“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 磐戸の巻 第十三帖 Kellyさん的解釈


今回も、磐戸の巻 第十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

コトちがふから、精神ちがふから、ちがふことになるのざぞ、コト正しくすれば、正しきこととなるのざぞ。 日本の国は元の神の血筋のまじりけのないミタマで、末代 世治めるのざ。 何事も末代のことであるから、末代動かん様に定めるのざから、大望であるぞ。
上の臣民この儘で何とか彼んとかいける様に思ふてゐるが、其の心われよしざぞ。 今度は手合して拝む許りでは駄目ざと申してあろが、今度は規則きまりたら、昔より六ヶ敷くなるのざぞ、まけられんことになるのざぞ、神魂(カミタマシ)の臣民でないと神の国には住めんことになるのざぞ。 
この世治めるのは地の先祖の生神の光出さねば、この世治まらんのざぞ、今度はトコトン掃除せねば、少しでもまぢり気(け)ありたら、先になりて また大きな間違ひとなるから、洗濯々々とくどう申してゐるのざ。 
神は一時は菩薩とも現はれてゐたのざが、もう菩薩では治まらんから、愈々生神の性来現はしてバタバタにらちつけるのざぞ、今の学ある者 大き取り違ひいたしてゐるぞ。 大国常立尊大神と現はれて、一時は天もかまひ、地の世界は申すに及ばず、天へも昇り降りして、 ローレンツ力と ○ (モト)の ローレンツ力と ○ (ニホン)のローレンツ力と ○ (カミ)の光りクッキリ現はさなならんと仰せあるぞ、早う洗濯せんと間に合はんぞ。
この道の役員、吾は苦労して人助けるのざぞ、その心でないと我出して吾のこと思ふてゐるとグレンざぞ。 
仏もキリストも何も彼もスカリと救はねばならんのざ、殺して救ふのと、生かして御用に使ふのとあるぞ、今度はハッキリ区別するのざぞ、昔からの因縁ざぞ。
この方のもとに参りて、昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心出来たら、肚の底から改心してマコトの御用結構につとめあげてくれよ。
逃げ道つくってはならんぞ、二つ三つ道つくってはならんぞ。 ますぐに神の道に進めよ。神の道は一筋ざと申してあろが。 何なりとそれぞれの行せねばマコトのことは出来んのざぞ、世界の片八四浜辺からいよいよが始まると知らしてあること近うなりたぞ、くどい様なれどさっぱりと洗濯してくれよ、神の国は神のやり方でないと治まらんから今までの法度(はっと)からコトから、やりかたかえて、今迄はやりかた違ってゐたから、神のお道通りに致しますと心からお詫びせねば、する迄 苦しむのざぞ、この苦しみは筆にも口にもない様なことに、臣民の心次第でなるのざから、くどう申してゐるのざぞ、何も彼も神にささげよ、てんし様にささげよと申してあろがな、それが神国の民の心得ぞ、否(いや)でも応(おう)でもそうなって来るのざぞ。
神国の政治経済は一つざと申してあろうがな、今の臣民に判る様に申すならば、臣民働いてとれたものは、何でも神様にささげるのざ、神の御社は幸でうづもれるのざぞ、御光輝くのざぞ、光のまちとなるのざぞ。 神からわけて下さるのざぞ、其の人の働きによってそれぞれに恵みのしるし下さるのざぞ、それがお宝ぞ、お宝 徳相当に集まるのざぞ、キンはいらんと申してあろがな、元の世になる迄に、さうした事になって それからマコトの神の世になるのざ。
神の世はマツリあるだけぞ、それ迄にお宝下さるのざぞ、お宝とは今のお札(さつ)の様なものざぞ。 判る様に申すなら、神の御社と臣民のお役所と市場と合した様なものが、一時は出来るのざぞ、嬉し嬉しとなるのざぞ、マコトのマツリの一(ハジメ)ざぞ。 このことよく肚に入れて一二三(ひふみ)として説いて、早う上の守護人殿にも、下の守護人殿にも知らして、安心して、勇んで暮す様にしてやりて下されよ。 それも臣民の心次第、素直な人、早う嬉しくなりて、心勇むぞ、さびしくなりたら たづねて御座れと申してあろがな。
一月十三日、ローレンツ力と ○ の一二か三。

 この第十三帖は、ここまでの磐戸の巻でたびたび述べられているカタカナ表記(“上”からの言い回し)の“マコト”の意味合いを強調している。 
それは第十帖の“悪の仕組は、日本魂をネコソギ抜いて了ふて”“神のマコトの道”
そして第十一帖“心にメグリ積むと動物のイレモノとなるぞ、神のイレモノ、動物等に自由にされてゐて、それでマコトの神の臣民と申されるか”
さらに第十二帖“マコトの者は千人に一人ざぞ”“今後は万劫末代のことざから何時迄もかわらんマコトの神徳あたへるぞ”
の解釈を詳細に見ていただければその意味は解ると思うが、要は、霊的成長度の“上”“下”は、真実=真固止の世界を創るのか、真実を感じさせない形骸の世界を創るのかの違いであり、その霊的成長度の上下(上下が重なった表記が“正”、正しいの意)は、今後=アセンション後に移行出来得る(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者か、自我の肥大(“石屋の仕組み”)した“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”なのかであるが、霊的成長度の“上”“下”の違いはそこにしかないものでもある。

 今述べたことを念頭において、まず冒頭の文。

“コトちがふから、精神ちがふから、ちがふことになるのざぞ、コト正しくすれば、正しきこととなるのざぞ。 日本の国は元の神の血筋のまじりけのないミタマで、末代 世治めるのざ。 何事も末代のことであるから、末代動かん様に定めるのざから、大望であるぞ。
上の臣民この儘で何とか彼んとかいける様に思ふてゐるが、其の心われよしざぞ。 今度は手合して拝む許りでは駄目ざと申してあろが、今度は規則きまりたら、昔より六ヶ敷くなるのざぞ、まけられんことになるのざぞ、神魂(カミタマシ)の臣民でないと神の国には住めんことになるのざぞ。”

 この“コト”という表記は“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意、と、“ト”は、止まると云う心、の意味合いがあり、何が停滞して働くのか、何が止まるのかはこれまで述べてきているように“創造”の“主(ヌシ)”の思惑=“上”からの荷電粒子(天意)であり、それを真に固く止めるのが真固止であり、天意を自らの思想とする神の雛形として進化した生物(人、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))の要素を示した“日月神示”表記の ○ 九 十 でもあり、天意=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの荷電粒子を止めるという表記が“日止、霊止”でもある。 そして天意を自分の思想としている人を他者が“観察と認識”したらその行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)、を感じ得るものとなっていくのが、進化=霊的成長、神格化に向かうことの必然でもあるが、“上”からの荷電粒子の止め方の違い、止まり方の違い、いうならばそれは心の発現と心の動きの違い、それはこの文の“精神ちがふ”でもあるが、それが(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者と“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の違い、要は霊的成長度の違い、自我より“上”の心がきちんと発現しているのかであるが、それを述べているのが“コトちがふから、精神ちがふから、ちがふことになる”であるし、心の“上”と“下”(正しい)が纏まっているならば(ローム太霊がローム太霊講話集の第一話で使った表記の“精神統一”と同義、肉体、幽体、霊体、神体、の統一、本能から智性(神性)までの統一)=“コト正しくすれば”、そうなるならばという意味合いの表記だが、そうすると“正しきこととなるのざぞ”であるし、人が事象を観て正しいと感じ得るということに他ならない事象を創り得るものである(今の事象に正しいもの、“ほんとう”のもの、誠実さを感じさせる何かは少なすぎる)。

 それでこれに続く“日本の国は元の神の血筋のまじりけのないミタマで、末代 世治めるのざ”も、“日本の国”の解釈を縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)ゆえの国家と考えると意味は通じず、日本については既出の画像で意味を示すこととする。

日本の解字

 この“日本の国”の“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”は当然のことながら “玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示し、だからこそ“日本の国”の表記の意味は、太陽の振動を取り込み止め、自省(胸の磁性“十”)する心(靈)(ヒ)という解釈が妥当で、そういう心が今後=アセンション後の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を示すもの。 
そしてそれは“元の神の血筋”=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑に沿った進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を“元”、元々という意味合いで示され、今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の人たちが大多数のこの世界は“創造”の“主(ヌシ)”の思惑に沿っていないということを思わせるものである。 
これに続く“末代 世治めるのざ”は、今後=アセンション後は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”がいない、存在しえないので、もう文明の崩壊も無いし恨みの連鎖の霊的干渉も無いから、“日本の国”=太陽を取り込み(“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと)自省(胸の磁性“十”)している心は、“元の神の血筋のまじりけのないミタマで、末代 世治める”=神の思惑通りの肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)“ミタマ”であるからこそ、今後=アセンション後の事象の“創造”に携わるものであるの意。 
そして今述べたことを強調した言い回しが“何事も末代のことであるから、末代動かん様に定めるのざから、(神と人の)大望であるぞ”であると思える。
ちなみに“ミタマ”は、
“ミ”は生命の幹 その現実
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根
であるから、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)という意味合い。
 それでここまでの言い回しで“上”の“思惑の顕現”=現象化であり、正しい心(靈)が創り得る正しい事象、“マコト”を説き、そしてこれに続く以下の文で“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が創ってきた“ほんとう”の無い、正しくない事象やその心について以下のように述べられている。
“(形骸の権威を示す)上の臣民この儘で何とか彼んとかいける様に思ふてゐるが、其の心われよしざぞ”
さらに進化の“理(ミチ)”(法則性)に則った心(靈)(ヒ)でなければならない、それには真の意味の“行”が必須だから“今度は手合して拝む許りでは駄目ざと申してあろが”でもあり、それは“行”ごっこでもある。 
それでこれに続く“今度は規則きまりたら、昔より六ヶ敷くなるのざぞ、まけられんことになるのざぞ、神魂(カミタマシ)の臣民でないと神の国には住めんことになるのざぞ”の意味は、“今度は規則きまりたら”、今後=アセンション後(“今度は”)は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”(法則性)が顕現したら、“神魂(カミタマシ)の臣民でないと神の国には住めん”=天意を自分の思想とした人(“神魂(カミタマシ)の臣民”)でなければ神の思惑通りの世界(“神の国”)には住めないといわれ、それはまた“昔より六ヶ敷くなる(むすかしくなる)”と示されているが、この“六”(爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味、と、“敷”=広げる、下におく、設置する、配置する、隅々まで行き渡らせる、力を及ぼし治める、の意があることを知っておくべきであるし、“規則きまりたら、昔より六ヶ敷くなるのざぞ”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”法則性が顕現した事象では、“今度は”に対する言い回しの“昔より六ヶ敷く”と述べられているからそれは今の事象のことであり、今の事象は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍し台頭する世界であるから、そういう人にとっては次の段階に移行=“今度は”“六ヶ敷くなる”といわれている。

 次の文。

“この世治めるのは地の先祖の生神の光出さねば、この世治まらんのざぞ、今度はトコトン掃除せねば、少しでもまぢり気(け)ありたら、先になりて また大きな間違ひとなるから、洗濯々々とくどう申してゐるのざ”

 冒頭の“この世”は今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の活躍する今のこの世界が変わること=“治める”ことを指し、それには“生神の光出さねば”、この“生神”とは、この事象に人の神格化を顕現させる“理(ミチ)”(法則性)のことだと思うし、それは先の表記の“コト正しくすれば、正しきこととなる”そして“日本の国は元の神の血筋のまじりけのないミタマで、末代 世治める”と同じ意味であるが、その“理(ミチ)”(ことわり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則)自体がこの世に生きること、それが“地の先祖の生神の光出さねば”であると思う。 それで“地の先祖”という表記は、天の神に対しての相対的な意味合いで、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在は天にも地にも存在するし、それはまた高い先祖の霊的存在であったりもする、その意味のことだと思う。
重複するが“生神の光ださねば”は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”が生きる、活きることで、そしてこの言い回しは相対的なこと、今の世界が“理(ミチ)”通りになっていないからこう述べられているのであり、だからこそ“今度はトコトン掃除せねば、少しでもまぢり気(け)ありたら、先になりて また大きな間違ひとなるから、洗濯々々とくどう申してゐるのざ”と、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”=“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”、“自分を観察する自分の確立”が大事で、自分たちの心の“上”“下”をよく観察せよ、そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、自我の肥大(“石屋の仕組み”)した人は自省(胸の磁性“十”)せよということを述べているものである。 
そしてあえて述べることでもないと思うが“少しでもまぢり気(け)ありたら、先になりて また大きな間違ひとなる”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”に対してそれを崩す自我の肥大、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いがあってはならないということ。

 次の文。

“神は一時は菩薩とも現はれてゐたのざが、もう菩薩では治まらんから、愈々生神の性来現はしてバタバタにらちつけるのざぞ、今の学ある者 大き取り違ひいたしてゐるぞ。 大国常立尊大神と現はれて、一時は天もかまひ、地の世界は申すに及ばず、天へも昇り降りして、 ローレンツ力と ○ (モト)の
ローレンツ力と ○(ニホン)のローレンツ力と ○ (カミ)の光りクッキリ現はさなならんと仰せあるぞ、早う洗濯せんと間に合はんぞ”

 この文の“神は一時は菩薩とも現はれてゐた”“もう菩薩では治まらん”というのは、“菩薩”の表記の意味が成仏を求める(如来に成ろうとする)修行者の意味合いがあり、人々と共に歩み、教えに導く修行者ということ。 それに対し“愈々生神の性来現はしてバタバタにらちつける”といわれており、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”をはっきり示し=“生神の性来現はしてバタバタにらちつける(結果として示す)” といわれ、多くの人々、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が大半(平均的地球人の霊的成長度)の多くの人々に対し、教えに導くという段階のことではなく、アセンションというのは(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者と“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を区分けするのであるから、平均的地球人の霊的成長度の人々と共に歩み教えに導くという段階のことではなく、前後するがこの後の文の“何も彼もスカリと救はねばならんのざ、殺して救ふのと、生かして御用に使ふのとあるぞ、今度はハッキリ区別するのざぞ”という言い回しに示されている。
 それで“今の学ある者 大き取り違ひいたしてゐる”は、先の“(形骸の権威を示す)上の臣民この儘で何とか彼んとかいける様に思ふてゐるが、其の心われよしざぞ”と同義。
 そして“大国常立尊大神と現はれて、一時は天もかまひ、地の世界は申すに及ばず、天へも昇り降りして”というのは、“大国常立尊大神”は大本教では艮(うしとら)の金神のことで、いうまでもなく艮(うしとら)の金神を名乗る霊団は黒住教、天理教、大本教に関わっていて、ことに大本教では祟り神として説かれている。 その祟りというのは“神の咎め”であり、霊的成長度の低い人が自省(胸の磁性“十”)するための祟りという認識は、ローム太霊の言い回しなら右往左往左往右往でもあり、要は“神の咎め”、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を示すこと、それが自省(胸の磁性“十”)につながり、自省(胸の磁性“十”)の心の動きを持った人間でなければ“ほんとう”、真実=真固止、“マコト”の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)や事象の“創造”が出来ないからである。
 そして“一時は天もかまひ、地の世界は申すに及ばず、天へも昇り降りして、
ローレンツ力と ○ (モト)の ローレンツ力と ○(ニホン)のローレンツ力と ○ (カミ)の光りクッキリ現はさなならんと仰せあるぞ、早う洗濯せんと間に合はんぞ”の“一時は天もかまひ”は、“上”の介入、先に述べた自省(胸の磁性“十”)のための“神の咎め”、祟り、のこと、そして“地の世界は申すに及ばず、天へも昇り降りして”は何のための“神の咎め”なのか、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“神の咎め”であるからである、その意があるということを示し、だから“上”である“大国常立尊大神”艮(うしとら)の金神は、“天へも昇り降りして”いると述べられ、これに続く“ ローレンツ力と ○(モト)の ローレンツ力と ○(ニホン)の ローレンツ力と ○(カミ)”は、霊=ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 、荷電粒子の場(フィールド)とローレンツ力ローレンツ力 の表記であるが、“(モト)”はカタカナ表記だから“上”からの言い回しで、心(靈)(ヒ)=ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)はローレンツ力ローレンツ力 で進化するという法則性、“上”からの荷電粒子を止めるという進化の法則性を示し、“(ニホン)”はやはり先に画像で示した“日本”であり、“(カミ)”は“カ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意、と“ミ”は生命の幹 その現実、であるから、“創造”の“主(ヌシ)”が贈ってくるア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、“上”からの荷電粒子、それを心(靈)(ヒ)=ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)にローレンツ力ローレンツ力で止め、高い振動を止めるのが“行”の意味と意義、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化でもあるが、今後=アセンション後はその高い振動、相対的に自我より“上”の心の発現とそれ由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)が事象の“創造”になっていくのであるからこそ“ローレンツ力と ○ (モト)の ローレンツ力と ○(ニホン)の ローレンツ力と ○(カミ)の光りクッキリ現はさなならんと仰せある”であり、それには自省(胸の磁性“十”)が必須だからこそ“早う洗濯せんと間に合はん”といわれている。
 そしてこれに続く以下の文は、今述べたことを簡潔にまとめているもの。
“この道の役員、吾は苦労して人助けるのざぞ、その心でないと我出して吾のこと思ふてゐるとグレンざぞ”
 いうまでもなく“この道の役員”は、今後=アセンション後に移行するべく“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を知りそれを顕現する“日止、霊止”、“吾は苦労して人助ける”はローム太霊が教えている“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)を鑑みればすぐ理解できるし、これに続く“その心でないと我出して吾のこと思ふてゐるとグレンざぞ”は解釈の要はない。

 次の文。

“仏もキリストも何も彼もスカリと救はねばならんのざ、殺して救ふのと、生かして御用に使ふのとあるぞ、今度はハッキリ区別するのざぞ、昔からの因縁ざぞ。
この方のもとに参りて、昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心出来たら、肚の底から改心してマコトの御用結構につとめあげてくれよ。
逃げ道つくってはならんぞ、二つ三つ道つくってはならんぞ。 ますぐに神の道に進めよ。神の道は一筋ざと申してあろが。 何なりとそれぞれの行せねばマコトのことは出来んのざぞ、世界の片八四浜辺からいよいよが始まると知らしてあること近うなりたぞ、くどい様なれどさっぱりと洗濯してくれよ、神の国は神のやり方でないと治まらんから今までの法度(はっと)からコトから、やりかたかえて、今迄はやりかた違ってゐたから、神のお道通りに致しますと心からお詫びせねば、する迄 苦しむのざぞ、この苦しみは筆にも口にもない様なことに、臣民の心次第でなるのざから、くどう申してゐるのざぞ、何も彼も神にささげよ、てんし様にささげよと申してあろがな、それが神国の民の心得ぞ、否(いや)でも応(おう)でもそうなって来るのざぞ”

 冒頭の文は先に少し引用したが、“仏もキリストも何も彼もスカリと救はねばならん”は、程度の低い人間が自分たちの自我の肥大で自分たちだけの宗教が一番と勝手に思っているが、霊的成長度、神と人間の関係というのは“上”と“下”でしかないし、霊的成長度の高低によって分けられるのがアセンションであるから、こういういわれ方をして自分たちの自我の肥大した心は如何に縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)が強いのか、そのことをよく知っておかねばならず、そして“殺して救ふのと、生かして御用に使ふのとあるぞ、今度はハッキリ区別するのざぞ、昔からの因縁ざぞ”の“殺して救ふ”は、死んでから自省(胸の磁性“十”)せよ、それを仏教で説いているのがよく引用する閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)でもあるが、霊的成長するには自省(胸の磁性“十”)が必須、その意味のことを述べられ、“生かして御用に使ふ”は、自省(胸の磁性“十”)出来ている人間は“マコト”の事象を“創造”するから(“役員”)であるし、“今度はハッキリ区別する”は、今後=アセンション後は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”はいない、存在しえない霊的成長度の高い場(フィールド)になるという意味。 そして“昔からの因縁ざぞ”は、先の“元の神の血筋”“今度は規則きまりたら”“生神の光出さねば”と同義、要は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”(法則性)が“ハッキリ”(カタカナ表記なので“上”からの言い回し)示されるから、“今度はハッキリ区別する”=霊的成長度の高低で別けるという意味合い。
 これに続く“この方のもとに参りて、昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心出来たら、肚の底から改心してマコトの御用結構につとめあげてくれよ”の“この方のもとに参りて、昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心出来たら”は、“理(ミチ)”(法則性)を示す智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持った心(靈)(ヒ)の持ち主=“この方”の思惑に参加し、“昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”を自分の認識(悟り、幸取=さとり)としたならば、“肚の底から改心して”=自我の肥大を諌め、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いをやめ、“マコトの御用結構につとめあげてくれ”=真実、真固止の事象の“創造”に携わり、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)を感じさせる“日止、霊止”と成れということ。
 それを強調した言い回しが以下の文“逃げ道つくってはならんぞ、二つ三つ道つくってはならんぞ。 ますぐに神の道に進めよ。神の道は一筋ざと申してあろが。 何なりとそれぞれの行せねばマコトのことは出来んのざぞ、世界の片八四(かたっぱし)浜辺からいよいよが始まると知らしてあること近うなりたぞ、くどい様なれどさっぱりと洗濯してくれよ、神の国は神のやり方でないと治まらんから今までの法度(はっと)からコトから、やりかたかえて、今迄はやりかた違ってゐたから、神のお道通りに致しますと心からお詫びせねば、する迄 苦しむのざぞ、この苦しみは筆にも口にもない様なことに、臣民の心次第でなるのざから、くどう申してゐるのざぞ、何も彼も神にささげよ、てんし様にささげよと申してあろがな、それが神国の民の心得ぞ、否(いや)でも応(おう)でもそうなって来るのざぞ”は特に解釈の要はないと思うが、霊的成長度の低い人間ほど“逃げ道”や“二つ三つ道”という“ますぐに神の道に進めよ。神の道は一筋ざと申してあろが”ということが出来ず、自分に都合の良い言い訳や勝手な理屈を振り回し、それは自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)のであるが、それでは“マコトのことは出来ん”のであるし、アセンションの時期が近いからこそ“世界の片八四(かたっぱし)浜辺からいよいよ(時期が迫っている)が始まると知らしてあること近うなりた…中略…彼も神にささげよ、てんし様にささげよと申してあろがな、それが神国の民の心得ぞ、否(いや)でも応(おう)でもそうなって来るのざぞ”といわれ、ことに“くどい様なれどさっぱりと洗濯してくれ”“神の国は神のやり方でないと治まらん”=今後、アセンション後は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”が台頭するから“今までの法度(はっと)からコトから、やりかたかえて、今迄はやりかた違ってゐたから、神のお道通りに致しますと心からお詫びせねば、する迄 苦しむのざぞ”と述べられているし、“何も彼も神にささげよ、てんし様(上と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)し“上”の思惑を顕現する“日止、霊止”)にささげよと申してあろがな”は“上”の“理(ミチ)”通りにしなければならないのだと述べられ“神国の民の心得ぞ、否(いや)でも応(おう)でもそうなって来る”と、低い霊的成長度の人を諌める言い回しで括っている(くくっている)。

 次の文。 

“神国の政治経済は一つざと申してあろうがな、今の臣民に判る様に申すならば、臣民働いてとれたものは、何でも神様にささげるのざ、神の御社は幸でうづもれるのざぞ、御光輝くのざぞ、光のまちとなるのざぞ。 神からわけて下さるのざぞ、其の人の働きによってそれぞれに恵みのしるし下さるのざぞ、それがお宝ぞ、お宝 徳相当に集まるのざぞ、キンはいらんと申してあろがな、元の世になる迄に、さうした事になって それからマコトの神の世になるのざ”
 今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が運営している“政治経済”は、奪い合い、騙しあい、欺きあい、上手なウソが台頭しており、それを霊的成長度の低い人は自分たちの保身のために容認する。 それが○○○大先生の著書の<4><5>の智性(神性)無き心の意味合いでもあるが、それではダメと言われているにすぎないし、今後=アセンション後の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”が示されそれが台頭する事象は“臣民働いてとれたものは、何でも神様にささげるのざ、神の御社は幸でうづもれるのざぞ、御光輝くのざぞ、光のまちとなるのざぞ。 神からわけて下さるのざぞ、其の人の働きによってそれぞれに恵みのしるし下さるのざぞ、それがお宝ぞ、お宝 徳相当に集まるのざぞ、キンはいらんと申してあろがな”と、“上”が認めうる(“神様にささげる”)正当な報酬のやり取りをすれば“御社は幸でうづもれるのざぞ、御光輝くのざぞ、光のまちとなるのざぞ。 神からわけて下さるのざぞ、其の人の働きによってそれぞれに恵みのしるし下さるのざぞ”ということになり、これに続く“宝”は先に述べた““上”が認めうる正当な報酬”の意味と、前のブログで述べた真に価値のある宝=體(体の旧字、骨が豊か、そして、宝(たから)のアナグラム)でもあるし、骨が豊か、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化した体と心ならば“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)するし、それが“行”の意味と意義でもあるし、そうした人が創りうる事象は高い振動を取り込んだ事象であるからこそ“御光輝くのざぞ、光のまちとなるのざぞ”といわれている。

 次の文。

“神の世はマツリあるだけぞ、それ迄にお宝下さるのざぞ、お宝とは今のお札(さつ)の様なものざぞ。 判る様に申すなら、神の御社と臣民のお役所と市場と合した様なものが、一時は出来るのざぞ、嬉し嬉しとなるのざぞ、マコトのマツリの一(ハジメ)ざぞ。 このことよく肚に入れて一二三(ひふみ)として説いて、早う上の守護人殿にも、下の守護人殿にも知らして、安心して、勇んで暮す様にしてやりて下されよ。 それも臣民の心次第、素直な人、早う嬉しくなりて、心勇むぞ、さびしくなりたら たづねて御座れと申してあろがな”の“神の世はマツリ”は“上”との感応が今より盛ん、今の事象は恨みの連鎖の霊的干渉により“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が盛んだからこそ“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”&自我の肥大(“石屋の仕組み”)という心が台頭し、その心の動きには三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)という低い霊的干渉由来のことが見受けられるし、実に情けないことに僧侶はこの言葉を知っているがこれが人の心(靈)(ヒ)の動きをみる材料になっていないし当然僧侶自身の“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”にも活きていない…悪口はほどほどにして、“それ迄にお宝下さるのざぞ、お宝とは今のお札(さつ)の様なものざぞ”は、先に述べた“上”が認めうる正当な報酬、奪い合い、騙しあい、欺きあい、上手なウソのないやり取りと、“行”して結晶化した肉体(月(ツキ))が発現する自我より“上”の心のことを指すが、やはり今生きている人間は今の政治経済という既成概念ゆえの認識でしか事象を観れないから“判る様に申すなら、神の御社と臣民のお役所と市場と合した様なものが、一時は出来る”といわれているし、またそれは金の無い世でもあり、(通貨としての)金に対する執着がこの世界を腐らせ、真実=真固止の無い事象を創っていることを○○○大先生が著書で散々述べているので、ここでは述べないこととする。 
 これに続く“嬉し嬉しとなるのざぞ、マコトのマツリの一(ハジメ)ざぞ”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”が台頭した現津(あきつ)、観察され得る事象、それは“上”との感応であるからこそ“マコトのマツリ”であり、それがあってこそ“一(ハジメ)”、始められないのであり、当然そこには欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかがないからこそ、“上”が認めうる正当な報酬しかないからこそ“嬉し嬉しとなるのざど”である。
 次の“このことよく肚に入れて一二三(ひふみ)として説いて、早う上の守護人殿にも、下の守護人殿にも知らして、安心して、勇んで暮す様にしてやりて下されよ。 それも臣民の心次第、素直な人、早う嬉しくなりて、心勇むぞ、さびしくなりたら たづねて御座れと申してあろがな”は、今の既成概念は自分たちの自我の肥大ゆえのことが多いからこそ“このことよく肚(はら、“江戸と尾張”、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)に入れ”、そして息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=“一二三(ひふみ)として説いて”=1番目、2番目、3番目のオーラとして発振、発信して、“上の守護人殿にも、下の守護人殿にも知らし”=形骸の権威を位(くらい)が高いとか、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が創ってきた地位と名誉に価値があると思っている霊的成長度の低い人間に対して、先の“一二三”のオーラで人の完成に至る形を行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)で示し=“説いて”、そうなれば霊的成長度の低い“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であっても“安心して、勇んで暮す様にしてやりて下されよ。 それも臣民の心次第、素直な人、早う嬉しくなりて、心勇む”ということになり、自我の肥大ゆえの既成概念を捨てねばならぬからこそ、自省(胸の磁性“十”)しなければならないからこそ“さびしくなりたら たづねて御座れと申してあろがな”=“上”の思惑を鑑み、それが“上”との感応になり、さらに自分の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を知ろということである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

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コメント

先生、日月神示のupありがとうございます。
ローム太霊との出会い(1)も読んでいる最中です。
私は日月の記事から入ったものですから、Kellyさんとの対話形式で進んでいくんですね。ちょっと意外でしたが、ローム太霊の事を全く知らない初心者の私でも物語のようで読ませて頂き易いです。
その後(2)のローム太霊の教え日足(ひたり)と砌(みぎり)も読みます。
読みましたらメール送らせて頂きますので、未刊行の<6><7>もぜひぜひ読ませて頂きたいです。
ローム太霊は未知との遭遇でワクワクしながら読んでいます。
TV見る暇もありません。お笑い番組を下らないながらも見る時間が結構でしたが、笑いたい時には、じゅんいち君のかつらの取れる画像を見て大笑いしています。
お教え下さった事を自分の中だけで終わらせず、それを確認して皆が良くなるよう努めます。
その日が来る事、またその日が来る時に私もお仲間に入らせて頂いている事が目標になりました。

Re: naopon様へ

> 先生、日月神示のupありがとうございます。
> ローム太霊との出会い(1)も読んでいる最中です。
> 私は日月の記事から入ったものですから、Kellyさんとの対話形式で進んでいくんですね。ちょっと意外でしたが、ローム太霊の事を全く知らない初心者の私でも物語のようで読ませて頂き易いです。

恐れ入ります。 
Kellyさんとの会話は、最初文章を起こし始めた時にこれは会話方式の方が理解してもらいやすいのではないか、先生とKellyさんが会話しながら双方の心の動きを表現した方が解りやすいのではないか、と思い、作った文章です。
それで児玉療院のホームページで述べているように、“続”ではKellyさんとの会話で、説明が足りなかったことや、中途半端に終わってしまった“日月神示”の解釈が中心で、現在更新をしていない“改”では、著書で少しだけ述べたアタシなりの認識の生物の進化の過程、そして地球上で一番進化した人間の肉体(月(ツキ))の電気特性、それはすべて神の“思惑の顕現”=現象化で、生命そのものが神の“思惑の顕現”であることを、ある程度説明しました。 著書と合わせてお読みいただければ、心(靈)(ヒ)の発現と進化、物質である肉体(月(ツキ))の進化に対する認識を深めていただけると思います。
それと、ローム太霊に関しては、以下のサイトが参考になりますのでご覧いただければと思います。

http://f35.aaacafe.ne.jp/~shinri/shireiken.html

(こちらのサイトの運営者の方はT霊媒=竹内満朋先生の親族の方です)

> お教え下さった事を自分の中だけで終わらせず、それを確認して皆が良くなるよう努めます。
> その日が来る事、またその日が来る時に私もお仲間に入らせて頂いている事が目標になりました。
 過分なお言葉をいただいて恐縮です。 
ですが、アタシが教えたということではなく、naopon様がアタシの文章を通じてnaopon様自身の認識(悟り、幸取=さとり)を拡大させているということだと思います。 
わざわざこんなことを述べさせてもらう理由は、“役員づら”の手法、教えたとか、指導したとか、自分のいうとおりにしないと良いカタチにはならないとか、そういう表現が多いように思うからで、それはインプリンティング(刷り込み(すりこみ)、刻印付け)に近いと思うからです。
ですからnaopon様におかれましては、自分にとっての“ほんとう”は何か、そして“ほんとう”を知ったら自分はどう生きるべきか、どう在るべきかをお考えいただきたく思います。
一人一人がお考えいただくこと、考えればそれが息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)になり、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が起きる、このこと自体がアタシの望みですし、それをしなければ認識(悟り、幸取=さとり)の拡大が出来ないと思いますので。
頑張って(元の気を張って)ください。

コメントありがとうございました。 ○○○大先生=児玉登

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 Kelly & ○○○大先生

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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
(クリックで拡大)

2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
(クリックで拡大) 

お近くの書店にない場合は
たま出版のサイトでお買い求めください。

発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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たま出版のサイトでお買い求めください。

この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




初めての方は、
・・・その後の事と・・・これからの事。
からお読みください。

それぞれのカテゴリーをクリックすると
古い順に、記事が閲覧できます。

        

☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (104)
Kellyさんがこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)に伝えたい事 (22)
Kellyさんと○○○大先生との会話 (7)
Kellyさんとチョ~極上ラブラブ中高年夫婦はんとの会話 (6)
Kellyさんとチョ~ベッピンはんのA野はんとの会話 (7)
Kellyさんと∪・ω・∪ ▼・。・▼ ▼・。・▽ U・。・U U。・ェ・。U たちとの会話 (33)
Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
Kellyさんとややメタボ内科医のYっちゃん先生との会話 (7)
Kellyさんと和風のベッピンはんのSはんとの会話 (2)
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話 (12)
KellyさんとNominyan ∥*σ_σ*∥&Senyapoo λ*゜ο゜*λ との会話 (6)
☆ Kellyさん的“日月神示”解釈 (456)
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (15)
“日月神示” 上つ巻 (42)
“日月神示” 下つ巻 (38)
“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
“日月神示” 地つ巻 (36)
“日月神示” 日月の巻 (68)
“日月神示” 日の出の巻 (23)
“日月神示” 磐戸の巻 (21)
“日月神示” キの巻 (17)
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“日月神示” 夜明けの巻 (26)
“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (11)
“日月神示” 荒の巻 (4)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (107)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
予約制 鍼(はり) 灸(きゅう) マッサージ治療 児玉療院
写真部の○○○大先生のページ
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○○○大先生の水草水槽記録
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




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