“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

Kellyさんが“日月神示”磐戸の巻の解釈を終えてから…感じた事“その二” 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を感じさせる表記


   さて、この事象は“その一”で述べた“マコト”と感じ得ることが、あまりにも少ない事象である。 
  またこの事象は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が大多数、その低い心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が台頭しているから、恨みの連鎖に満ち満ち悪因縁(“メグリ”の意味のひとつ)ばかりが目立ち、突然死、病死などが横行しまっとうな霊的成長をする一生がとても送りにくい世界にもなっている。
それで、“マコト”と感じ得ることが少ないから“マコト”、事象における真実、“ほんとう”のこと、心(靈)(ヒ)の動きを示す誠、こういったことが観られるような事象になるのがアセンション後ということでもある。
  そして、アセンション後に位置でき得る心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))のことを示すのが霊的成長して“上”の振動を止める意味での真固止、そのための具体的な方法が、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことによる“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化であり、艮(うしとら)の金神が一番最初に黒住教で朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えたことは幾度となく述べたこと。
そして“日月神示”表記の ○ 九 十 は、神の思惑を顕現する神の雛形として最終段階の生命(生きる使命=存在理由)の意で、それは、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と、卆(そつ、卒業の卒の異体字))であり、また“九”という字に隠された意味、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現、“一”=智性=1番目のオーラ、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命である“日止、霊止”(太陽&宇宙の大極からの荷電粒子を止める意味を持つ表記)ということでもある。
  そしてこのことが“ほんとう”の進化ということでもある。
上記のことを鑑みて前回の文末でピックアップした磐戸の巻の表記、第四帖の“この方”、第六帖の“世の元からの仕組”、第七帖の“この神”、第八帖の“神の国の昔からの生神”、第十三帖の“生神の光”“生神の性来”“この方”、第十四帖の“生味(しょうみ)の、生き通しの神”、第十五帖の“この方の道”、第十六帖の“世の元からの生神”、第十七帖の“この神”、第十九帖の“マコトの生神”、第二十一帖の“元の大和魂に…中略…神に心向ければ…中略…今度は元のキの儘の魂”を一つ一つ見ていくと、今後=アセンション後の事象とそこに位置しうる、ある程度進化した生命ということが解っていくものである。

 まず、第四帖の“この方”(これは、このかた、ではなく、このほう、と読ませるのが正しいかも)“上”と感応した心(靈)(ヒ)、あるいは天意が顕れた行動や思想、それが今の事象では“この世のあく神とも現はれる”“閻魔とも現はれる”アクと申しても臣民の申す悪ではない”、今までの平均的地球人(自我の確立=固定化の段階)の既成概念、価値観や幸福感を打破する役目を担っているの意。

 第六帖の“世の元からの仕組”は、そこで解釈した通り、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番として、まず、自分たちが生業(なりわい)の“行”を中心に、土=2~3番目のオーラを大きくし、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をして、その過程で、自分たちの存在の意義、生き方の追及、人間と神の存在の真理を探り、自分たちの本当の価値を求め…そして最終的には智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得の“行”である太陽凝視に入るのが神格化のプロセスということ。

 第七帖の“この神の申すこと、天のミチぞ、地のミチぞ、人のミチざぞ。今度の岩戸ひらきの大望(たいもう)すみたとて、すぐによいことばかりではないのざぞ”
このカタカナ表記(“上”から視線のいい方)“ミチ”は“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)で、それが“創造”の“主(ヌシ)”の計画、霊的成長度においての区分けであり、その意味の表記が“今度(霊的成長度における区分けの事象、アセンション)の岩戸開き(“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”、第三密度から第四密度)の大望(たいもう)”ということ。

 第八帖の“神の国の昔からの生神の声は、世に出てゐる守護人の耳には入らんぞ、世に出てゐる守護人は九分九厘迄 外国魂ざから、聞こえんのざぞ”
この“世に出てゐる守護人の耳には入らん”“世に出てゐる守護人は九分九厘迄 外国魂”これは、現行の常識や既成概念、いわゆる平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)におけるそれが、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の“創造”の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に適っていないことを示唆し、平均的地球人の進化の段階ではわからないだろうという言い回しが“耳には入らん”“外国(外側(外国と幽界)の事象しか見ていない心)魂ざから、聞こえん”ということ、いわゆるアセンション落第組の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)。
それで“神の国の昔からの生神の声”は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑=“神の国”、“昔からの”=“創造”の“主(ヌシ)”が決めた、“生神”=この事象に顕現する“神性”(“一”=智性=1番目のオーラ)、“声”=“神の国の昔からの生神”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が示す指標を人間が受け入れること、ということになる。

 第十三帖の“生神の光”“生神の性来”の“生神”とは、この事象に人の神格化を顕現させる“理(ミチ)”(法則性)と解釈した。
それで“地の先祖の生神の光出さねば、この世治まらん”は、“地の先祖”という表記は、天の神に対しての相対的な意味合いで、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在は天にも地にも存在するし、それはまた高い先祖の霊的存在であったりもする、その“地の先祖”としての“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑も取り込み自分たちの思想として顕現せよ、ということ。
“愈々生神の性来現はしてバタバタにらちつける”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”をはっきり示し=“生神の性来(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))現はしてバタバタにらちつける(結果として示す)” ということ。
 それは、平均的地球人の進化程度である多くの人々、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対し、教えに導くという段階のことではなく、アセンションというのは(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者と“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を区分けするのであるから、この後の文の“何も彼もスカリと救はねばならんのざ、殺して救ふのと、生かして御用に使ふのとあるぞ、今度はハッキリ区別するのざぞ”という言い回しで示されている通りになる。
それで今引用した“殺して救ふのと、生かして御用に使ふ”の文は“この方のもとに参りて、昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心出来たら、肚の底から改心してマコトの御用結構につとめあげてくれよ”に続いており、この文の“この方のもとに参りて、昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心出来たら”は、“理(ミチ)”(法則性)を示す智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持った心(靈)(ヒ)の持ち主=“この方”の思惑に参加し、“昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”を自分の認識(悟り、幸取=さとり)としたならば、“肚の底から改心して”=自我の肥大を諌め、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いをやめ、“マコトの御用結構につとめあげてくれ”=真実、真固止の事象の“創造”に携わり、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)を感じさせる“日止、霊止”と成れということ。

 第十四帖の“生味(しょうみ)の、生き通しの神が、生味を見せてやらねばならんことに、何れはなるのざが、生神の生味ははげしいから、今の内に綺麗に洗濯しておけと申すのざ、皆にまつろひておけと申すのざ”は、“生き通しの神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が“生味を見せてやらねばならん”=この事象に活きるということ。 これに続く“何れ(いずれ)はなるのざが、生神の生味ははげしいから、今の内に綺麗に洗濯しておけと申すのざ、皆にまつろひておけと申すのざ”は、今の腐った事象を創っている“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心が低すぎるから“生神の生味ははげしい”といわれ、またそれは第十三帖で解釈した“大国常立尊大神と現はれ”=祟り神、艮(うしとら)の金神、“神の咎め”を体験させて“理(ミチ)”を示すこと自体が“生味ははげしい”と述べられており、またそれはアセンションの時期が“創造”の“主(ヌシ)”の計画として決まっているから時間が無い、今のうちに今後=アセンション後に移行できる心(靈)の獲得=“今の内に綺麗に洗濯しておけ”=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”自省(胸の磁性“十”)の“行”をして、“自分を観察する自分の確立”をして、自分の心の“上”“下”を見出すようにしなければならないということ。 これに続く“皆にまつろひておけと申すのざ”は、いうまでもなく“まつろひ”=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)により自分の思想を構築しておけということ。
 そして前後するが“何れ(いずれ)はなる”というのは、生命の存在の意義が神格化であるということ。

 第十五帖の“この方の道、悪きと思ふなら、出て御座れ、よきかわるきか、はっきりと得心ゆくまで見せてやるぞ。 何事も得心させねば、根本からの掃除は出来んのざぞ、役員 気つけて呉れよ”は、アセンションに間に合わない霊的成長度の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対していわれており、なにが霊的成長なのか、なにが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)なのか、何が正しい(正しいは“上”と“下”が合わさった表記、“上”=“創造”の“主(ヌシ)”と、“下”である人間との関係を示唆した表記)のか、神の思惑に適った心の在り方と行動をしているのか=“思惑の顕現”をしているのか、自省(胸の磁性“十”)して考えよ、そうしなければ“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの通信と感応しない、そのことを示唆した言い回しが、“この方の道”であり、それに相反するから“悪きと思ふなら、出て御座れ、よきかわるきか、はっきりと得心ゆくまで見せてやる”といわれており、それは先に述べた“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、“石屋の仕組み”にはまっている自我の肥大した人であり、さらにこの文の最後で“役員 気つけて呉れ”と述べられ、これまで解釈してきているように“この方”&“役員”は、今後=アセンション後の事象で神の思惑を顕現していく今現在と違う事象の“創造”を担う霊的成長度の高い人のことであり、その霊低成長との高い人の価値観や認識に対し、霊的成長度の低い今現在の平均的地球人の大多数の人が思うことは“この方の道、悪きと思ふ”である。

 第十六帖の“世の元からの生神が揃うて現はれたら、皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの云へん様になるのざぞ。 神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ、神徳はいくらでも背負ひきれん迄にやるぞ、大き器もちて御座れよ、掃除した大きいれものいくらでも持ちて御座れよ、神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ”の“世の元からの生神”はこれまで解釈してきたとおり、進化の“理(ミチ)”、法則性、それが顕現することが“揃うて現はれたら”であり、その法則性が台頭してそれに従ってこれからは生きていかねばならないので“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の人間にとっては“皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの云へん様になる”であり、重複するが、そうなってしまう人間は霊的に低い人間であるといえ、すでに進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に対し認識を持っている、“ほんとう”の“行”、“ほんとう”の価値観、人間が存在している“ほんとう”の意味や意義を知っている人にとっては、当たり前のことがこの世界に台頭してくるなと感じ、それに対し形骸の権威や価値をもてはやしたり、にせものの“行”ごっこをしたり、自分の利益や欲望の達成のために他者を欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかしてきた“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の人にとっては、今後=アセンション後はそうなるよ、心しておけよ、“神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ”=霊的成長してないと今後、アセンション後に移行できない、という言い回しである。 
 またそれはこれに続く“神徳はいくらでも背負ひきれん迄にやるぞ、大き器もちて御座れよ、掃除した大きいれものいくらでも持ちて御座れよ”で述べられている“神徳”というのは、“上”との感応する心、そしてその心の動きによって形作られる事象ということ、それは“上”と感応した“日止、霊止”の思想が顕現し、真実=真固止の事象を“創造”するということでもあるが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、いわゆる霊的成長度がこの言葉に対して思うであろう現世利益、神さんが徳をくれるとか、あるいは自分たちが頑張らなくても祈ってさえいれば感謝さえしていればそれが徳とか、そんなことで自分たちが幸福になるなどというてんで低い発想由来のことではないことを、あえて述べておく。
それで“神徳”と“世の元からの生神が揃うて現はれた”、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性が顕現した世界では“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”はなくなり、この概念や言葉そのものが消失するものでもある。 その低い心の動きの根拠になるのは(通貨としての)金に対する執着、形骸の権威を示すとか、すべて自我の肥大=“石屋の仕組み”という心の動きに由来することで、幾度となくこのことは述べてきたが、この今の世界そのものがそういった心の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=願いと祈り、それを達成するための思想、そのためのエネルギーの贖い(あがない)をしてきたものであり、それはこの文の“神徳”でもなく“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の低い人間は“大き器”でもなく自我が肥大しているから“掃除(“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”)した大きいれもの”でもないことを読み取るべき。
そして今述べたことを強調する言い回しが“神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ”であり、“上”の思惑が人(日止、霊止)の行動に活きること、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性が顕現する事象を創ることを示す文が“神界にはビクともしぬ仕組出来てゐる”であり、“御用”はいうまでもなく自分が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して今後=アセンション後の事象の“創造”に参加する資格を持つことである。

 第十七帖の“この神はよき臣民にはよく見え、悪き臣民には悪く見へるのざぞ、鬼門の金神とも見へるのざぞ”の“この神”は、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であるから、この文そのものを以下のように()内で注釈つき解釈をした。
“この神(“役員づら”の神の概念ではなく、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性を示す“上”の存在としての神)はよき臣民(霊的成長を目指し自分たちが苦痛や苦悩で自省(胸の磁性“十”)して自我の肥大を諌めるということを知っている人)にはよく見え、
悪き臣民(自我の肥大、“石屋の仕組み”にはまっている人)には(調子よく思惑通りに事が進んでいた人がこれまで通りにいかなくなり=左往右往、それは霊的成長度の低い人には進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性は自分たちにとって都合の悪いものになるから)悪く見へるのざぞ、
鬼門の金神(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”にとってはそれくらい厳しい)とも見へるのざぞ”


第十九帖の“マコトの生神がその時こそ表に出て、日本に手柄さして、神の臣民に手柄たてさして、神からあつく御礼申してよき世に致すのであるぞ”も、第十七帖同様()内に注釈入りで以下のように解釈した。
“マコトの生神(“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意、“ト”は、止まると云う心、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すこの世界に顕現した生命が知らなければならない“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))が
その時こそ(アセンションの時期が来たら

表に出て(顕現して)、
日本(日=太陽、本=胸の磁性“十”、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))に
手柄さして(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が認めるの意)、
神の臣民に手柄たてさして(手柄=“上”の思惑を顕現させる行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をとらせて)、
神からあつく御礼申してよき世に致すのであるぞ”

 第二十一帖の“元の大和魂に…中略…神に心向ければ…中略…今度は元のキの儘の魂”は、“元の大和魂にかへれと申すのは、今の臣民には無理ぢゃ”と述べられているから、“今の臣民”=平均的な霊的成長度の地球人は、神が示す進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力、能力、で、観て分析することが出来ていない、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が書き換えた概念を既成のものと認識しているから、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を、自我の肥大(“石屋の仕組み”)で、勝手な解釈をしているという言い回しにしか取れないし、こういう解釈が妥当であると思う。 
よって“元の大和魂にかへれと申すのは、今の臣民には無理ぢゃな”は今の平均的地球人の認識が低すぎ、いい換えれば霊的成長度が低すぎであるからいわれている言い回しであるということ。
 それで“元の大和魂にかへれ”“今の臣民には無理ぢゃな”に続く“無理でも、神に心向ければ出来るのざぞ、どうしても今度は元のキの儘の魂にかへらんとならんのぞ、かんじんの神示むやみに見せるではないぞ”は、常々述べている天意の受信、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振で自らの心を構成し、智性(神性)由来の心の動きを持ち、事象も智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)で観察していくならば、“出来るのざぞ”といわれている。 何度も述べたことだが、智性(神性)の獲得は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことでしかないから艮(うしとら)の金神は最初に黒住教で朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えたという経緯がある。 その太陽凝視による“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化が、“一”=智性=1番目のオーラの大きさの変容になり、“上”から注がれる高い振動と感応し、自分の思惑と神の思惑が段々一致していくようになるが、そこまでいくには最初“下”のチャクラの強化から始まるので、やはり何十年と太陽凝視を頑張って(元の気を張って)行わなければならないものでもある。
“どうしても今度は元のキの儘の魂にかへらんとならん”の“元のキ”の表記は、“元”は先に述べた“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)のことであるし、“キ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、“キ”の音根はモノの現れを示す、その音根に現わし得ざる心の素幸霊(スサノオ)(生物)自ら明津(アキツ)させんにぞかし(ぞかし という表記は、…だぞ、…だよ、…である、強く念 を押して断定する意)と記されているので、この事象に顕現した生命=現わし得ざる心の素幸霊(スサノオ)(生物)が、観察しうる事象を自分の心の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により、より良いカタチにする=自ら明(太陽と月、日足と砌(ひたりとみぎり))津(ツ、中心の意)させんにぞかし という解釈が成り立ち、先に述べたように文末に“ぞかし”と述べられているのは、生命(心の素幸霊(スサノオ)(生物))が、自ら観察しうる事象を自分の心の顕現とするということであり、それがまた神の子としての生命(生きる使命=存在理由)であるということを強調して述べられている。
 それで今の平均的地球人は、自分たちが神の思惑を顕現する生命(生きる使命=存在理由)であるなんて自覚も持っていない。 神や仏や宗教を知識で知っていても、“上”と人間の関係を見出していないものでもある。 要は認識が低すぎ。
いうまでもなく、神や仏など“上”のことを知るための既成の宗教は腐り果てており、平均的な霊的成長度の地球人の心における神や仏など、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)に対する認識は、低すぎるものでしかないことを今まで幾度となく述べてきているが、それだからこそ“どうしても今度(アセンション後)は元のキの儘の魂にかへらんとならん”といわれており、“元のキの儘の魂”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をよく知り、それを理念とした生命になる、そうなれよ、といわれており、そのために“日月神示”は書かれたが、大概の人間は神に対する認識が低いから“日月神示”を見ても勝手な解釈をしたり“役員づら”になり商売に利用したり形骸の権威を誇示したり…要は“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)、自我の肥大であるが、そういった人間が大半だからこそ、“かんじんの神示むやみに見せるではない”といわれ、“日月神示”に真実=真固止、“ほんとう”、磐戸の巻によく出てきた“マコト”、これを見出す人間が少なすぎることをいわれているものでもある。

 せめてこのブログに縁のあった人は前回の“マコト”の意味するところと、今回ピックアップした“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)をよく認識(悟り、幸取=さとり)してほしいものである。
 
 次回のこのカテゴリーでは、磐戸の巻で示されているカタカナ表記、“創造”の“主(ヌシ)”や“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの視点の述べ方と、漢字やひらがな表記、被造物である人(日止、霊止)の受け取り方や認識の仕方について、まとめることとする。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




« Kellyさん、爆睡中に、A野さんの愛犬たち登場!…夢の中で、人間に見られる習性について、犬たちと論じる。 “その十九” (人間じゅんいち君と○○○大先生との会話“その二”)|Top|Kellyさん、爆睡中に、A野さんの愛犬たち登場!…夢の中で、人間に見られる習性について、犬たちと論じる。 “その十八” (人間になったじゅんいち君とセブンちゃん、“ほんとう”はどこに在るか…という話をする) »

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/tb.php/496-bf5577cc

Top

HOME

tuyukusanotuyu




 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
FC2ブログへようこそ!


Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
(クリックで拡大)

2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
(クリックで拡大)


発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
(クリックで拡大) 

お近くの書店にない場合は
たま出版のサイトでお買い求めください。

発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
(クリックで拡大)

お近くの書店に無いときは
たま出版のサイトでお買い求めください。

この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




初めての方は、
・・・その後の事と・・・これからの事。
からお読みください。

それぞれのカテゴリーをクリックすると
古い順に、記事が閲覧できます。

        

☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (104)
Kellyさんがこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)に伝えたい事 (22)
Kellyさんと○○○大先生との会話 (7)
Kellyさんとチョ~極上ラブラブ中高年夫婦はんとの会話 (6)
Kellyさんとチョ~ベッピンはんのA野はんとの会話 (7)
Kellyさんと∪・ω・∪ ▼・。・▼ ▼・。・▽ U・。・U U。・ェ・。U たちとの会話 (33)
Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
Kellyさんとややメタボ内科医のYっちゃん先生との会話 (7)
Kellyさんと和風のベッピンはんのSはんとの会話 (2)
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話 (12)
KellyさんとNominyan ∥*σ_σ*∥&Senyapoo λ*゜ο゜*λ との会話 (6)
☆ Kellyさん的“日月神示”解釈 (480)
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (16)
“日月神示” 上つ巻 (42)
“日月神示” 下つ巻 (38)
“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
“日月神示” 地つ巻 (36)
“日月神示” 日月の巻 (68)
“日月神示” 日の出の巻 (23)
“日月神示” 磐戸の巻 (21)
“日月神示” キの巻 (17)
“日月神示” 水の巻 (36)
“日月神示” 松の巻 (30)
“日月神示” 夜明けの巻 (26)
“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (11)
“日月神示” 荒の巻 (27)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (107)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



fxwill.com


2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
予約制 鍼(はり) 灸(きゅう) マッサージ治療 児玉療院
写真部の○○○大先生のページ
写真部に投稿した最新の写真
 ↓


powered by 写真部









○○○大先生の水草水槽記録
facebook 児玉登







このブログをリンクに追加する


自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




飢餓救済のホームページ

JWord クリック募金

名前:
メール:
件名:
本文:

QRコード