は自我)に、“上”からの荷電粒子を止める表記の意味を持つ“大”となるべく生命を(すなわち“乃”)わきまえる(“辨”)べきであり、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であることを示唆していると感じる。
 次は“於母蛇流(おもだる)”“妹阿夜詞志古泥(いもあやかしこね)”。 “於母蛇流(おもだる)”の“母”は、産み出す、そして水(子宮の羊水)の意味を感じさせ、“蛇流”は、下降する様と螺旋(とぐろを巻く)(ローレンツ力による荷電粒子の回転)を示唆しており、“上”からの荷電粒子が渦巻いておりて来る様を示し、それは新たな生命を産み出す(“母”)の意味があると思う。
“妹阿夜詞志古泥(いもあやかしこね)”は、“妹”は先に述べたとおり砌(みぎり)の極性(事象への顕現)で、“阿夜”の“阿”は、曲がって入り組んだ所、曲がり角、隈、の意味があり、“夜”は、昼間の太陽が出ている間に対し、反対の意味を持ち、陽に対しての陰でもあり、“日月”の月の意味でもある。 そして“詞”は“日月神示”表記の詞(ことば)であり、“言(こと)”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)であり、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)でもある。 “志”は、こころざし、意志の“志”、これは願望の達成、言い換えれば“思惑の顕現”=現象化、そして進むことの意もある。 そして“古”は、縦の磁束と横の磁束の表記である“十”と、場(フィールド)を示す“口”、“泥”は、(水の中の)帯電するミネラルが固まっていない(真固止ではない)状態を指し示す。
よって“於母蛇流(おもだる)”“妹阿夜詞志古泥(いもあやかしこね)”は、日足(ひたり)=神の思惑が、砌(みぎり)=事象に顕現していくのだが、その過程を表した表記だと感じる。
少し余談になるが、“角”“杙(杭)”“泥”って表記が今回出てきたが、これらはすべて何かが積み重なり出来上がっていくさまを示すと思うし、ことに“泥”は、帯電するミネラル“石”が固まっていない表記であり、それは“海”“川”でも同様の意味を持ち、要は水の中には錯体があるという事を言い表していると思う。
また“石”(帯電するミネラル)が積み重なり、何かが出来上がる。 その意味で“土”“岩”“山”(脳)“塔”(角より高いもの)“玉(ぎょく)”(きちんと結晶化されたもので、“上”が評価するべきもの)って表記も、高い心霊は使うが、すべて何かを積み上げる=高分子化する、あるいは密度が高くなる意味を持つと思う。
そしてこの文の最後には“伊邪那岐神”“伊邪那美神”と記され、この二柱は、神=荷電粒子の回転という表記が使われている。 このことを念頭において、まず“伊”は、これ、この、かれ、かの、なんじ、の意があり、それは“邪”にかかるものであり、“邪”の意味は、正しくないこと、道にはずれていること、あるいは、横の方向であること、その意味がある。 
よって“伊邪”、これは縦の磁束(正しい(“上”(“創造”の“主(ヌシ)”)と“下”(人)の思惑を取り込んだ事象))どおりではなく、横の方向=水平磁場による顕現を指し示す表記であると思うし、また、ローム太霊の言葉の右往左往と左往右往を思い起こさせるものであり、すべての事象は縦の磁束が初発であり、それに対し水平磁場が発現し、その相互の影響で事象は形成されている(と、心(靈)は感じ(感じる磁性)て、認識する)。
そしてすべての事象は、“上”と“下”=縦の磁束、日足と砌(ひたりとみぎり)=水平磁場、そして時間の進行=“道”、法則性=“理(ミチ)”によって形づ繰られるものであることを深く感じさせる表記が、“伊”“邪”、そして次の“那”でもある。 それで“那”は、美しい、安らか、多い、ふくよか、豊か、の意味がある。
“岐”は、幾度となく説明したことでもあるが、思想の分かれ、それは山(脳)と支(ささえ、わかれ)、思惑そのもの、日足(ひたり)の極性。 “美”は、羊が大きいの意味があり、従順に、恭順に従っていく様。 
そしてここで初めて日足(ひたり)の極性=男と、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)=女をあてるべきだと思う。
 ことに個々の肉体を持った生命(生きる使命=存在理由)の進化には、この文の“角杙(つぬぐひ)”“妹活杙(いもいくぐひ)”、この表記の“角”“杙(杭)”は、縦の磁束により高分子化されている様子、あるいは結晶化されていく様子、この概念がとても大事。 
また“角”“杙(杭)”は、尖ったもの=“角”、差し込むのも=“杙(杭)”という解釈をしたし、それは、日月の巻の第十七、十八帖の“ヌホコ”“ヌホト”であり、この二つの表記は、電磁誘導による発電の仕組みを示すものでもある。
そして“角杙(つぬぐひ)”は、角として先に出来たものであり、杙=杭は、角から後(“妹”=末と、砌(みぎり)の極性(顕現)である女)に出来たのであり、だから“妹活杙(いもいくぐひ)”は、“杙”を“活かす”、そしてそれは“角”より後発であり、“思惑の顕現”=現象化の意味合いを持つものであり、だから角→杙、それは磁極性により(“亜”が材料の)何かが凝り固まり、それが差し込まれることにより“活”(活かす)(電磁誘導)ものであり、そしてそれは生命が観察して認識しうる砌(みぎり)=事象としての現象化であるとの解釈をした。

それで、日月の巻 第十七帖からは、(第十二帖の“イザナギノカミ、イザナミノカミ、アレイデマシマシキ。”の続きとして)伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)が、“国生み”をする意味の事が述べられている。
ココニアマツカミ、モロモロノミコトモチテ、イザナギノミコト イザナミノミコトニ、コレノタダヨヘルクニ、ツクリカタメナセト、ノリゴチテ、アメノヌホコヲタマヒテ、コトヨサシタマイキ。
 このカタカナ表記に漢字とひらがなを当てると“此処に(茲に)天津神、諸々の命(“実言(みこと)”)持ちて、伊邪那岐(いざなぎ)之命(“実言(みこと)”)(日足(ひたり)の極性)伊邪那美(いざな み)の“実言(みこと)”(砌(みぎり)の極性(事象への顕現))に、是(これの)多陀用幣流国(國)(ただよえるくに)、作り固め成せ(“修理固成” (しゅうりこせい))と宣り乞ち(請ち)て(のりごちて)、天之沼矛(日本書紀では瓊矛、玉(結晶化した“玉(ぎょく)”=高分子化した何か)で飾った 矛)を賜いて、“光透(コト)”(光(自分の心(靈)が持つ振動より、相対的に高い電磁波が透過する意味、日月の巻 第十五帖の表記))依し賜いき(よさしたま“いき”=息(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)))”となり、この文の冒頭の“此処に”、これにはあえて“茲に”を当てたが、この“茲”という字は、日月の巻 第三十帖に出てくるとても重要な意味を持つ表記で、その表記の意味は、“上”から注がれる荷電粒子により“幺”(いとがしら)=神経の発達が、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリで、芽生えて発達して進化している事を示していると思うし、またそれは、左右=日足(ひたり) と砌(みぎり)に展開している進化した左右相称動物の特徴である神経の表記でもある。 
 要は、神経=この字の左右の“幺”(いとがしら)に表 れ、それは、これまで“日月神示”表記の“五六七(みろく)”の解釈として、“五”は糸巻きの象形文字で、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に伴い神 経が密になり、“六”は、爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、その両方の思惑が交わ るの意味があり、“七”=“一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)があると述べてき たが、その“五”を示すのが、また、“茲”=左右のコイル状の神経の芽生えと発達を示す表記であると思う。 
 そして“茲に”のあとに“天津神”=(“創造”の“主(ヌシ)”に近い)“上”の思惑が、事象の“創造”と、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す生命を育てる意図=“諸々の 命(“実言(みこと)”)持ちて”であるだろう。 そしてこの文自体は、日足(ひたり)=(“創造”、愛(炁)の顕現、進化(霊的成長、神格化に向かうこ と)の)思惑=伊邪那岐(いざなぎ)。 それと、砌(みぎり)、現象化(“創造”の“主(ヌシ)”が意図する事象の顕現)、伊邪那美(いざなみ)。 この 両者(事象の“創造”には神の極性としての二つの性質がある)に対して=“イザナギノミコト イザナミノミコトニ”って言われており、それは“是(これの)多陀用幣流国(國)(ただよえるくに)、作り固め成せ(“修理固成”(しゅうりこせい))” を“宣り乞ち(請ち)て(のりごちて)”=それをせよ、実現(意図して創造して現象化)せよ、そう述べられている。
そして“多陀用幣流国(國) (ただよえるくに)”、これは“多い”、“陀”“用”“幣”“流れる”“国(國)”に分けて解釈するならば、この表記の“陀”は、ななめ、平らではないと いう意味があり、“幣”は、御幣の幣で、幣は、神の依り代と一般に解釈されているが、それは、神の思惑を取り込んだ人(日止、霊止)の“思惑の顕現”=現象化を示したものであると思うし、だからこそ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、心(靈)の発現が“上”に向かう事であり、人間になって初めて智性(神性、“一”、1番目のオーラ)が観察できるようになったものでもあり、御幣の構造の意味するところとして、○○○大先生的解釈は、御幣を支える棒が、背骨に相当し、そして背骨で発生する縦の磁束、それは、金(カネ)の意 味でもある“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、それがまた“カネ”の言霊であり、背骨の周りの神経がコイル状で、生体内電流により電磁石の構造 を持ち、ローレンツ力 =ローレンツ力が発生することが、“上”との思惑(電磁波)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)でもある。

そして、日月の巻 第十八帖から。
ツギニ、イザナミノミコト、イザナミノミコトニ、アマノヌホトヲタマヒテ、トモニ、タタヨヘル、コトクニ ツクリカタメナセト コトヨサシタマヒキ。
次に、伊邪那岐(いざなぎ)之命(“実言(みこと)”)、伊邪那美(いざなみ)之命(“実言(みこと)”)に、天のヌ蕃登(女陰=ほと)を賜ひて、共に、多陀用幣流(ただよえる)、光透(コト)国(國)、作り固め成せ(“修理固成”(しゅうりこせい))と、光透(コト)(光(自分の心(靈)が持つ振動より、 相対的に高い電磁波が透過する意味、日月の巻 第十五帖の表記))依し賜いき(よさしたま“いき”=息(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)))

  この文の要点は、アメノヌホトヲタマイテであり、それは先の第十七帖のアメノヌホコ、天之沼矛(日本書紀では瓊矛、玉(結晶化した“玉(ぎょく)”=高分子化した何か)で飾った矛)が先に出来、それを“次に、伊邪那岐(いざなぎ)之命(“実言(みこと)”)、伊邪那美(いざなみ)之命(“実言(みこと)”)に、天のヌ蕃登(女陰=ほと)を賜ひて”と記されているところにある。
それで“ヌ蕃登(女陰=ほと)”の“ヌ”には会えて漢字を充てなかったが、第十七帖の“沼矛”の“沼”あるいは日本書紀の表記の“瓊矛”の“瓊”も、妥当な意味だと思うので、あえてカタカナのままとした。 
 それで“沼”は、水の滞った状態、あるいは水が溜まった状態を指し、この水の意味は、肉体でいえば、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、またこれは生命の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)に於ける自我の確立=固定化の段階と共通の意味であると思うし、それは錯体を 含んだ水ってことでもある。 それでこの“ヌ”が日本書紀表記の“瓊”ならば、何かが積み重なり=高分子化して電気特性が優れたもの(増幅の作用だろう) に変化した状態を指すと思う。 
 それで第十七帖と第十八帖で、“ヌホコ”と“ヌホト”という表記が示され、これは差し込むものと差し込まれるものと第十七帖で解釈した。 
 それで、差し込むもの=“ヌホコ”は、差し込む意志があって差し込むものであり、差し込まれるもの=“ヌホト”は、受け止めるものであり、これは日足(ひた り)と砌(みぎり)の極性でもあり、思惑や意図したこと=日足(ひたり)であり、またそれは男として記されている伊邪那岐(いざなぎ)でもあるし、同様に 現象化、(思惑を受け止めて)顕現するのは砌(みぎり)の極性(事象への顕現)であり、それは女として記されている伊邪那美(いざなみ)である。 このこ とを要約すれば、“思惑の顕現”=現象化ってことになる。
さらに第十八帖の“蕃登(女陰=ほと)”であるが、“蕃”は、艸部(そうぶ)艹、クサ カンムリ、芽生えるの意、そして番(つがい=男と女=日足と砌(ひたりとみぎり))との表記が古事記でなされているものでもある。 そして“登”は、 “上”に向かうとか進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味でもあろう。 また、“女陰=ほと”は、差し込まれるものの象徴でもあるが、一般の古事記 の解釈は、性的なことしか取沙汰されていない感があり、事象の“創造”における日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の現れであるとの解釈にお目にかかったことが無い。 それは(おのおのの生命=個々の心(靈)が)宇宙の中心と認識している場(フィールド)は、ひとつであるって当たり前のことでもあるが、地球上に存在する肉体を持っ た生命は、縦の磁束が発現する。 また、古神道表記の天之御柱(あめのみはしら)、“上”と“下”を貫く磁性は、宇宙の中心と自分の“上”と“下”を貫く磁束でもある。
 生命である自分が持つ縦の磁束の強化は、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)でもあり、その過程で神経が密になること、それは“慈(しげる)”、そして“茲”(左右の(コイル状の)神経の芽生えと発達を示す日月の巻 第三十帖の表記)、 この神経の発達が一個体の肉体の電気特性を、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)により、変容させているし、だからこそ“五六七(みろく)”は、神経が 密になり=“五”、そして“六”は爻部(こうぶ)で、それは、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味があり、“七”は、“一”(亜から出ずる、アイ)(“創造”の“主(ヌシ)”の表記)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記であるとの解釈が成り立つものであるし、それは、(神経の発達、たんぱく質の高分子化の程度という意味で)段階を経て、天意=普遍的に実在する創造主のオーラ (宇宙背景放射)、宇宙線や太陽からの電磁波と認識されているものとの反応が変わってくる(その意味で“日止、霊止”って表記が成り立つ)ことを何度も説明してきたし、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、天意(“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の受信)であり、微生物から脊椎動物、そして人への進化 は、多細胞化であり、“石”(帯電するミネラル)の結晶化=骨の進化(真固止、“修理固成”(しゅうりこせい)の意味の一つ)でもあり、肉体を構成するた んぱく質の高分子化であり、神経が密になること=“慈(しげる)”、“茲”(左右の(コイル状の)神経の芽生えと発達を示す日月の巻 第三十帖の表記)で もある。 そして目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の 脳の発現を見るようになって初めて“一”=1番目のオーラが発現し、智性(神性)を行使できる資格を持ったといいうる。

日月の巻 第二十四帖から。
ココニ、イザナギノミコト、イザナミノミコトハ、ヌホコ、ヌホト、クミクミテ、クニウミセナトノリタマヒキ、イザナギノミコト イザナミノミコト、イキアハシタマヒテ、アウ、あうトノラセタマヒテ、クニ、ウミタマヒキ。
茲に、伊邪那岐(いざなぎ)之命(“実言(みこと)”)、伊邪那美(いざなみ)之命(“実言(みこと)”)は、沼矛(日本書紀では瓊矛、玉(結晶化した“玉 (ぎょく)”=高分子化した何か)で飾った矛)、沼(瓊)蕃登(ほと)、酌み汲みて、国生みせなと宣り(のり)賜息、伊邪那岐(いざなぎ)之命(“実言 (みこと)”)伊邪那美(いざなみ)之命(“実言(みこと)”)、息合はし賜ひて、アウ(“上”から目線だからカタカナ表記)会う(“下”=被造物である 人間の目線から見たのでひらがな表記、漢字を充てることとする)と宣らせ賜ひて、国、生み賜ひき。

 この文を要約すれば、“茲に”は、 肉体の進化、神経の発達を示唆し(“上”から注がれる荷電粒子により“幺”(いとがしら)=神経の発達が、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリで、芽生えて発達して進化している事を示している)、そして、日足(ひたり)の極性(思惑)=伊邪那岐(いざなぎ)と、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)=伊邪那美 (いざなみ)、その両極性は、使命を持ち=命(“実言(みこと)”)、それはこの文の“国生みせなと宣り(のり)賜息”と“宣らせ賜ひて”に表れており、 何度も述べてきたとおり“国”は、縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)においての領土ってことではな く、(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すのであるから、それは心(靈)そのものと、 心(靈)の進化を示す表記であり、進化は、生命の存在理由は霊的成長、神格化に向かうことで、進化の仕組みは“ヌホコ、ヌホト、クミクミテ”=“沼矛(日 本書紀では瓊矛、玉(結晶化した“玉(ぎょく)”=高分子化した何か)で飾った矛)、沼(瓊)蕃登(ほと)、酌み汲みて”に示されており、この文の“酌 み”は、器に注ぎ込むの意味を持つからあえて充てた=“ヌホコ”の意味を持ち、“汲み”は、すくい上げる、受け継ぐ、の意味を持つから=“ヌホト”の意味 を持ち、また第二十四帖は、第二十三帖の続きであるから、二十三帖で述べられている“その上に水ならばまだはいる”と“神ならばその上にまだ幾らでもはい る”っていう要素を持ちうるものであることを指摘して、そして、原文のカタカナ表記の“アウ”とひらがな表記の“あう”は、“日月神示”のカタカナ表記は “上”から視点の言い回しだから、日足(ひたり)回りで“アウ”(会う)であり、ひらがな表記の“あう”(会う)は、(“創造”の“主(ヌシ)”の)被造 物である人から目線の表記であり、砌(みぎり)回りであり、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道理”(“道”(時間の進行)“理(ミチ)” (法則性))であり、その“アウ”“あう”は、古事記の表記においての表記、伊邪那岐(いざなぎ)と伊耶那美(いざなみ)が天之御柱(あめのみはしら) (“上”と“下”を貫く磁性)を回ってめぐり会ったことを示唆しており、今の世界は伊邪那美(いざなみ)が先に声をかけた=砌(みぎり)の極性が先行して いるから失敗の世界であり、それはこの文の“息合はし賜ひて”ではないってことでもあり、だからこそこの文では、伊邪那岐(いざなぎ)が咲きに書かれ、そ のあとに伊耶那美(いざなみ)が書かれ、日足(ひたり)の極性が先に立つ事象の“創造”、それは神の“思惑の顕現”って言い換えてもいいけれど、それをせねばならないってことを示した言い回しだと思う。

 …と、過去の記事からとても長い引用になった。 
それで、以下のカタカナ表記。

第六帖の“アノアニナリマシキ”。

第七帖の“コノミハシラ スニナリマシテ スミキリタマイキ”。

第八帖の“ウマシアシカビヒコヂノカミ、ミコトトナリナリテ”。

第十帖の“アメノトコタチノミコト、ツギ、クニノトコタチノミコト、ツギ、トヨクモヌノミコトトナリナリテ、アレイデタマイ、ミコトスミキリタマヒキ”。

第十二帖の“ウヒジニ、ツギ、イモスヒジニ、ツギ、ツヌグヒ、ツギ、イモイクグヒ、ツギ、オホトノジ、ツギ、イモオホトノべ、ツギ、オモタル、ツギ、イモアヤカシコネ、ミコトト、アレナリ、イキイキテ、イキタマヒキ、ツギ、イザナギノカミ、イザナミノカミ、アレイデマシマシキ”。

第十七帖の“ココニアマツカミ、モロモロノミコトモチテ、イザナギノミコト イザナミノミコトニ、コレノタダヨヘルクニ、ツクリカタメナセト、ノリゴチテ、アメノヌホコヲタマヒテ、コトヨサシタマイキ”。

第十八帖の“イザナミノミコト、イザナミノミコトニ、アマノヌホトヲタマヒテ、トモニ、タタヨヘル、コトクニ ツクリカタメナセト コトヨサシタマヒキ”。
これらの事と、次に述べる第二十四帖、これは第三十帖を読み解くに当たって必要なので列挙した。
それで大事なのは、第二十四帖のカタカナ表記の最後の“クニウミセナトノリタマヒキ、イザナギノミコト イザナミノミコト、イキアハシタマヒテ、アウ、あうトノラセタマヒテ、クニ、ウミタマヒキ。”=“国生みせなと宣り(のり)賜息、伊邪那岐(いざなぎ)之命(“実言 (みこと)”)伊邪那美(いざなみ)之命(“実言(みこと)”)、息合はし賜ひて、アウ(“上”から目線だからカタカナ表記)会う(“下”=被造物である 人間の目線から見たのでひらがな表記、漢字を当てることとする)と宣らせ賜ひて、国、生み賜ひき。”であり、これは一般の古事記の解釈としては、伊邪那岐(いざなぎ)が左から、伊耶那美(いざなみ)が右から天之御柱(あめのみはしら)の周りを回り、めぐり合ったときに伊邪那美(いざなみ)から声をかけて媾合(こうごう)して出来た子が“水蛭子”“淡島”であり、これは女(伊邪那美(いざなみ))から声をかけて交わったからいけないって天津神に教えられ、その後やり直して改めて“国生み”をした。 よって“水蛭子”“淡島”は、伊邪那岐(いざなぎ)と伊耶那美(いざなみ)の子=“国”として数えないとされている。 
このことは、よく知られていることでもあるが、これ以上の解釈や解説はなされていない(それは、誰も古事記や“日月神示”のそれらの文から、何かを見出そうとしないし、本当の事を知ろうとしない=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度が低いとしか言いようが無い)。
それで、やや結論を先走るが、第三十帖の表記の“水蛭子”“淡島”は、生物の進化過程の始まりを示す表記だと思う。 このことから先に私見を述べることとする。

前のブログでもこのブログでも述べてきていることではあるが、心(靈)が観察する事象の“観察と認識”。 すべての生命が行っている“観察と認識”は、心(靈)が荷電粒子の回転によって構成されている場(フィールド)だからであり、そして心(靈)は、生物の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)における肉体の発達に伴いながら、進化しているものである。
だからこそ人間以下の進化過程の生命は、“観察と認識”が人間以下、言い換えれば心(靈)も、心(靈)の動きも人間以下、これは当たり前のことでもあり、“観察と認識”が高度になる理由は=進化を果たし心(靈)が“上”になる理由と根拠は、肉体の磁束によるものであることをたびたび述べてきた。 
それは肉体の構成が、前のブログでよく引用したミミズ、ヒル、ゴカイ君、これら下等な生物は、骨が無い、神経が密ではない(“五六七(みろく)”の“五”(糸巻きの象形文字)ではない)、目が発達していない、心臓も血管系も発達していない、内臓器官も発達していない…etc. こんな事はあえて説明するような事でもない(地球人の進化過程における)一般常識であるが、これらすべて人間との比較であり、人間と動物や下等な生物における相対的な比較の進化論は、そうやって出来上がっている。 しかし、その進化論と称する学問は進化の分類をし始めたというのが妥当だと思うし、その学問は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味を追求したのではない。

○○○大先生的進化論は、生命が、天意(“上”からの荷電粒子)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をすることであり、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)において心(靈)は発現し、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動をもつようになり、そして進化における肉体の発達は、その過程でどれくらい天意を取り込み、その天意=“上”からの荷電粒子を自分の心(靈)とするのか、そしてその心(靈)はどういう“観察と認識”をして、そして“観察と認識”はその心(靈)の思想となり、思想は行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠となりうるってこのことも当たり前のことでもあるが、その点で下等生物には思想も無ければ、天意の受信も程度が低い。 
だからこそ下等生物は下等=“下”の心(靈)しか発現していない。 
それで進化を果たしたと思える“日月神示”表記の“五六七(みろく)”。
これは、神経が密になる=糸巻きを示す意味の“五”、そして“六”は、爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味、“七”は、“一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)と、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記、これが進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)を示し、神の思惑を顕現する生物としての“日止、霊止”でもあり、“日止、霊止”は“上”からの荷電粒子を止める意味の表記であり、いうまでも無く地球上で1番進化している生物は人間である。
そして“五六七(みろく)”の“七”の意味である、“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)というのは、智性=1番目のオーラが、頭の水平磁場の強化で大きくなることであり、そのために“日月神示”を岡本天明に書かせた艮(うしとら)の金神を名乗る霊団は、1番最初に黒住教で、朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教え、そして“日月神示”では“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを教えているものであり、それは“一”=智性=1番目のオーラを大きくする“行”であり、頭の水平磁場の強化は、脳のたんぱく質の高分子化による事である。
その脳におけるたんぱく質の高分子化を示した文章が、日月の巻 第二十三帖で、それは以下の文を解釈したときに述べた。

“一升桝には一升しか入らぬと臣民思ふてゐるが、豆一升入れて粟(あわ)入れる事出来るのざぞ。 その上に水ならばまだはいるのざぞ。 神ならばその上にまだ幾らでもはいるのざぞ。 神が移りたら人が思はぬ事出来るのざぞ。今度は千人力与へると申してあろが”  

 この文は、たんぱく質の高分子化、結晶化、そして分子密度が高くなること=“石”(帯電するミネラル)を取り込むことを示唆している。
 地球上の生物、微生物から軟体動物から脊椎動物、そして神の最後の“創造”の意味を持つ“九”、“日月神示”表記の、○ 九 十 の、“九”(“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))である人(日止、霊止)は、さらに進化して“日止、霊止”になり、この文に示されている通り、“神ならばその上にまだ幾らでもはいるのざぞ。 神が移りたら人が思はぬ事出来るのざぞ”になるのが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であり、それは天意の受信が現時点(平均的地球人の進化程度)よりも高度=“上”になることでもあり(“日月神示”表記の“天詞様”)、それは高度にならなければならない=アセンション後に移行出来うる人間になることを“上”は望むからこそ、それだからこそ、“日月神示”で幾度と無く出てくる表記の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化を、述べているものであるし、本来、人が“行”をする理由と根拠、様々な宗教=“上”からの通信における人(日止、霊止)の霊的成長を示唆した事は、そこにあるのだが、平均的地球人の心(靈)は自我の肥大(“石屋の仕組み”)で宗教を形骸にして“行”を単なる儀式にして“行ごっこ”にしてしまっている。
 話を戻し、そして、結晶化した=高分子化して“石”(帯電するミネラル)をたくさん取り込んだたんぱく質を持った目上(めうえ)の脳は、天意と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)(同調と、取り込んだ振動の増幅)するし、天意を自らの(心(靈)の=“国”の)智性(神性、“一”、1番目のオーラ)とするための“行”が、いうまでもなく“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであるし、それが“一二三”のオーラの、“一”=智性=1番目のオーラを大きくする事でもある。

それで話が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)という事に傾いているが、事象の観察と認識という心(靈)が行う行為についていえば、たんぱく質が高分子化していない単細胞生物だろうが微生物であろうがミミズ、ヒル、ゴカイ君であろうが、たんぱく質がある程度高分子化して目上(めうえ)の脳を発現した人間であろうが、個々の心(靈)が行っている行為が、事象の観察であり、心(靈)が行っている事象の観察は、個々の心(靈)が、電磁波の受信をすることによるものである。
またその観察行為は、高度な生命においては認識になり、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の指針となり、天意を自分の認識としたならそれは天の御目(あめのおめ)と呼称し、そう認識しうることが出来るものである。

そして“観察と認識”は電磁誘導により感じ(感じる磁性)、心(靈)=荷電粒子の場(フィールド)に止まり(とどまり)また(心(靈)によるところの)思想にもなり、そして思想は行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)につながるし、それがまた“畐”の意味でもあるし、その結果たるものが事象の“創造”ってことでもある。

それで、先に引用した日月の巻の古事記の天地初発とされている文章に似ているカタカナ表記の文、これは、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”は、“島生み”から始まり、島から“国生み”をおこなった。
だが“国”って言う表記は何回も述べているとおり、進化を目指す心(靈)であり、生命(生きる使命=存在理由)であり、(だから“創造”の“主(ヌシ)”以外のすべての心(靈)は)神の子である。
そして“島”を“修理固成”(しゅうりこせい)して作ったとされている。
それで“島”っていう表記は、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化を示していると思われる。
またそれは“上”からの荷電粒子によるものであるからこそ、これもやや先走るが、第三十帖の後半で使われている“神”っていう表記は、示す偏(へん)と“呂”(エネルギーの回転を示す表記)と称されていると解釈する。
これを踏まえ、第三十帖の冒頭の文を解釈する。

“おのころの国成り、この国におりまして あめとの御柱(みはしら)見立て給ひき。
茲(ここ)に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)島生み給ひき。
初めに水蛭子(ひるこ)、淡島(あわしま)、生み給ひき。”

“おのころ”に漢字を当てると、古事記の表記の“自凝(おのころ)”。
この“自凝(おのころ)”が理解できないと、この文は読み解けないと思う。 漢字を当てた表記を見ると分かるように、自ら、そして、凝る、凝集する、凝り固まるの凝があてられている。 
地球上の(肉体を持った)生命は、たんぱく質を持ち、そのたんぱく質は20種類のアミノ酸により構成され、それぞれのアミノ酸は電気特性の違いがあることを、○○○大先生は“改”で説明した。
“天人相関”編 “その四” アミノ酸から蛋白質になる過程
その記事で○○○大先生は以下のように説明している。

個体内に電界や磁界が出来、その事でアミノ酸が繋がって蛋白質が出来上がり、それは、結晶化に至る最初の段階でもあり、そしてより進化した生物になって行く事が同時に起きていくという私見を持っています

生物の一個体々々の進化は、まず、単細胞生物が動く事により、生体内電流を発生させ、単細胞生物が持ち始める縦の磁束と、生体内電流による磁界と電界が関わり、縦の磁束や生体内電流を強化させたりして、たんぱく質の高分子化=結晶化がおき、そして単細胞生物から多細胞生物に進化して、単細胞生物よりも進化した生物が持ちうる、内臓(東洋医学でいうところの“臓腑”)、神経、血管系と心臓の発達、そして骨の発生と進化があり、骨と神経の発達は脊椎(電磁石の構造)を作り上げ、縦の磁束の強化になり、さらに脊椎動物に観られる手足の発現は、骨と神経の発達と、指(小さい骨と密になった神経により、強い磁束を発生させる)水平磁場の強化になり、左右対称の大脳半球や内臓や口以外の感覚器官も、水平磁場の強化になりうる(人は進化した左右相称動物=日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性の強化)。
そして神経と脳の発達による感覚、ことに五感を感じる器官の進化、目(可視光線の振動を中心に感受する)、耳(音の振動を感受する)、鼻(嗅覚)、口(味覚)、皮膚(触覚)触覚、(外側(外国と幽界)の事象の振動を感受する器官=電磁波の受信)の発達をする。
こういう肉体の発達には、(重複するが)アミノ酸の結びつき、そして低分子のたんぱく質がつながり、“石”(帯電するミネラル)を取り込み、高分子化したたんぱく質になり、一個体の電気特性は変容し、(進化した生き物としての)人になって初めて“一二三”のオーラの発現を見るようになる。
そして心(靈)の発現は、下等な生物は本能中心の心(靈)でしかないが、人間の心(靈)は、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、と、分類ができ、そしてその分類をしたのは人間でもある。
(これも一個体としての人が他の人を見る=外側(外国と幽界)の事象の観察をして認識することでもある)
 そうやって、“上”からの荷電粒子=神の思惑を感受し、自分と自分以外を区別し=現津(あきつ)、観察され得る事象の観察をするために生物は進化して、神の思惑を顕現する使命を持ちうるっていうのが、○○○大先生の進化に対する見識でもあり、単細胞生物から多細胞、そして脊椎動物から人(日止、霊止)になるには、たんぱく質が固まっていく=結晶化して高分子化していかなければならないし、それが、縦の磁束を持ち、生体内電流の発生や増幅を行っている=すべての肉体を持った生命に共通する事でもある。
 そしてそれが自ら凝る(固まる)の表記である、“自凝(おのころ)”の意味であると確信するし、それがまた古神道でいうところの“修理固成”(しゅうりこせい)の意味でもあるし、さらに古事記では淤能碁呂島(おのごろじま)、日本書紀では磤馭慮島(おのころじま)という表記もあるが、今述べたこと違う意味の文字も使われてはいるが、これも、たんぱく質の高分子化を示した表記であると思う。 
ちなみに淤能碁呂島(おのごろじま)の淤は、泥などで詰まる、ふさがる、能については説明の要はない、碁は、碁石の碁、規則正しく並んだもので小さいものの意味、呂は、荷電粒子の回転(神っていう字は、示すへんに呂)、磤馭慮島(おのころじま)の磤は、“石”(帯電するミネラル)と殷(盛ん、大きい、多い、豊か、などの意味)、馭は、馬を使いこなしあつかう、あやつる、統べる(すべる、統御)、おさめる(収める、納める、治める、修める、の意)、慮は、考える、思う、おもんぱかる(慮る)、思慮をめぐらす、などの意、これら一つ一つの字の意味を見ても、たんぱく質の高分子化と進化の法則性(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))を感じさせるものである。
 だが、この第三十帖の冒頭の文では“島”っていう表記が無い。 
その“島”の表記が無い意味は、“自凝(おのころ)”が、“島”を“創造”する仕組みであると解釈する。
 それで“島”についてだが、高い心霊が使う言い回しや表記には、決まりや約束事があり、それはS会=紫光会の、主護霊会を中心とした交霊会に何回も出席し、ローム太霊やS会=紫光会を構成した高い霊的存在や、会員の主護霊の肉声などをカセットテープに録音し、それをノートに書き写し、何回も読んで自分の認識にした太陽凝視を教えてくれたKさんと○○○大先生が見つけたことでもある。
 これは高い心霊ほど、言葉を無責任に使わない、根拠のないことは言わない、意味を深く感じさせる言葉を使用する、ってことでもあるが、高い心霊が人間に直接分かりやすい言葉で伝えると、人間がその言葉を鵜呑みにしてしまっていては、智性の発現する目上(めうえ)の脳を使わなくなるので、その言葉の意味や、なにを伝えようとしているのかを深く考えるような言い回しをする。
 話を戻し、それで、“自凝(おのころ)”って表記を見て思うのは、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)における肉体の構築、そして心(靈)の発現の段階を、進化の初めから、泥、あるいは砂(沙)→“石”(帯電するミネラル)→塔(たんぱく質の高分子化により完成を目指す表記)、あるいは岩(“石”(帯電するミネラル)と山(脳)、天の岩戸、岩戸開きの岩)、ことに山っていう表記、それは○○○大先生が若い頃、S会=紫光会で正月にローム太霊の御天筆(ごてんぴつ)で示された、山二つの表記(神格化のプロセス 目上(めうえ)と目下(めした) 126ページを参照のこと)は、左右(日足と砌(ひたりとみぎり))の大脳半球を示した表記でもある。
 余談になったが、この文の“おのころの国成り”は、肉体を持った生命の心(靈)の発現と進化を示す言い回しであり“この国におりまして あめとの御柱(みはしら)見立て給ひき。”の“この国におりまして”は、古事記では、天津神の命により伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)が天の浮橋に立ち、多陀用幣流国(ただよえるくに)を“修理固成”(しゅうりこせい)せよ=“理(ミチ)”、法則性により、修め、固め(密度)、成せ(完成に至れ)ってことだが、この“天の浮橋”は振動の段階、“上”と“下”を示す表記であり(天の橋立も同じ意味だと思う)、それは伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)は“上”から=“天の浮橋”に立って(日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性だから“竝”っていう表記が妥当だと思うが)、“ヌホコ(沼矛)”(差し込むもの)を賜いて(賜は、たまわる、祝福や恩恵としてもらったもの=たまわったもの)、“許袁呂許袁呂(こおろこおろ)”とかき鳴らし(畫鳴)、沼矛からしたたり落ちた(末垂落)塩(鹽)が、累積して“島”となったとされ、それが淤能碁呂嶋であると書かれているが、この塩って表記は、すべての(植物を含め)肉体を持った心(靈)=生命が持ちうる錯体のことを感じさせるものでもあるし、その錯体は、動物においては血液中のヘモグロビンが心臓の機能により血管系を移動して起きる肉体内の電磁誘導を起こさせるものである。 
(“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊) 
そしてそれが日月の巻 第十七帖のカタカナ表記“ココニアマツカミ、モロモロノミコトモチテ、イザナギノミコト イザナミノミコトニ、コレノタダヨヘルクニ、ツクリカタメナセト、ノリゴチテ、アメノヌホコヲタマヒテ、コトヨサシタマイキ。”に示されている事でもあり、その解釈の詳細は先の引用文で述べた。
ここまで述べたことが冒頭で述べたことの“結論を先走るが、第三十帖の表記の“水蛭子”“淡島”は、生物の進化過程の始まりを示す表記だと思う”の、根拠でもある。
それで“自凝(おのころ)”説明が長くなったが、“自凝(おのころ)”=自ら凝る、固まる、“島”の生成の仕組みは、先に引用した文の中でもたびたび解釈しているが、“茲に”って言う表記に示され、それは、肉体の進化、神経の発達を示唆し、“上”から注がれる荷電粒子により“幺”(いとがしら)=神経の発達が、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリで、芽生えて発達して進化している事を示しているし、さらにそれは、左右の(コイル状の)神経の芽生えと発達であり、それこそが日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性の現われであり、さらにそれは伊邪那岐(いざなぎ)(思惑)と伊邪那美(いざなみ)(事象への顕現)でもあるからこそ、“国”=“上”に向かう心(靈)を生んだとされていると思う。
それは、“島”=たんぱく質が“自凝(おのころ)”で固まり、だからこそ固まった“島”には、電気特性の変容があり、変容があるからこそ、“上”からの荷電粒子との反応は変容し、その変容=“道理”(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))にかなった進化は、霊的成長、神格化に向かうこととなり、だからこそ地球上で一番進化した生物である人間は、智性(“一”、1番目のオーラ)(神性)(日を知る性質)って心(靈)の発現をしており、それがまた“日月神示”の ○ 九 十 の表記の意味に感じ取れる、神の最終段階の“創造”した心(靈)(霊=○、荷電粒子の場(フィールド))っていうことでもある。 それが“おのころの国成り”であり、これに続く文の“この国におりまして あめとの御柱(みはしら)見立て給ひき。 茲(ここ)に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)島生み給ひき。”は、この文の“あめとの御柱(みはしら)”=脊椎動物が持つ縦の磁束を中心に(“見立て給いき”)、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性が発現した“島”(たんぱく質が“自凝(おのころ)”したもの)を、生んだ=日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性を持ちうるからこそ進化をし始めることを示唆した表記であると思う。

 …ちゅうことで、今回はここまでにして、残りの第三十帖の文に示されている“島”=たんぱく質が“修理固成”(しゅうりこせい)で固まり=凝り(自凝(おのころ))、それと“国”(“上”に向かう心(靈))の発現し、それは“神”=荷電粒子の回転、示す偏(へん)と呂、いわゆる一般通念の古事記の解釈における“国生み”と“神生み”について解釈する事としまんねん。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

« “日月神示” 日月の巻 第三十帖 Kellyさん的解釈 “淡道之穂之三別島(あわじのほのさわけしま)”“伊予の二名島(いよのふたなしま)”の意義|Top|Kellyさん、Nominyanと“霊的成長度の違いにおける先祖供養”について議論し、その後Senyapooにもて遊ばれて、おもちゃ扱いされる!! »

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/tb.php/367-c09aa566

Top

HOME

tuyukusanotuyu




 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
FC2ブログへようこそ!


Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
(クリックで拡大)

2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
(クリックで拡大)


発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
(クリックで拡大) 

お近くの書店にない場合は
たま出版のサイトでお買い求めください。

発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
(クリックで拡大)

お近くの書店に無いときは
たま出版のサイトでお買い求めください。

この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




初めての方は、
・・・その後の事と・・・これからの事。
からお読みください。

それぞれのカテゴリーをクリックすると
古い順に、記事が閲覧できます。

        

☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (107)
Kellyさんがこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)に伝えたい事 (24)
Kellyさんと○○○大先生との会話 (7)
Kellyさんとチョ~極上ラブラブ中高年夫婦はんとの会話 (6)
Kellyさんとチョ~ベッピンはんのA野はんとの会話 (7)
Kellyさんと∪・ω・∪ ▼・。・▼ ▼・。・▽ U・。・U U。・ェ・。U たちとの会話 (34)
Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
Kellyさんとややメタボ内科医のYっちゃん先生との会話 (7)
Kellyさんと和風のベッピンはんのSはんとの会話 (2)
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話 (12)
KellyさんとNominyan ∥*σ_σ*∥&Senyapoo λ*゜ο゜*λ との会話 (6)
☆ Kellyさん的“日月神示”解釈 (603)
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (46)
“日月神示” 上つ巻 (42)
“日月神示” 下つ巻 (38)
“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
“日月神示” 地つ巻 (36)
“日月神示” 日月の巻 (68)
“日月神示” 日の出の巻 (23)
“日月神示” 磐戸の巻 (21)
“日月神示” キの巻 (17)
“日月神示” 水の巻 (36)
“日月神示” 松の巻 (30)
“日月神示” 夜明けの巻 (26)
“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (11)
“日月神示” 荒の巻 (27)
“日月神示” 地震の巻 (93)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (149)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



fxwill.com


2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。



自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




飢餓救済のホームページ

JWord クリック募金

名前:
メール:
件名:
本文:

QRコード