“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示”日月の巻 第四十帖 Kellyさん的解釈

 今回も、日月の巻 第四十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

ここに伊邪那美の命 語らひつらく、あれみましとつくれる国、末だつくりおへねど、時まちてつくるへに、よいよ待ちてよと宣り給ひき。ここに伊邪那岐命、みましつくらはねば吾とつくらめ、と宣り給ひて、帰らむと申しき。ここに伊邪那美命 九(こ)聞き給ひて、
御頭(みかしら)に
大雷(おおいかつち)、
オホイカツチ、
胸に
火の雷(ホのいかつち)、
ホノイカツチ、
御腹には
黒雷(くろいかつち)、
黒雷(クロイカツチ)、
かくれに
折雷(さくいかつち)、
サクイカツチ、
左の御手に
若雷(わきいかつち)、
ワキ井カツチ、
右の御手に
土雷(つちいかつち)、
ツチイカツチ、
左の御足に
鳴雷(なるゐかつち)、
ナルイカツチ。
右の御足に
伏雷(ふしいかつち)、
フシ井カツチ、
なり給ひき。伊邪那岐の命、是見(こみ)、畏みてとく帰り給へば、妹伊邪那美命は、よもつしこめを追はしめき、ここに伊邪那岐命 黒髪かつら取り、また湯津々間櫛(ゆつつまぐし)引きかきて、なげ棄(う)て給ひき。伊邪那美命 二(つき)の八くさの雷神(いかつちかみ)に黄泉軍(よもついくさ)副(そ)へて追ひ給ひき。ここに伊邪那岐命 十挙剣(とづかのつるぎ)抜きて後手(しりへて)にふきつつさり、三度 黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到り給ひき。坂本なる桃の実一二三(ひふみ)取りて待ち受け給ひしかば、ことごとに逃げ給ひき。ここに伊邪那岐命 桃の実に宣り給はく、汝(みまし)吾助けし如、あらゆる青人草の苦瀬(うきせ)になやむことあらば、助けてよと宣り給ひて、また葦原の中津国にあらゆる、うつしき青人草の苦瀬に落ちて苦しまん時に助けてよとのり給ひて、
おほかむつみの命、
オオカムツミノ命
と名付け給ひき。ここに伊邪那美命 息吹き給ひて千引岩(ちびきいわ)を黄泉比良坂に引き塞(そ)へて、その石なかにして合ひ向ひ立たして つつしみ申し給ひつらく、うつくしき吾が那勢命(なせのみこと)、時廻り来る時あれば、この千引の磐戸、共にあけなんと宣り給へり、ここに伊邪那岐命しかよけむと宣り給ひき。ここに妹(いも)伊邪那美の命、汝(みまし)の国の人草、日にちひと死(まけ)と申し給ひき。伊邪那岐命 宣り給はく、吾は一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)生まなむと申し給ひき。この巻二つ合して日月の巻とせよ。
十一月三十日、ひつ九のか三。

 まず、冒頭に述べられている“ここに伊邪那美の命 語らひつらく、あれみましとつくれる国、末だつくりおへねど、時まちてつくるへに、よいよ待ちてよと宣り給ひき。ここに伊邪那岐命、みましつくらはねば吾とつくらめ、と宣り給ひて、帰らむと申しき。”だが、これは砌(みぎり)の極性(事象への顕現)の意味を持つ伊邪那美(いざなみ)、これをどう解釈するかがポイントであり、この四十帖における伊邪那美(いざなみ)は、Kellyさん的には肉体を持った心(靈)、要は物質を持った心(靈)、生きている人間、“創造”の“主(ヌシ)”に対し被造物である人間、こういう解釈が妥当であると思う。 
そう思うその根拠は、四十帖に出てくる“雷”(いかつち)という表記が、肉体における電磁誘導であると思うからである。 
その“雷”(いかつち)=電磁誘導そのものは、自らの心(靈)の動き、事象における行動や動作、肉体(月(ツキ))内の活動、たとえば筋肉とか内臓とかが機能して動くことなど、これらによる生体内電流の派生に関わることであり、そしてもう一つ大事なのは、古神道表記の“日止、霊止”、それは太陽からの荷電粒子を止める意である“日止”、宇宙の中心と認識されうる場(フィールド)から発振、発信されている荷電粒子を止める意である“霊止”、この両者はいずれも“上”からの荷電粒子である。
これを止めることによっても派生するものである。 そしてそれは、こちら側(被造物である人間)から見れば日足(ひたり)回転となり、さらに“下”からの荷電粒子(砌(みぎり)回転)もあり、これらによって肉体(月(ツキ))内の電磁誘導が励起され、生体内電流を構成することになり、それはオーラの発振、発信となるものであるが、“一二三”のオーラのバランスは進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)を示すものであり、“一”=智性=1番目のオーラの大きさは(これまでも述べている通り)神格化に如何に近づいたのかを示すものでもある。

これらのことも鑑みて(かんがみて)、この四十帖の冒頭の伊邪那美(いざなみ)は肉体を持った進化過程が未熟な心(靈)の意であり、伊邪那岐(いざなぎ)は日足(ひたり)の極性であるから上を目指す心(靈)の意、言いかえれば自らの完成や進化=霊的成長、神格化に向かうことを求める心の動きといい得るし、それはまた、思惑=日足(ひたり)、事象に思惑を顕現すること=砌(みぎり)ということでもある。

そして“あれみましとつくれる国、末だつくりおへねど”というのは、“あれみまし”=この事象に存在する肉体(月(ツキ))を持った心(靈)、自分自身、“みまし”とは汝の意、二人称で目下を対象にした言い回し、“上”に対する“下”、“創造”の“主(ヌシ)”に対する人(日止、霊止)の意、そしてそれは“未だつくりおえねど”=未完成の心(靈)、それは“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)で示され、要は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の過程にある心(靈)の意味が“つくれる国、末だつくりおへねど”であり、いい換えれば肉体(月(ツキ))も心(靈)も神格化には程遠く未完成であるということ、そしてこれに続く文の“時まちてつくるへに、よいよ待ちてよと宣り給ひき。ここに伊邪那岐命、みましつくらはねば吾とつくらめ、と宣り給ひて、帰らむと申しき。”は、事象の“創造”に伴う法則性としての時間の進行=“時まちてつくるへに”であり、“よいよ待ちてよと宣り給ひき。”は、時間を掛けながら完成を目指さなければならないという意味の表記であると思うし、これに続く“ここに伊邪那岐命、みましつくらはねば吾とつくらめ、と宣り給ひて、帰らむと申しき。”は、日足(ひたり)の極性の象徴である伊耶那岐(いざなぎ)、この要素が無ければ肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)は完成に至らないということで、それを示す表記が“みましつくらはねば吾とつくらめ、”で、“みまし”は現津(あきつ)、観察され得る事象の観察のことであると思うし、日足(ひたり)の極性とともに育ち完成に至る表記が“つくらはねば吾とつくらめ”であると思う。

 それでこれに続く“ここに伊邪那美命 九(こ)聞き給ひて、”の表記の意味は、人の完成を目指す意味での、○ 九 十 の“九”が書かれ、その“九”の意味は幾度となく画像で示した通り、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”=智性=1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であるので、“伊邪那美命 九(こ)聞き給ひて”というのは、肉体(月(ツキ))を持った未完成の心(靈)(ヒ)が、“九”の意味を“聞き給いて”と解釈するのが妥当であり、その意味(“九”の意味)を理解した伊邪那美(いざなみ)=この事象に顕現している未完成の肉体(月(ツキ))を伴った心(靈)(ヒ)は、以下の電磁誘導=“雷”(いかつち)を肉体(月(ツキ))の各部に励起したと解釈する。
 このことを前提に“雷”(いかつち)(電磁誘導)のある表記を一つ一つ読み解くこととする。
 
先ず“御頭(みかしら)に大雷(おおいかつち)、オホイカツチ”は、“大雷(おおいかつち)”の“大”が、人が手足を広げた様の意があり、手足を持った生物の進化というのは左右相称動物であり脊椎動物でもある。 そして左右相称動物として進化した生物である人は、発達した神経(生体内電流の導線、コイル)とあらゆる生物が持つ縦の磁束の発達した脊椎(コイル状の神経と骨髄中の鉄分子(“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊)による電磁石の構造)によるローレンツ力ローレンツ力 の強化、そして“大”が示す手足の骨と神経(水平磁場を構成する)、胸腹部の内臓(コンデンサー)、これらが肉体(月(ツキ))内における円形加速粒子機(サイクロトロン、シンクロトロン)の構造を持つものであり、“雷”(いかつち)(電磁誘導)(電磁誘導とは磁束が変動する環境下に存在する導体に電位差(電圧)が生じる現象で、このとき発生した電流を誘導電流という)により励起された電磁誘導による生体内電流は神経を介して脳に送られるものであり、また感じ(感じる磁性)ること、これは肉体(月(ツキ))や心(靈)(ヒ)が感じうる外側(外国と幽界)の事象の振動や自らの心(靈)の動き、そして心(靈)の動きを現津(あきつ)、観察され得る事象に顕現することが行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)であり、それらすべてが生体内電流の増幅(“畐”)と変容となり、その生体内電流の変容そのものが“上”からの荷電粒子との反応を高めていく(古神道表記の“日止、霊止”の意義)からこそ左右の大脳半球(目上(めうえ)の脳)による水平磁場は“一”=智性=1番目のオーラを構成することとなっていくし、今後=アセンション後の人間はこの部分の進化が必須でもあるし、進化していないかあるいは進化の素地(自省(胸の磁性“十”))を持ちえない低い心(靈)は、アセンション後の場(フィールド)に位置する心(靈)からは“日月神示”にも出てくる表記のケダモノの進化過程にしか見えない。 いうまでもなくケダモノとは相対的な観察であり“上”から“下”を観て認識することでもあるが、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番でもある。
 次の“胸に火の雷(ホのいかつち)、ホノイカツチ、”の“火”は点二つと丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、点二つは回転を示し、よってこの字の表記そのものが胸の磁性“十”、シンクロトロン放射の意であり、そしてそのシンクロトロンなどの荷電粒子の回転は、生物学的元素転換(Biological Transmutations)(生物の内部で特定の元素が別の元素に転換する現象)を励起するとの私見を持つが、これについての詳細はもう少し考えをまとめてから文章にする。
それでカタカナ表記の“ホ”は“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から少し引用すれば、深き、高き、広き、の意を持ち、心の穂であると示され、これはまた日に立つ心(靈)=“意”、意志の意を指し示すものであると思うから、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す心(靈)そのものであり、それはまた“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)、“石屋の仕組み”、マニピューラチャクラ、ここまでの進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)を“日月神示”では“江戸と尾張”と称されてきていて、その“上”が、横隔膜(“日月神示”表記の“戸”、マニピューラチャクラからアナハタチャクラへの関門)に隔てられた胸であり、これが開くのが岩戸開き=“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことであり、重複するがそれがマニピューラチャクラからアナハタチャクラの覚醒であり、多くのチャネラーが宇宙的存在と称する霊的存在から受信した第三密度から第四密度への移行の意味。 そしてそれは心(靈)の動きとして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者になっていくことを示唆しているものであるが、そのことを示しているのが“ホノイカツチ”であると思う。
 次の“御腹には黒雷(くろいかつち)、黒雷(クロイカツチ)、”の“黒”は低振動を示す表記、横隔膜(“日月神示”表記の“戸”、マニピューラチャクラからアナハタチャクラへの関門)から“上”に引き上がるべき低いエネルギーの意であり、さらにまた“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの荷電粒子は振動の荒い物も注がれている。
それでその次の“かくれに折雷(さくいかつち)、サクイカツチ、”は、生殖器を中心とした組織(かくれ)にたまるエネルギーで、それは“折”という字が電気抵抗を示すものであると思うので、下腹全体が低い振動を貯めるコンデンサーであり、またそれはチャクラ(荷電粒子の回転を示す)でいえばムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、までのことであると思う。
 それで次は手足の表記であり、まず“左の御手に若雷(わきいかつち)、ワキ井カツチ、”は、“若”(わき、ワキ)は、湧く気、“創造”をなすべく砌(みぎり)のエネルギーであり、それは左脳から反対の右に顕現するのでこの表記そのものが“思惑の顕現”=現象化の意があり、それに対し“右の御手に土雷(つちいかつち)、ツチイカツチ、”の“土”は、“王”、人の完成された意を持つ表記から“一”=智性=1番目のオーラを差し引いたのが“土”であり、それは縦の磁束|(たてぼう、こん、縦の磁性))と“二”であるから土は2~3番目のオーラを指す表記であり、それはこれまで述べている通り、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”をするにあたって必要なエネルギーである。 そしてこれに続く足の表記の“左の御足に鳴雷(なるゐかつち)、ナルイカツチ。 右の御足に伏雷(ふしいかつち)、フシ井カツチ、”は、やはり右の足は左脳、左の足は右脳、その反転する神経経路の意味を持ち、左足の“鳴雷(なるゐかつち)”は、肉体の“下”の振動が“鳴る”の意であり、これは右脳に入り、そして右足の“伏雷(ふしいかつち)”の“伏”は臥の意、伏せる、床に入る、この“雷”(いかつち)(電磁誘導)による生体内電流は左脳に入り、“伏”=留まり溜まりすぐに顕現しないの意味だと思うし、すぐに顕現しないこと、それは日足(ひたり)の極性で良いカタチ、それは“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)とか価値観とか霊的成長をしっかり考え考えて行動すること自体が思惑優先の事象の“創造”ということになっていくので、神の子である人、神の思惑を顕現するべく人はそうあるべきであるということが述べられていると思うし、その元のエネルギーが右足による“雷”(いかつち)(電磁誘導)でそれは左脳に入り“創造”のための思想を構築するということだと思う。
 それで手足の表記の最後に述べられている“なり給ひき。”は、この“雷”(いかつち)(電磁誘導)が肉体(月(ツキ))を持った心(靈)の成長の理(ことわり)であり、法則性であることを指し示す表記。 

 次の表記の“伊邪那岐の命、是見(こみ)、畏みてとく帰り給へば、妹伊邪那美命は、よもつしこめを追はしめき、ここに伊邪那岐命 黒髪かつら取り、また湯津々間櫛(ゆつつまぐし)引きかきて、なげ棄(う)て給ひき。 伊邪那美命 二(つき)の八くさの雷神(いかつちかみ)に黄泉軍(よもついくさ)副(そ)へて追ひ給ひき。”だが、伊邪那美(いざなみ)=肉体(月(ツキ))を持った心(靈)による“雷”(いかつち)(電磁誘導)は、進化過程において最初は失敗をするものであり、それはローム太霊の言葉の右往左往であり、砌(みぎり)の極性の高まりでもあるが、今の地球がその状態で、だから恨みの連鎖の霊的干渉の増大によりどんどん浮遊霊は増しているがそれが“よもつしこめ”に象徴されているとしか思えない。 ちなみに第四十帖の表記の“よもつしこめ”、これは漢字で書かれていないが古事記の表記なら“黄泉醜女”で、黄色はスワディスターナチャクラの発色であり、それがいずる意で泉、女は砌(みぎり)の極性(事象への顕現)、それが醜い、これはムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラの進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)による行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)が外側(外国と幽界)の事象ばかりを意識してその低い進化の心(靈)が持つ価値観による行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から観たならば醜いのだという解釈をする。 それで艮(うしとら)の金神は古事記の表記からこの部分を抽出して岡本天命に書かせたのだと思う。 それは古事記の表記と比べれば、伊邪那岐(いざなぎ)は黄泉醜女に髪飾りを投げつけ、そこから山葡萄が生えその実を黄泉醜女は食べたとか、それを食べ終わるとまた伊邪那岐(いざなぎ)を追いかけ伊邪那岐(いざなぎ)は湯津津間櫛(ゆつつなくし)を取りその歯を折って投げ、するとタケノコが生えてきて…この表記は省かれており、その意図は艮(うしとら)の金神が今の進化過程の地球人に気付いて欲しいこと、下三つのチャクラの覚醒段階=その進化過程の心(靈)の動きの顕現(砌(みぎり))は、“上”から観たら進化の理(ことわり)に沿っていなくて醜いのだということを知れということだと思う。
 そして今取り上げている文の中の表記の“湯津々間櫛(ゆつつまぐし)”は、腹の水(“江戸と尾張”)の中の錯体により結晶化した櫛の歯のような高分子化したタンパク質の意であり、“伊邪那美命 二(つき)の八くさ”は、肉体(月(ツキ))の“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道の意味合いが、“二(つき)の八くさ”の二と八とで示されていると思う。
 要は低い進化過程における心(靈)の動きは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であることが述べられ、それは醜いのであるが、それがこの後に続く文を見れば“ここに伊邪那岐命 十挙剣(とづかのつるぎ)抜きて後手(しりへて)にふきつつさり、三度 黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到り給ひき。”と書かれており、“十拳剣(とつかのつるぎ)”は、胸の磁性“十”の意で、それにより低い心(靈)は諌められ、諌められるから“上”に向かうことが出来る意のことが書かれていると思うし、今までも述べてきたことであるが胸の磁性“十”は、それが高まればクンダリーニの白光(シンクロトロン放射)となり、それは、天皇の表記の意味の天=“一”=智性=1番目のオーラ+自省(胸の磁性“十”)+人(日止、霊止)の白い(シンクロトロン)+“王”(“一二三(ひふみ)”の完成)の胸の磁性“十”で、あることを書き添えておく。
それでこれに続く“三度 黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到り給ひき”は、神格化のための三つの関門、それは“黄泉”の“比良坂(ひらさか)”の“坂本”と表され、黄泉は先に解釈したスワディスターナチャクラであり、“坂”は“上”と“下”を示し、その上下は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)かその反対か、あるいは行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)ならば“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”かということであり、“坂本”の本は“本津宮”(もとつみや)の本であり、本来在るべき姿、神格化を目指す生命(生きる使命=存在理由)であることを思い出せというのが古神道の“本津宮”(もとつみや)に帰れという意味であるから、自省(胸の磁性“十”)せよということに他ならないし、三度というのは、“一二三”のオーラそれぞれの心(靈)の発現と動き(それはおおよそ、本能、情動、功名心、自我=三、愛(炁)、創造、知恵=二、智慧、智性=一)は、それぞれが右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするするからこう述べられていると思う。
 それでこれに続く“坂本なる桃の実一二三(ひふみ)取りて待ち受け給ひしかば、ことごとに逃げ給ひき。 ここに伊邪那岐命 桃の実に宣り給はく、汝(みまし)吾助けし如、あらゆる青人草の苦瀬(うきせ)になやむことあらば、助けてよと宣り給ひて、また葦原の中津国にあらゆる、うつしき青人草の苦瀬に落ちて苦しまん時に助けてよとのり給ひて、
おほかむつみの命、オオカムツミノ命と名付け給ひき。”は、先に述べた“一二三”のオーラのそれぞれの心(靈)の右往左往と左往右往による進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、それが“坂本なる桃の実一二三(ひふみ)”でそれを“取りて待ち受け給ひ”、何を“取りて”は意富加牟豆美神(オホカムツミノカミ)に示される桃の実(これについては“日月神示”天つ巻 第二十六帖 Kellyさん的解釈
“この方はオホカムツミノ神とも現はれるのざぞ、
時により所によりてはオホカムツミノ神として祀りて呉れよ、”
を参照のこと)で、それを持って待っているのは先に解釈した“よもつしこめ”であると書かれている。 要は“一二三”のオーラの進化の関門である右往左往と左往右往を乗りこなすのがこの桃の実であり、それは“青人草の苦瀬(うきせ)になやむことあらば、助けてよと宣り給ひて、また葦原の中津国にあらゆる、うつしき青人草の苦瀬に落ちて苦しまん時に助けてよとのり給ひて、おほかむつみの命、オオカムツミノ命と名付け給ひき。”と書かれているが、“青人草”(あおひとくさ)については以前解釈したので、その時に作った以下の画像で意味を示す。

“青人草”(あおひとくさ)の解字

 それで“青人草の苦瀬(うきせ)になやむことあらば、”と“葦原の中津国にあらゆる、うつしき青人草の苦瀬に落ちて苦しまん時”に“助けてよと宣り給ひ”と書かれている“おほかむつみの命、オオカムツミノ命”は意富加牟豆美で、これも画像で意味を示すこととする。

意富加牟豆美(オホカムツミ)の解字


 この意富加牟豆美(オホカムツミ)も、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に必須な“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化を示し、さらに“意”は難行苦行でもある“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを指し示し、それは日足(ひたり)の極性が顕れた強い意志によってなされることを感じさせる表記である。
これに続く“ここに伊邪那美命 息吹き給ひて千引岩(ちびきいわ)を黄泉比良坂に引き塞(そ)へて、その石なかにして合ひ向ひ立たして つつしみ申し給ひつらく、うつくしき吾が那勢命(なせのみこと)、時廻り来る時あれば、この千引の磐戸、共にあけなんと宣り給へり、ここに伊邪那岐命しかよけむと宣り給ひき。”の“千引岩(ちびきいわ)”と“千引の磐戸”の“千引”は、“千”が丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と胸の磁性“十”であり“引”は背骨の意味を持つ弓と|(たてぼう、こん、縦の磁性))、そして“岩”は脳の表記の山と“石”(帯電するミネラル)、“磐戸”は、横隔膜(“日月神示”表記の“戸”、マニピューラチャクラからアナハタチャクラへの関門)であると解釈する。 よってこの文は肉体(月(ツキ))を持った進化過程の低い心(靈)を表す表記の伊邪那美(いざなみ)は、自らの心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)するが、それは低い進化だから“黄泉比良坂に引き塞(そ)へて”と示され、だがその低い心(靈)はいずれは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するのだから“その石なかにして合ひ向ひ立たして つつしみ申し給ひつらく、うつくしき吾が那勢命(なせのみこと)、時廻り来る時あれば、この千引の磐戸、共にあけなんと宣り給へり”と書かれ、それは“時廻り来る時あれば、この千引の磐戸、共にあけなん”というのは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者への進化であり、それがきたるべき霊的成長度の高低において区別されるアセンションという事象に相対する心(靈)となることである。 ちなみに“うつくしき吾が那勢命(なせのみこと)”の那は美しい、広がる、大きいの意、それが勢いよくそうなれ、それが使命という意味であり、いうまでもなくそれは“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を顕現する“日止、霊止”であり、“日月神示”表記の“天詞様”(“上”の思惑と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して具体的な詞(ことば)とする、それは自分の思想として認識し、それを理念として事象の“創造”をする)である。
この文に関してここまで述べたことを踏まえてこの文を簡略に解釈すれば、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)の高まりが“伊邪那美命 息吹き給ひて千引岩(ちびきいわ)を黄泉比良坂に引き塞(そ)へて、その石なかにして合ひ向ひ立たし”であり、それに対しこの事象に顕現した神の子としての人は“うつくしき吾が那勢命(なせのみこと)、時廻り来る時あれば、この千引の磐戸、共にあけなんと宣り給へり、ここに伊邪那岐命しかよけむと宣り給ひき”となる。 それは肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)の神格化ということ、あるいは神格化に向かうことの意が“伊邪那岐命しかよけむと宣り給ひ”。
次の“ここに妹(いも)伊邪那美の命、汝(みまし)の国の人草、日にちひと死(まけ)と申し給ひき。 伊邪那岐命 宣り給はく、吾は一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)生まなむと申し給ひき。”だが、古事記の解釈のように伊邪那美(いざなみ)が千人殺すとははっきり書かれておらず“日にちひと死(まけ)と申し給ひき”と書かれておりそれは“汝(みまし)の国の人草”を対象にいわれているし、この“国”の“人草”は、草が先に画像で示した通りの意味であるなら進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を志した(肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)である)人の意であるし、また古事記の解釈の要に伊邪那岐(いざなぎ)が千五百の産屋を立てるとも書かれていず“伊邪那岐命 宣り給はく、吾は一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)生まなむと申し給ひき”と書かれ、これは先の“吾が那勢命(なせのみこと)、時廻り来る時あれば、この千引の磐戸、共にあけなんと宣り給へり”を対象にした言い方であるから、進化の理(ことわり)である右往左往と左往右往は、千の失敗、あるいは千の死、これは肉体(月(ツキ))内の新陳代謝を思い起こさせるものでもあるが、進化というのは時間の進行とともにレベルが上がり増すし殖えるのであるから“千五百(ちいほ)生まなむ”ということになっていくのだと思うし、これは地球人の世界のことだけではなく、先にも触れたが肉体(月(ツキ))内の新陳代謝でもあるだろうし、あるいは地球人の物理学者が気が付いている膨張宇宙の成り立ちはこうであることを示唆していると解釈するし、それはミクロからマクロ(“観察と認識”における微視的と巨視的)まで一貫して“創造”の“主(ヌシ)”の理(ことわり)に貫かれているからこそ観察しうる事象は相似象であることを思い起こさせるものでもある。
そして最後の“この巻二つ合して日月の巻とせよ。”は、心(靈)(ヒ)=日、肉体(月(ツキ))、そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、これが日月の巻で述べられているからこそ、こう述べられているのである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
FC2ブログへようこそ!


Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
(クリックで拡大)

2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
(クリックで拡大)


発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
(クリックで拡大) 

お近くの書店にない場合は
たま出版のサイトでお買い求めください。

発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
(クリックで拡大)

お近くの書店に無いときは
たま出版のサイトでお買い求めください。

この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




初めての方は、
・・・その後の事と・・・これからの事。
からお読みください。

それぞれのカテゴリーをクリックすると
古い順に、記事が閲覧できます。

        

☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (104)
Kellyさんがこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)に伝えたい事 (22)
Kellyさんと○○○大先生との会話 (7)
Kellyさんとチョ~極上ラブラブ中高年夫婦はんとの会話 (6)
Kellyさんとチョ~ベッピンはんのA野はんとの会話 (7)
Kellyさんと∪・ω・∪ ▼・。・▼ ▼・。・▽ U・。・U U。・ェ・。U たちとの会話 (33)
Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
Kellyさんとややメタボ内科医のYっちゃん先生との会話 (7)
Kellyさんと和風のベッピンはんのSはんとの会話 (2)
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話 (12)
KellyさんとNominyan ∥*σ_σ*∥&Senyapoo λ*゜ο゜*λ との会話 (6)
☆ Kellyさん的“日月神示”解釈 (465)
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (15)
“日月神示” 上つ巻 (42)
“日月神示” 下つ巻 (38)
“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
“日月神示” 地つ巻 (36)
“日月神示” 日月の巻 (68)
“日月神示” 日の出の巻 (23)
“日月神示” 磐戸の巻 (21)
“日月神示” キの巻 (17)
“日月神示” 水の巻 (36)
“日月神示” 松の巻 (30)
“日月神示” 夜明けの巻 (26)
“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (11)
“日月神示” 荒の巻 (13)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (107)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
予約制 鍼(はり) 灸(きゅう) マッサージ治療 児玉療院
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




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