“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 日の出の巻 第二十帖 Kellyさん的解釈

 今回も、日の出の巻 第二十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

今度は世に落ちておいでなされた神々様をあげねばならぬのであるぞ、臣民も其の通りざぞ、神の申す通りにすれば何事も思ふ通りにすらすらと進むと申してあろがな。
此れからは神に逆らふものは一つも埓あかんぞ、やりてみよれ、九分九厘でぐれんざぞ。神の国は何うしても助けなならんから、神が一日一日と延ばしてゐること会得らんか。
皆の者がかみを軽くしてゐるからお蔭なくなってゐるのざぞ、世の元の神でも御魂となってゐたのではまことの力出ないのざぞ。
今度の経綸(しぐみ)は世の元の生き通しの神でないと間に合はんのざぞ。 何処の教会も元はよいのであるが、取次役員がワヤにしてゐるのぞ、今の様(さま)は何事ぞ。
此の方は力あり過ぎて失敗(しくじ)った神ざぞ、此の世かもう神でも我出すと失敗るのざぞ、何んな力あったとて我出すまいぞ、此の方がよい手本(みせしめ)ぞ。
世界かもう此の方さへ我で失敗ったのぞ、執念(くど)い様なれど我出すなよ、慢心と取違ひが一等気ざはりざぞ。
改心ちぐはぐざから物事後先になりたぞ、経綸少しは変るぞ。
今の役員、神の道広めると申して我(われ)を弘めてゐるでないか、そんな事では役員とは言はさんぞ。
今迄は神が世に落ちて人が神になりておりたのぞ、これでは世は治まらんぞ。 神が上(かみ)で、臣民、人民 下におらねばならんぞ。 吾が苦労して人救ふ心でないと、今度の岩戸開けんのざぞ、岩戸開きの御用する身魂は吾の苦労で人助けねばならんのざ。
十年先は、五六七(みろく)の世ざぞ、今の人間 鬼より蛇より邪見ざぞ、蛇の方が早う改心するぞ、早う改心せねば泥海にせなならんから、神は日夜の苦労ぞ。
道は一つと申してあろがな、二つ三つ四つあると思ふてはならんぞ、足元から鳥立つと申してあろが、臣民 火がついてもまだ気付かずにゐるが、今に体に火ついてチリチリ舞ひせなならんことになるから、神、執念気つけておくのざぞ。三四気つけて呉れよ、神の国は神の力で何事も思ふ様に行く様になりてゐるのに、学や智に邪魔されてゐる臣民ばかり、早う気付かぬと今度と云ふ今度は取返しつかんぞ。
見事なこと神がして見せるぞ、見事なことざぞ、人間には恐しいことざぞ、大掃除する時は棚のもの下に置く事あるのざぞ、下にあったとて見下げてはならんぞ、この神は神の国の救はれること一番願ってゐるのざぞ、外国人も神の子ではあるが性来が違ふのざぞ、神の国の臣民がまことの神の子ざぞ、今は曇りてゐるなれど元の尊い種植えつけてあるのざぞ、曇り取り去りて呉れよ、依怙(えこ)の様なれど外国は後廻しぞ、同じ神の子でありながら神の臣民の肩持つとは公平でないと申す者あるなれど、それは昔からの深い経綸であるから臣民には会得(わから)んことであるぞ、一に一足す二でないと申してあろが、何事も神の国から神の臣からぞ、洗濯も同様ぞ。今度の御用外(はず)したら何時になりても取返しつかんことになるのざから、心して御用して呉れよ、遣り損なひ出来ないことになりてゐるのざぞ。
天に一柱 地に一柱 火にも焼けず水にも溺れぬ元の種隠しておいての今度の大建替ぞ、何んなことあっても人間心で心配するでないぞ、細工は隆々仕上げ見て呉れよ、此の神はめったに間違いないぞ。
三千年 地に潜りての経綸で、悪の根まで調べてからの経綸であるから、人間殿 心配せずに神の申す様 素直に致して下されよ。
末法の世とは地の上に大将の器(うつわ)無くなりてゐることざぞ。オロシヤの悪神(あく)と申すは泥海の頃から生きてゐる悪の親神であるぞ。
北に気つけて呉れよ、神の国は結構な国で世界の真中の国であるから、悪の神が日本を取りて末代の住家とする計画でトコトンの智恵出して何んなことしても取る積りで愈々を始めてゐるのざから余程褌締めて下されよ、日本の上に立ちて居る守護神に分りかけたら ばたばたに埓あくぞ。早う改心して呉れよ。
十二月二十六日、一二 ローレンツ力と ○

 この第二十帖の長い文は、ここまでの日の出の巻や、日の出の巻が書かれる前の、上つ巻、下つ巻、富士の巻、天つ巻、地つ巻、日月の巻、それぞれで述べられてきた人間の在り方、心(靈)(ヒ)の在り方などが示唆された文であると思う。
そして、今後=アセンション後の人はここで述べることをよく知っておけみたいなニュアンスの文章でもあると思う。
 
 まず、冒頭の文。
“今度は世に落ちておいでなされた神々様をあげねばならぬのであるぞ、臣民も其の通りざぞ、神の申す通りにすれば何事も思ふ通りにすらすらと進むと申してあろがな。”
 “今度”はいうまでもなく今後=アセンション後のこと、“世に落ちておいでなされた神々様をあげねばならぬ”は、今現在の大半の人の神の認識がとんでもなく低いものになっており、それを低くした、形骸の物にした、真の価値を見出すことが出来ないようにしたのは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きであることをこれまでも散々述べてきているが、そのことを指し示す文であり、よって平均的地球人が持っている神に対する既成概念というのはとんでもなく低くなっており、それが今後=アセンション後に向かってはきちんとしたものになっていかなければならないのであるから“世に落ちておいでなされた神々様をあげねばならぬ”のであり、平均的地球人の神に対する低い認識を改めねばならぬから“臣民も其の通り”であるし、本当に“上”である神の法則性、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性に従うならば“神の申す通りにすれば何事も思ふ通りにすらすらと進む”と述べられている。

 次の文。
“此れからは神に逆らふものは一つも埓あかんぞ、やりてみよれ、九分九厘でぐれんざぞ。神の国は何うしても助けなならんから、神が一日一日と延ばしてゐること会得らんか。
皆の者がかみを軽くしてゐるからお蔭なくなってゐるのざぞ、世の元の神でも御魂となってゐたのではまことの力出ないのざぞ。”
 この文も今後=アセンション後の“道”(時間の進行)は、“上”の“思惑の顕現”=現象化であることを示唆され、これまでの平均的地球人の思惑による行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は間違っていること、“理(ミチ)”(法則性)に反していることが述べられている。 それは“此れからは神に逆らふものは一つも埓あかんぞ、やりてみよれ、九分九厘でぐれんざぞ”の文の“神に逆らふもの”=進化の“理(ミチ)”に反したもの、この“もの”という表記は者であり物であり、いわゆるすべての事象という言い回しが理解しやすいと思う。
 そして“神の国は何うしても助けなならん”の“神の国”は、特定の地域を指すのではなく、右翼傾向のある人が良く使う神国という意味でもなく、“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)と神であるから、神格化を目指す心(靈)と解釈するのが妥当であるし、今後=アセンション後は、先に解釈した“世に落ちておいでなされた神々様をあげねばならぬ”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をよく認識してそのために生業(なりわい)も“行”も行う人だけになることを示唆した文で、今アセンションに伴う“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きが“創造”した結果である“神の咎め”を“神が一日一日と延ばしてゐること会得らんか”=猶予しているのは、一人でも多く次の段階に進める心の在り方と霊的資格を獲得せよという“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の“慈悲”と“慈愛”による言い回しであるし、“皆の者がかみを軽くしてゐるからお蔭なくなってゐる”は、先に述べたように平均的地球人の心(靈)が神の認識をまったく低くしてしまっていること、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))が、自分たちの利益のために見せかけの“お蔭”(“上”との感応により事象が良くなること、ただしこれは“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に則って(のっとって)いなければならない)を述べているからこそ=宗教や神の概念を低いものにしてしまっているからこそ、“皆の者がかみを軽くしてゐるからお蔭なくなってゐる”のであるし、これに続く“世の元の神でも御魂となってゐたのではまことの力出ないのざぞ”の“世の元の神でも御魂となってゐたのでは”というのは、実際に活かされていない=“御魂となって”であり、実際に自分たちの思想に神の思惑を取り込み、真に神の理解を深め、神と人間の関係を真剣に考え、それが無ければ進化=霊的成長、神格化に向かうことの認識(悟り、幸取=さとり)など当然芽生えることもないが、今後=アセンション後の人間はこれらのことが当然になる、またその資質が無ければ次の段階には移行できないことを述べてきたが、今後=アセンション後は自分たちの思想や行動に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のこと、神と人間のこと、これが活かされ、それに対して今は平均的地球人の低い心(靈)の発振、発信で“創造”されている世界(現津(あきつ)、観察され得る事象)であることを強調した言い回しが“世の元の神でも御魂となってゐたのではまことの力出ない”=形骸であり、見せかけに成り果てているということでしかないということでもある。
 
 次の文。
“今度の経綸(しぐみ)は世の元の生き通しの神でないと間に合はんのざぞ。 何処の教会も元はよいのであるが、取次役員がワヤにしてゐるのぞ、今の様(さま)は何事ぞ。
此の方は力あり過ぎて失敗(しくじ)った神ざぞ、此の世かもう神でも我出すと失敗るのざぞ、何んな力あったとて我出すまいぞ、此の方がよい手本(みせしめ)ぞ。
世界かもう此の方さへ我で失敗ったのぞ、執念(くど)い様なれど我出すなよ、慢心と取違ひが一等気ざはりざぞ。
改心ちぐはぐざから物事後先になりたぞ、経綸少しは変るぞ。
今の役員、神の道広めると申して我(われ)を弘めてゐるでないか、そんな事では役員とは言はさんぞ。”
 冒頭の“今度の経綸(しぐみ)”は、いうまでもなく今後=アセンション後の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、そして“世の元の生き通しの神”これを自らの心の中に認識(悟り、幸取=さとり)とするものでなければ“間に合はん”。 これに続く“何処の教会も元はよいのであるが、取次役員がワヤにしてゐるのぞ、今の様(さま)は何事ぞ”は、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))が、先の“世に落ちておいでなされた神々様をあげねばならぬ”と“皆の者がかみを軽くしてゐる”に示されていることと同じで、要は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”=“何処の教会も元はよいのであるが、(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の教えを伝える)取次役員がワヤにしてゐる”に利用されているから大概の人は甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)夢を見て本当のこと=“今度の経綸(しぐみ)”を知ろうとせず、人生における厳しさを避けたり御利益しか求めていない=霊的成長を避けることをしている。 だから“間に合はん”=アセンション落第組であるが、それが大多数だからこそ“今の様(さま)は何事ぞ”といわれている。
 これに続く“此の方は力あり過ぎて失敗(しくじ)った神ざぞ、此の世かもう神でも我出すと失敗るのざぞ、何んな力あったとて我出すまいぞ、此の方がよい手本(みせしめ)ぞ。 世界かもう此の方さへ我で失敗ったのぞ、執念(くど)い様なれど我出すなよ、慢心と取違ひが一等気ざはりざぞ。 改心ちぐはぐざから物事後先になりたぞ、経綸少しは変るぞ。 今の役員、神の道広めると申して我(われ)を弘めてゐるでないか、そんな事では役員とは言はさんぞ。”の“此の方”は、これまでも霊的成長の仕組みを見出した人(心(靈)(ヒ))であると解釈してきた。 それでこの文では自我の肥大(“石屋の仕組み”)について述べられている。 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)というのは“下”から発達するのであるから心(靈)の構造としての本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性は、まず腹から“下”の強化があり、“行”の段階もまず腹から“下”を強くせねばならないから断食や滝行などという具体的な方法が“上”から示されてもいる。 そして下三つのチャクラの強化、3番目のオーラが大きくなり、それが“上”に引き上がり、2番目となり、“一”=智性=1番目のオーラとなっていくのだが、まず土=2~3番目のオーラがしっかりしていなければ智性(神性)のオーラになっていかないことはこれまでも述べてきたので割愛して、要は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番は“下”から行われ、その過程では必ず自我の肥大ということを体験するし、自我の肥大という心の動きがあるからこそローム太霊が述べた右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするという体験をして自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを持ち、それが“慈悲”と“慈愛”という心の動きとなるし、この過程は必須でもある。 だからこの文では“力あり過ぎて失敗(しくじ)った”“我出すと失敗る”“何んな力あったとて我出すまいぞ、此の方がよい手本(みせしめ)ぞ”“我で失敗ったのぞ、執念(くど)い様なれど我出すなよ、慢心と取違ひが一等気ざはりざぞ”と述べられ、本当の心の在り方を見出していく過程として“改心ちぐはぐざから物事後先になりたぞ、経綸少しは変る”といわれ、“下”(低い心(靈))の強化が行われる過程では自我の肥大があることを先に述べたが、その時は自分は悪くないとか自分は正しいとかあるいは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が間違っているのではないかとかいろいろ考えるものでもあるがそのこと自体が“改心ちぐはぐ”という心の動きであり、“上”に沿うという恭順差を忘れている心になるものでもある。 そしてこれに続く“今の役員、神の道広めると申して我(われ)を弘めてゐるでないか、そんな事では役員とは言はさんぞ”は、“役員づら”は自我の肥大をして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きをしているから自我の肥大を述べた文でついでに述べられていることであると思うし、これは次の文に続いていく。 よって次の文。
“今迄は神が世に落ちて人が神になりておりたのぞ、これでは世は治まらんぞ。 神が上(かみ)で、臣民、人民 下におらねばならんぞ。 吾が苦労して人救ふ心でないと、今度の岩戸開けんのざぞ、岩戸開きの御用する身魂は吾の苦労で人助けねばならんのざ。”
 この文の“今迄は神が世に落ちて人が神になりておりた”は、程度の低い神、“上”、に対する解釈を揶揄した言い方だと思え、それはいうまでもなく“役員づら”が自分たちの利益のために宗教や“上”が伝えた言葉や文章を自分たちの都合よく解釈を述べたり、都合よく利用したり、要は“役員づら”の行いであるが、それは天意ではないから=凡ての存在の進化を望んでいる“上”の思惑ではないから“世は治まらん”といわれ、形骸の神の概念、“上”の概念を、形骸だと認識しよく考えねばならないから“神が上(かみ)で、臣民、人民 下におらねばならん”と述べられ、本当に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す人の在り方は“吾が苦労して人救ふ心でないと、今度の岩戸開けんのざぞ、岩戸開きの御用する身魂は吾の苦労で人助けねばならん”であり、それをひとことで述べたのがローム太霊の言葉でもある“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)ということになるものである。
そして“今度の岩戸開けんのざぞ、岩戸開きの御用する身魂は吾の苦労で人助けねばならん”の“岩戸開き”は、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、要は自我から“上”の心である“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現である。

 次の文。
“十年先は、五六七(みろく)の世ざぞ、今の人間 鬼より蛇より邪見ざぞ、蛇の方が早う改心するぞ、早う改心せねば泥海にせなならんから、神は日夜の苦労ぞ。”
 冒頭の“十年先は”というのは10年後という意味合いのことではなく、やはり胸の磁性“十”を獲得したその経過だという解釈が妥当だと思えるし、それだからこそ“五六七(みろく)”、五は糸巻、神経が密になったさま、“六”(爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味、“七”=“一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)、これは平均的地球人よりも“慈悲”と“慈愛”のここが発現した様を表しており、その人たちの世=事象がアセンション後の事象でもある。 それで“今の人間 鬼より蛇より邪見ざぞ、蛇の方が早う改心する”は揶揄した言い方で、今の人間が我欲で鬼のようになっていることを示され、ほとんど縦の磁性しか持っていない蛇の方がまともであると述べられており、これに続く“早う改心せねば泥海にせなならん”はいうまでもなくアセンションに移行する際の“神の咎め”、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に下るバチ、自省(胸の磁性“十”)のための体験、災害や恨みの連鎖の霊的干渉の現象化による様々な現津(あきつ)、観察され得る事象を自我の肥大した心が味わうことをしなければ自省(胸の磁性“十”)に至らない。 そのことを少しでも自我の肥大した心に教えねばならないからこの“日月神示”も“上”から垂れたものであるが、こういった情報はたくさんあるが“役員づら”によって捻じ曲げられ、それは低い霊的成長度の人間は低い解釈しかしないからでもあるが、“上”は何とかそれを多くの人間に教えようとしている、それを示したのが“神は日夜の苦労”ということでもある。

 次の文。
“道は一つと申してあろがな、二つ三つ四つあると思ふてはならんぞ、足元から鳥立つと申してあろが、臣民 火がついてもまだ気付かずにゐるが、今に体に火ついてチリチリ舞ひせなならんことになるから、神、執念気つけておくのざぞ。三四気つけて呉れよ、神の国は神の力で何事も思ふ様に行く様になりてゐるのに、学や智に邪魔されてゐる臣民ばかり、早う気付かぬと今度と云ふ今度は取返しつかんぞ。”
 この文も進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)はただ一つしかないと強調されている言い回しで、今“役員づら”の情報が満ち満ちており、霊的成長度の低い人の解釈が規制の宗教や似非スピリチュアルなどに成り果てそれがほとんど既成概念のようになっているが、それは“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っていないから“二つ三つ四つあると思ふてはならん”“足元から鳥立つと申してあろ”“臣民 火がついてもまだ気付かずにゐるが、今に体に火ついてチリチリ舞ひせなならんことになる”と、今までとは違う、それは平均的地球人の神や“上”の認識とは程度が違いすぎることをこの言い回しで示唆されているし、それを強調した言い回しが“(“役員づら”の情報を)学や智(とした心(靈)(ヒ))に邪魔されてゐる臣民ばかり、早う気付かぬと今度と云ふ今度は取返しつかん”と述べられ、本当の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は、“神の国は神の力で何事も思ふ様に行く様になりてゐる”=“上”と感応している心(靈)、“神の国”は、天意に沿っているからこそ“神の力で何事も思ふ様に行く様になりてゐる”ということであり、“三四気つけて呉れ”の“三”は“一二三”のオーラであり、“四”は“善言(よごと)”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、願い、希望、祈り、“思惑の顕現”=現象化の意味合いである。

 次の文。
“見事なこと神がして見せるぞ、見事なことざぞ、人間には恐しいことざぞ、大掃除する時は棚のもの下に置く事あるのざぞ、下にあったとて見下げてはならんぞ、この神は神の国の救はれること一番願ってゐるのざぞ、外国人も神の子ではあるが性来が違ふのざぞ、神の国の臣民がまことの神の子ざぞ、今は曇りてゐるなれど元の尊い種植えつけてあるのざぞ、曇り取り去りて呉れよ、依怙(えこ)の様なれど外国は後廻しぞ、同じ神の子でありながら神の臣民の肩持つとは公平でないと申す者あるなれど、それは昔からの深い経綸であるから臣民には会得(わから)んことであるぞ、一に一足す二でないと申してあろが、何事も神の国から神の臣からぞ、洗濯も同様ぞ。今度の御用外(はず)したら何時になりても取返しつかんことになるのざから、心して御用して呉れよ、遣り損なひ出来ないことになりてゐるのざぞ。”
 冒頭の“見事なこと神がして見せるぞ、見事なことざぞ、人間には恐しいこと”これも現状の低い心(靈)が創造した低い事象に対しての相対的な言い回し。 そして事象の“上”“下”、心(靈)(ヒ)の“上”“下”、“上”の心が“創造”した事象なのか“下”の心(靈)が“創造”した事象なのかをよく知れという言い回しが“大掃除する時は棚のもの下に置く事あるのざぞ、下にあったとて見下げてはならんぞ”である。 これに続く“この神は神の国の救はれること一番願ってゐるのざぞ、外国人も神の子ではあるが性来が違ふのざぞ、神の国の臣民がまことの神の子ざぞ、今は曇りてゐるなれど元の尊い種植えつけてあるのざぞ、曇り取り去りて呉れよ、依怙(えこ)の様なれど外国は後廻しぞ”の“外国”の表記は外側(外国と幽界)の事象のことであり、心(靈)(ヒ)が変わらなければ外側(外国と幽界)の事象は変わらないという当たり前のことを述べているのに過ぎないし、“外国人”というのはまだ外側(外国と幽界)の事象しか見ていない程度の低い心(靈)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の低い心(靈)のことを指し、当然のことながらこの低い進化過程の心(靈)は外面しか分からず、外見の美を求めたり、物欲や本能由来の幸福感しか持ちえないが、それはいうまでもなく“石屋の仕組み”=自我の肥大であり“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)でもあるし、もうすぐ訪れるアセンションの時期に間に合う要素が少ないから“外国人も神の子ではあるが性来が違ふ”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の程度が違うと述べられている。 そしてこれに続く“神の国の臣民がまことの神の子ざぞ、今は曇りてゐるなれど元の尊い種植えつけてあるのざぞ、曇り取り去りて呉れよ、依怙(えこ)の様なれど外国は後廻しぞ”の“神の国”は先に述べたように進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を志す心(靈)(ヒ)であり、それを強調した言い回しが“まことの神の子”であり、誰もがそれを持っているのであるが=動物よりも進化して多少の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持ってはいるが、それが“今は曇りてゐるなれど元の尊い種植えつけてある”の意味であり、智性(神性)があれば神格化を目指すのが“理(ミチ)”であり“道”であるし、それをよく自覚するには“曇り取り去りて呉れ”=しっかり自分の心(靈)を観察し心(靈)(ヒ)の動きの“上”“下”を見出していけ、ということであり、これに続く“依怙(えこ)の様なれど外国は後廻し”は、外側(外国と幽界)の事象しか分からない進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の程度が低い心(靈)はアセンション落第組であること自体が人には“依怙(えこ)の様”、差別のように映るということであるし、これに続く“同じ神の子でありながら神の臣民の肩持つとは公平でないと申す者あるなれど、それは昔からの深い経綸であるから臣民には会得(わから)んことであるぞ”の文で、さらに今述べたことを強調しているし、このことは平均的地球人の認識では理解しにくいから“昔からの深い経綸である”といわれ、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)がほとんどの地球人に分かっていないことを述べられている。
 これに続く“一に一足す二でないと申してあろが、何事も神の国から神の臣からぞ、洗濯も同様ぞ”の“一に一足す二でない”は、外側(外国と幽界)の事象しか見ていないと一たす一は二にしか見えないが、そこに霊的干渉が加われば結果は違うし、霊的干渉と無縁の事象は有り得ないのであるが、程度の低い心(靈)は物しか見ていないから“上”が力を貸すとか、“下”(低い心(靈))が人を堕落に導き陥れるとかの視点があまりないので、この言い回しがされているのであり、実は○○○大先生が初めてS会=紫光会で自らの“主護霊”に声を掛けられた時に同じような言い回しをされているが、大概の人間は物の計算しかできないから一たす一は二という計算しかできないが、そこにある霊的干渉が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則に則って(のっとって)いるならば、倍増する結果となるものであり、それには“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が力を貸さねばならないし、“上”が力を貸す資格は間断なき“行”にあるものであるが、そのことを指示した表記である。 またそれは“何事も神の国から神の臣から”で、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を志した心(靈)(ヒ)が“一に一足す二でない”を知り、それを意図して“行”を行うべきことであるし、そして“洗濯も同様”というのは、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”が、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であることを示唆した言い回し。
 これに続く“今度の御用外(はず)したら何時になりても取返しつかんことになるのざから、心して御用して呉れよ、遣り損なひ出来ないことになりてゐるのざぞ。”は、アセンションの時期が近いからそれに間に合うべく生きろ、それには“神の国”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を志す心(靈)、“洗濯”が大事であることをこの文の前で述べられており、“上”としては一人でも多く次の段階に移行して欲しいからこそ“何時になりても取返しつかんことになるのざから、心して御用して呉れ”“遣り損なひ出来ないことになりてゐる”と述べている。
 
 次の文。
“天に一柱 地に一柱 火にも焼けず水にも溺れぬ元の種隠しておいての今度の大建替ぞ、何んなことあっても人間心で心配するでないぞ、細工は隆々仕上げ見て呉れよ、此の神はめったに間違いないぞ。”
 この文は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が絶対であり、人が進むべく唯一のことであることを示し、それは“上”(“創造”の“主(ヌシ)”)と“下”(被造物、神の子、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める“日止、霊止”の表記の意味合い)の関係であるからこそ“天に一柱 地に一柱”であり、絶対であるからこそ“火にも焼けず水にも溺れぬ元の種”であり、“今度の大建替”はアセンションそのものであり、“創造”の“主(ヌシ)”の計画としてのアセンションは霊的成長度による区分けであるし、そのことそのものが絶対であるから人は自らの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度によりそれに従うべく者であるから“何んなことあっても人間心で心配するでない”“此の神はめったに間違いない”ということである。

 次の文。
“三千年 地に潜りての経綸で、悪の根まで調べてからの経綸であるから、人間殿 心配せずに神の申す様 素直に致して下されよ。 末法の世とは地の上に大将の器(うつわ)無くなりてゐることざぞ。オロシヤの悪神(あく)と申すは泥海の頃から生きてゐる悪の親神であるぞ。”
 この文の“悪の根”“オロシヤの悪神(あく)と申すは泥海の頃から生きてゐる悪の親神”は同義であり、“オロシヤ”は以前、下家(おろしやと読む)と解釈したが、“家”、宀(うかんむり、頭の意味)と豕部(しぶ、ぶた、家畜の意味)…智性を持った進化した動物=人(日止、霊止)の意味を、“下”(低い心(靈))に引き込むのが“日月神示”表記の“オロシヤ”であり、それをよく知ること、自我の肥大(“石屋の仕組み”)がもたらす“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の事象を知り、よく認識してから、先に述べられた進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を“人間殿 心配せずに神の申す様 素直に致して下され”といわれている。 そして天意を自らの思想としている人間が今活躍していないことを“末法の世とは地の上に大将の器(うつわ)無くなりてゐることざ”と述べられ、今は“役員づら”が活躍する時代であることを示唆され、それが“末法の世”で、その悪魔ともいえる思惑の“主(ヌシ)”は“オロシヤの悪神(あく)と申すは泥海の頃から生きてゐる悪の親神”ということである。

 次の文。
“北に気つけて呉れよ、神の国は結構な国で世界の真中の国であるから、悪の神が日本を取りて末代の住家とする計画でトコトンの智恵出して何んなことしても取る積りで愈々を始めてゐるのざから余程褌締めて下されよ、日本の上に立ちて居る守護神に分りかけたら ばたばたに埓あくぞ。早う改心して呉れよ。”
 冒頭の“北に気つけて呉れ”は、北は大極=N極、宇宙の中心、“創造”の“主(ヌシ)”の場(フィールド)、それを意識せよ、要は天意を受け取りその天意、“上”からの荷電粒子で“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)せよ、それがまた“神の国”でもあるし、この文では“結構な国(心(靈)(ヒ))で世界の真中の国(心(靈)(ヒ))である”と称されている。 そして“悪の神が日本を取りて末代の住家とする計画でトコトンの智恵出して何んなことしても取る積りで愈々を始めてゐるのざから”は、この前の文の意味合い“オロシヤの悪神(あく)”と同義、それは“下”(低い心(靈))、ッ目下(めした)(動物の心(靈)の段階)への憑依が中心だから腹の縦の磁束と水平磁場の表記である“褌”(ふんどし)を、“余程”“締めて下され”=入り込まれるなということ。
これに続く“日本の上に立ちて居る”は、日の本、上に立つ、であるから、太陽、本は胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と“下”の横棒はそれを止めるの意、要は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであると思えるし、またそれは“意”という字の日に立つ心(靈)の意味合いでもあるし、これが無ければ“神の国”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を志す心(靈)には成り得ない、そういう心が活躍するならば、それは守護する荷電粒子の回転=神、となるし、その場(フィールド)になれば、“ばたばたに埓あく”=事象の“上”“下”を見出し、理由と根拠が平均的地球人にとって理解できていない恨みの連鎖の霊的干渉の現象化の理由も理解していくことになるし、それをよく知らなければ進化を志す心(靈)(ヒ)にもなり得ないものである。
またそれは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が生み出している結果であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っていないことによる“神の咎め”であるからこそ、“早う改心して呉れよ”と最後に述べられている。

今回はこれくらいにしときまんねん。

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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
FC2ブログへようこそ!


Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
(クリックで拡大)

2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
(クリックで拡大)


発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
(クリックで拡大) 

お近くの書店にない場合は
たま出版のサイトでお買い求めください。

発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
(クリックで拡大)

お近くの書店に無いときは
たま出版のサイトでお買い求めください。

この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




初めての方は、
・・・その後の事と・・・これからの事。
からお読みください。

それぞれのカテゴリーをクリックすると
古い順に、記事が閲覧できます。

        

☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (104)
Kellyさんがこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)に伝えたい事 (22)
Kellyさんと○○○大先生との会話 (7)
Kellyさんとチョ~極上ラブラブ中高年夫婦はんとの会話 (6)
Kellyさんとチョ~ベッピンはんのA野はんとの会話 (7)
Kellyさんと∪・ω・∪ ▼・。・▼ ▼・。・▽ U・。・U U。・ェ・。U たちとの会話 (33)
Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
Kellyさんとややメタボ内科医のYっちゃん先生との会話 (7)
Kellyさんと和風のベッピンはんのSはんとの会話 (2)
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話 (12)
KellyさんとNominyan ∥*σ_σ*∥&Senyapoo λ*゜ο゜*λ との会話 (6)
☆ Kellyさん的“日月神示”解釈 (480)
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (16)
“日月神示” 上つ巻 (42)
“日月神示” 下つ巻 (38)
“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
“日月神示” 地つ巻 (36)
“日月神示” 日月の巻 (68)
“日月神示” 日の出の巻 (23)
“日月神示” 磐戸の巻 (21)
“日月神示” キの巻 (17)
“日月神示” 水の巻 (36)
“日月神示” 松の巻 (30)
“日月神示” 夜明けの巻 (26)
“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (11)
“日月神示” 荒の巻 (27)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (108)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
予約制 鍼(はり) 灸(きゅう) マッサージ治療 児玉療院
写真部の○○○大先生のページ
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○○○大先生の水草水槽記録
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




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