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“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、46年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示”上つ巻 第二十帖 Kellyさん的解釈



今回も、“日月神示”上つ巻 第二十帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


神がこの世にあるならば、
こんな乱れた世にはせぬ筈ぞと申す者沢山あるが、
神には人のいふ善も悪もないものぞ。
よく心に考へて見よ、何もかも分りて来るぞ。
表の裏は裏、
裏の表は表ぞと申してあろうが、
一枚の紙にも裏表、
ちと誤まれば分らんことになるぞ、
神心になれば何もかもハッキリ映りて来るのざ、
そこの道理分らずに理屈ばかり申してゐるが、
理屈のない世に、神の世にして見せるぞ。
言挙げせぬ国とはその事ぞ、
理屈は外国のやり方、
神の臣民 言挙げずに、理屈なくして何もかも分かるぞ、
それが神の真の民ぞ。
足許から鳥が立つぞ、
十理(トリ)たちてあわてても何んにもならんぞ、用意なされよ、
上下にグレンと引繰り返るぞ。
上の者 下に、落ちぶれた民 上になるぞ、
岩戸開けるぞ、
夜明け近づいたから、早う身魂のせんだくして呉れよ、
加実の申すこと千に一つもちがはんぞ。
六月二十七日、ひつくのか三。


冒頭の言葉の、

“神がこの世にあるならば、
こんな乱れた世にはせぬ筈ぞと申す者沢山あるが、
神には人のいふ善も悪もないものぞ。”

これは・・・
先生が中学生くらいの時に考えてた事みたいな事でんねん。

それは、例えば、
事件とか災害とか戦争とか病気とか・・・不幸な死や苦しまんならん事・・・
それに巻き込まれた人の人生には、何の意味があるのか?
神が実在するのなら・・・何故そんな事を見過ごすのか?
こういう事を考え・・・そやけどそれは、
只単に、
神に依存する甘い(亜、魔、出ずる、泉)考えなんやけど・・・

話を戻し、
そう言う事を考えつつその当時の先生は、
唯物論的な物の見方をしていた。
そしてそれは、自分自身に対してもそうやったらしい。

そやから・・・自分の人生に価値を見出せない・・・
何の為に自分は苦しんで生きているのか・・・
その思いに取り付かれ・・・それしか思わない自分が在り、
ほんでからにそれは・・・前に言うてたけど・・・
自分をもう終わりにしたい=自殺まで考えたようやねん。

そやから、自分の人生・・・
中学生やからたかだか15年くらいの事なんやけど・・・
それは・・・病弱で・・・友達もいなく・・・寂しい子供だったらしい・・・
余談やけど、
今の先生を見ると子供の頃・・・病弱だったなんて、
ほとんどの人が信じへんくらい丈夫そうなジジイなんやけど。

そやから・・・先生が子供の頃思うてた事は、
何で自分がこんな境遇に生まれてしもたんやろか・・・とか、
自分の運命を呪うとか・・・

そやけど、
そんな事で自分の人生を嘆くなんてのは、
それは、只単に、事象を観察する視野が狭い。

これは・・・もう少し小うるさい表現をすれば、
現津(あきつ)=観察され得る事象を、
観察する・・・
観察して認識するって言うのんは、
自分が持ってる認識(悟り、幸取=さとり)の程度=視野。
そやから、
自分自身の認識が幼かったなら、
観察して得られる認識も、
幼い・・・幼稚なものになる。

只、それが霊的に幼いから・・・
これは年を取っているとか若いとかはあまり関係の無い事やし・・・
最も、
先生がこういう考えに囚われてた時は、
子供やったって事もあったんやろけど・・・

ほんでから・・・これも、
先生の言葉の引用でもあるけれど・・・

自分が、
その時持っている心(靈)の発現の程度と、
それまでの体験による認識(悟り、幸取=さとり)・・・
何かを観察して感じ取り、
それが自分の人生での体験やったりもするんやけど、
そして・・・その上で自分が思う=認識って言うのんは、
その、時点、時点の事でしかない。
そやからそれは、目先の観察でしかないとも言い得る事やし、
そやからそれは、
(霊的に)幼稚なら、幼稚な認識しか出来ん。

それは、相対的に、
“上”の心(靈)が発現していないって事でもあるな。

そやから、
心(靈)の成長過程、
霊的進化の過程を考えれば、
動物から人(日止、霊止)への進化過程でもあると感じられる、
集合意識から“個”の意識に成り、
それは、
独り神になる過程で有り、
そやからこそ地球人は、
自分達のより良いカタチを求め始める為、
動物には無い幸福の概念を持ちだした。

余談やけど・・・何回も言うけど・・・
今、幸福の概念はとても間違ってると思うけれども・・・
それは先生やKellyさん・・・そして一部の人(日止、霊止)の、
物の見方でしかないとは・・・思うんやけど・・・

話を戻して、

ほんでから、自分達より“上”とか“下”の概念、
それは、
霊的な“上”“下”の概念を感じ取り、
それが、
自分より“上”でもある、
神さんや創造主の概念やったりもする。
ほんでから、
自分達より“下”の存在や、
自分達を堕落させようとする悪魔の概念を、
感じ取ったりする。

今言うた概念・・・そやからそれは、
自我の確立=固定化の過程やからこそ、
認識出来た・・・認識し始めた、
まだまだ幼稚な概念でもあると思えるやん。

それが良く判っていない段階の人が思う事そのものが、
この、上つ巻 第二十帖の冒頭の言葉でもあるな。

そやから先生の言葉、
前のブログで一番最初に先生から聞いた言葉でもある、

“事象を観察する視野が狭い”・・・

先生は、
今言うたみたいに色々苦しみ、
その後、色々な体験をして、又苦しみ・・・
そう言う境遇で色々考えたからこそ“上”からの通信もあり、
様々な霊縁もあり、
そやからこそ今の先生は、今の認識を得たとも言える。
そやからローム太霊さんは18歳の先生に、
苦に苦を重ね苦を求め更に苦を求めるのだ、楽を求めてはいかん。
・・・って言うた。
(ローム太霊 参照)

そやから・・・
現津(あきつ)=観察され得る事象の観察の程度・・・それが、
低い認識の上での観察やったなら、
なんでも都合よく考えたり間違えて考えたりする・・・
ほんでからそこに付け込むのが、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)でもあるやんか。

そやから・・・
自分の境遇とか不幸な事象とか因縁とか・・・
すべてに理由がある事=必然である事=霊縁である事=“上”の思惑がある事。
それらすべてが自分自身の霊的成長の為の、
苦難と試練であり、
S会=紫光会の交霊会で使われた言葉、
神は乗り越えられない困難は与えない”・・・でもあるけれど、
その事を理解出来る人はとても少ない。
そやから目先の苦難と戦わず、
そやからこそ、自分がイヤになり、自分の人生がイヤになり・・・
逃げる事ばかり考えてる人は意外に多い。
大体そう言う人がする事って言うのんはパターンがあり、
例えば、酒飲むとか美食するとか目先の快楽で苦痛を忘れたいと思う。
ほんでからそう言う人は・・・もう自分は死んでもエエわ・・・とか、
強がるんやけど・・・
それも自我の肥大ゆえの言葉であり、
ほんまは自分自身の事を憂いて、
左往右往して・・・
そやけどそれは、
自省(胸の磁性“十”)して無い心(靈)の動きでもある。

そやからそう言う人、それも・・・
今言うた事を理解出来ない事そのものが、
霊的成長度が低い認識ゆえの、
現津(あきつ)=観察され得る事象の、
観察と認識でもあり、
自分に甘いとかも自分で判断できず、
そやから、自分が“かわいそう”・・・とか、
そんな発想くらいしか出来ん。

それは、恨みの連鎖とか試練とか・・・
それを低い認識で表現すれば、不幸な因縁とかって言い方になるんやけど、
それらが、
自分達の贖わなければならない事とか、自分の認識の拡大の為の事象であり、
それを通じ、
自分の霊的成長を果す=認識(悟り、幸取=さとり)の拡大=オーラの拡大。
その認識が有れば、例えば・・・

騙されたら騙し返す、
奪われたら奪う、
殺されたら殺す・・・それをせんと自分が損やと思う。
そんな事をせんようになる。

そやから、
その発想そのものが、
右=砌(みぎり)=肝=“いきり立つ心(奴と心)”でもあり、
その人の心(靈)の発現は相対的に日足(ひたり)が無く、
“いきり立つ心(奴と心)”しかない発想でもあり、
それも自我の確立=固定化で起きる自我の肥大であり、
自己奉仕者の発想でもある。

そやけど・・・今言うた事は極端な話でもあるし、
こんな事は考えられへん・・・そう受け取られるのが、
平均的地球人の霊的成長度でもある。

今言うた、
殺されても相手を恨まないなんてのは、
今の地球人の心(靈)の進化過程では、考えられへん非常識な事やろけど、
自分は、自分と言う存在は、
現時点、肉体を纏っているだけであり、
肉体を纏っているからこそ様々な体験があり、
その機会を与えられた・・・
或は、自分で選択してここに生まれた。
そして地球は、
恨みの連鎖の想念でいっぱいであり、
自分が因縁を背負っている事そのものが、
その恨みの念を発振している低い心(靈)の発現の存在の認識を、
変えて行く事に繋がる・・・

それもある意味、生きている事の意味でもあるんやけど・・・

・・・そんな発想は出来へんやろな。

只々、
自分の損得しか考えへん心(靈)の発現の程度の存在が、圧倒的多数の星やし・・・

そやから・・・もう一度言えば、
目先の不幸と感じる事象・・・それもある意味、
低い心(靈)の発現の存在の認識を変えて行く事に繋がるのやから、
それは、奉仕になり、
心(靈)が“上”に向かう人の場(フィールド)を構成する事になり、
恨みの連鎖を解消するという結果に繋がり、
そやからこそ、
それを済ました人(日止、霊止)の居てる場(フィールド)は、
その場(フィールド)に居てるすべての存在の霊的成長だけを、
望む存在になり、それだけになり、
そう言う心(靈)の存在が構成する場(フィールド)は、
当然の事ながら、
欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか由来の、
行動=創造は、有り得へん。
そう言う世界を創る事そのものが、
アセンション=事象の高次元化=それを構成する人の心(靈)の動きの変容・・・
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動から言って、
自我より“上”の心(靈)の発現由来の創造=発振、発信の結果・・・
呼吸、息吹、気吹、生吹、って言ってもエエ事やし、
それは、
自分の霊的成長度による観察由来の事象の創造って事になる。
程度の低い人は今までと同じ場(フィールド)に移行し、
“上”の心(靈)を発現した人は、
現状と違う世界を事象として感じて行く。

それがアセンションでもある。

そやから分ける事・・・その為に今、
低い心(靈)の発現で何かをなした人は、
失敗して自省(胸の磁性“十”)の“行”に入り、
自分自身に対する認識を変えていく・・・
それは生きている死んでいるに関わらずって事なんやけど、
これも受け入れがたい認識(悟り、幸取=さとり)やろな。


そやから、
善悪の認識も、それを考える人自身の認識が幼い・・・言い換えれば、
認識(悟り、幸取=さとり)が幼い=霊的成長してへんと、
自分の目先の損得とか、目先の善悪しか解らへん。

そやからこそ、次の言葉のように言うてる。

“神には人のいふ善も悪もないものぞ。”

善悪の認識も、
その人自身のものでしかなく、
目先の“悪”を試練と捉えられへん人は多い。
因縁解消とか悪霊払いとか浄霊とか・・・
その発想自体がとても幼いって事を知らんならん。
そして、
その言葉を利用している自己奉仕者はとても多い。
話にならんくらい多い。

ほんでから、
太陽凝視に対してもアセンションに対しても、
そう言うものの見方しかしていない人も圧倒的に多い。
太陽凝視には何とかの効果があります・・・とか、
アセンションすると不安の無い世界になります・・・とか、
まるで、
只無駄に金を使わせる通販番組や、
たいして効果の無いお茶のCMみたいな言葉の使い回しをする。

そやから、これも先生と話した事、

幼い霊的成長度の人ほど、
感覚優先の物の見方をしたり、
現象だけをありがたがり、
結果、目先の簡単な事しか思わへん事になる。

そやけど今のこの世界は、
そう言う心(靈)の発現の低い人ばかりの世界とも言い得る。
そやからこそ、今、
形骸の何かしか目立たへんともいえる。

そして・・・価値のある何か・・・
太陽凝視やアセンションの意味と意義・・・

今まで、
人の低い心(靈)の発現で価値がとんでもなく間違った物になった事は沢山ある。
こんな事は何回も言うた事なんやけど・・・
宗教、ヨガ、政治、天皇制、オーラソーマ、宝石(結晶化を示す事)・・・etc

せめて・・・太陽凝視くらい、
本当の事を知って欲しいって言うのんが、
前のブログとこのブログの目的でもある。
それは・・・先生が最近憂いている事でもある。
ほんでから先生がパソコンを始めた動機は、
“上”から通信を受け、
一部の人に先生の太陽凝視に対する認識(悟り、幸取=さとり)を伝える。
多分その為だった・・・楽屋落ち的言い方やけど・・・

話を戻して・・・

“よく心に考へて見よ、何もかも分りて来るぞ。”

今Kellyさんが言うた認識の低い“悪”・・・
それは形骸の善悪ではなく、
すべての事象は自分の在り方を示す・・・
これも先生の認識で、
只、目先の損得とか自分が害されたとか・・・
そう言う思い方に問題が有る事を示す事でもあり、
心(靈)が“上”に向かっているなら、
自分に起きた事すべてが自分を結果として高めて行く事に繫がって行く事を、
理解し、
そして最終的には自分は神格化する。
その為に今、
低い事象から学習しているって事を認識(悟り、幸取=さとり)とする。
この言葉は、
そうなってくれって事でんねん。

ほんでから次の言葉、

“表の裏は裏、
裏の表は表ぞと申してあろうが、
一枚の紙にも裏表、
ちと誤まれば分らんことになるぞ、”

これも、
形骸の見せ掛けの概念に囚われるな。
ほんまの霊的成長って言うのんは、自分の心(靈)の動きの観察をして、
その中に、
“悪”=“悪(心の動きの本能化と低振動化)”と、
“善”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”を見出し、
時間の進行と共に思い考え発振し=呼吸、息吹、気吹、生吹、して、
創造=現津(あきつ)=観察され得る事象の中での自分の在り方を、
自分が・・・自分自身が見出す。
それが“上”の思惑に沿った物なら、
不幸な事象はなくなり、
それを“上”は人(日止、霊止)に託し期待しているからこそ、
今苦難を体験せんならん。

そやから次の言葉、

“神心になれば何もかもハッキリ映りて来るのざ、”

これも、
天意を受けた人、上の思惑を受信した人(日止、霊止)を指す言葉やけど、
いきなり地球人はそんな進化過程に入らん。
まず、“善悪”(神格化と動物化=心の本能化)の意味から考えて、
自分たちの心(靈)の動きが、
現津(あきつ)=観察され得る事象になる事を知らんならん。
そやからこそ、
今もこれからも、
醜い事は起きていく。

そしてそれを体験し、
そして自省(胸の磁性“十”)し、
自分の在り方を考える人(日止、霊止)であるなら、
次の世界の創造を託される。
何回も言うけど・・・それがアセンションの意義でもある。

そしてその世界では、

“そこの道理分らずに理屈ばかり申してゐるが、
理屈のない世に、神の世にして見せるぞ。”

さっきも言うた天意が伝わる事、
“上”からの通信をストレートに受け、
それが自分の思想になるからこそ、
“理屈のない世”になり、
今現在、
理屈だけで形骸の“善悪”の概念に囚われてて、
何も、
“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を、
自分の心(靈)の動き=発振、発信にしてないからこそ、
こういう言われ方をすると思えるやんか。

そやからこれは、
今の世界に比べ、相対的なものの言い様でもあるな。

これはやってエエ事でっせ~とか、
あきまへんで~とか、
そう言う心(靈)の動きは自分に許してはあきまへんで~とか・・・
そやからそれは、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)の事でんねん。
そやから、
こうすると霊的成長しまっせ~とか、
霊的成長が・・・それが生きてはる目的でっせ~とか・・・
そんな事は、
次の世界・・・そこに居てる誰もが、
自分の認識(悟り、幸取=さとり)になる世界になるって事でんねん。
そんな事を理屈で示さんならん世界は、
この程度の低い・・・
アホが活躍する世界って事でんねん。
それは、
この世界そのものが霊的にとても低い世界やからって事でんねん。


ほんでから次の言葉も、
発振、発信=“言挙げ”で、
それが出来て無い“国”=(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”
そう言う意味があると思えるやんか。

“言挙げせぬ国とはその事ぞ、”

理屈だけ、形骸の事だけ、
外側(外国と幽界)にしか善悪を見出さん人が多い世界、
自分の心(靈)の動きに、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”と“善(神格化の方向性と智性の受信)”を、
見出さん事そのものが、
外側(外国と幽界)の事象の観察でしかなく、
それは、
自分の心(靈)の動きにより、
現津(あきつ)=観察され得る事象が形成され、
そしてそれを認識する・・・
それが又、生命(生きる使命=存在理由)って事でも有るんやろけど・・・
只々その認識(悟り、幸取=さとり)が無いのが、
今の地球人の心(靈)の段階。
そう言う事でんねん。

そやから本当に目覚めたって思える人は、
ほんまの事とかほんまの幸福とかほんまの価値のある事って言うのんは、
自分の中にしかなく、
戦うべき“悪”や敵・・・霊的成長を阻む何かって言うのんは自分の中に存在し、
今言うた事を、
それを、
自分の外側(外国と幽界)に求めたり、
認識したり・・・
その事そのものが、
認識の低い=“一”=智性=1番目のオーラの小さい段階って事なんやけど・・・

今言うた事を思いつつ次の文章を読んで欲しいものやな。

“理屈は外国のやり方、
神の臣民言挙げずに、理屈なくして何もかも分かるぞ、
それが神の真の民ぞ。”

ほんでから次の言葉、

“足許から鳥が立つぞ、
十理(トリ)たちてあわてても何んにもならんぞ、用意なされよ、
上下にグレンと引繰り返るぞ。”

この、
“足許から鳥が立つ”・・・この言葉は諺(ことわざ)で、
その意味は、
身近で思いもよらなかったことが起こる事・・・とか、
急に思い付いたように慌てて物事をし始める様子の事・・・も、
言い表すようで、
似た意味の言葉としては、
“寝耳に水”“晴天の霹靂”“藪から棒”・・・とかが、あるやん。

そやからこそそれは、
“用意なされよ、
上下にグレンと引繰り返るぞ。”

・・・でも有り、それはこの言葉に掛かる。

“十理(トリ)たちてあわてても何んにもならんぞ、”

“十理(トリ)”・・・この言葉の解釈としては、
胸の磁性“十”と、
ことわり=理・・・そしてこの字は、
“王”と“里”で、
“里”って言う字は、
“田”=四つの場(フィールド)・・・大脳でも有り、
“思う”から心(靈)をはずした字でもあり、
そしてそれは、
“一靈四魂”をも示すって言うのんが先生の説でもある。

ほんでから田の“下”に、
“土”=2~3番目のオーラを構成する意味での肉体がある。
それは“日月神示”内の表現の“江戸と尾張”・・・
腹の水=“江”が、
“戸”・・・天の岩屋戸の“戸”で隔てられ、
天の岩屋戸が開かんと=天意を受け、それは、
心(靈)の発現が“上”に行く。

補足として、

岩屋は、
山=脳と、
帯電するミネラル=“石”・・・“石屋の仕組み”の“石”と、
それを隔てられてる戸・・・
現時点、
次の心(靈)の発現の為に強化されていると思える、
マニピューラチャクラ・・・
そやから腹の磁性やろし・・・
それは多分、横隔膜って言うのんが先生の解釈でもある。
その腹の段階の右往左往と左往右往=サイクロトロンの構造を、
その発振、発信を、
“上”に引き上げるのは、
シンクロトロンの構造でもある胸の磁性“十”であり、
その時の心(靈)の動きが、
心(靈)が茲(やしないそだてる、いつくしみ)故の、
慈しみ悲しみ愛しむでもある。

そやからその段階に入る・・・

それ以前の腹の段階の心(靈)の発現が、
自我の確立=固定化でも有り、
特に、右往左往=肝=砌(みぎり)中心の心(靈)の発現は、
それによる行動=創造は、
右=砌(みぎり)回転になるし、
それを“日月神示”では、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”= 渦巻き 右 回転
と、称されていると思えるやんか。

“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転 砌(みぎり)回り 


そやから、上つ巻 二十帖の言葉、
“十理(トリ)たちてあわてても何んにもならんぞ、”

胸の磁性“十”由来の発想をして、
現時点と違う認識を持って、
間に合ってくれって事でもある。
ほんでから又、補足として言うて於けば、
胸の磁性の心(靈)の動きをを表した言葉は、
“慈悲”と“慈愛”。

そやから“十理(トリ)”は、
動物より相対的に、
“上”の磁性でもある、両手の磁性を獲得した・・・
そやから、
人(日止、霊止)としては、
動物より相対的に“上”=神の思惑を受信出来、
それを、
認識(悟り、幸取=さとり)に出来る。
そやから簡単に言えば、人と動物は違うって事でんねん。
当たり前のチョ~簡潔な説明何やけど・・・
それを意識して欲しいもんやな。

ほんでから次の言葉は、
現状、
砌(みぎり)の“行”ばかりが注目されてる今の世界を指して、
そして自己奉仕者も指して=自分の為にしか“力”を使わん人を指して、
次のように言われてると思えるやんか。

“上の者 下に、落ちぶれた民 上になるぞ、
岩戸開けるぞ、
夜明け近づいたから、早う身魂のせんだくして呉れよ、”

この、

“早う身魂のせんだくして呉れよ、”

これも、自己観察して、
自分の心(靈)の中の“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を、
よく認識して、
在るべき自分をこれからどう確立して行くのか?
・・・を、問うてる言葉やと思うし、
それは、
自分の思想になるからこそ、
“岩戸開けるぞ、”・・・やと思えるやんか。

そしてこれから、形骸の価値感で自分の力を示した人は、
“上の者 下に、”・・・に、なり、
ほんまに霊的成長の為にエネルギーを贖い・・・
そう言う生活をして来た人は、
心(靈)の糧を得てる時は物や金は入らへん・・・
それは相対的にビンボーになる。
そやから、人が獲得して認識(悟り、幸取=さとり)して行く何かって言うのんは、
砌(みぎり)の“行”か、
日足(ひたり)の“行”か・・・
そのどちらかしか得られへんのがこの世界やからこそ、
そう言う相対的なものの言い様で、

“落ちぶれた民 上になるぞ、”

・・・でも有り、
これから・・・今も起きてるけど、
今、形骸の価値感で構成されたこの世界で、
それに準じつつ力を示した人は、
左往右往に入り、失敗し、
それに対し、
現時点あまり力を示して無い人が、
今後、霊的生長の為に、ほんまの人の価値とも言える事の為に、
力を示すようになる。

・・・それを暗示してる言葉やな。

そやから今後、
色々慌てるような事象は増える。
今かてとても多い・・・
毎日のように訳の判らん事ばかり起きる。
そやけど、訳が解らへんって言うのんは、
それは、
霊的干渉って事を知らんからでもあり、
そやからこそ、上つ巻 二十帖の中で言われた言葉、

“こんな乱れた世”
“表の裏は裏、
裏の表は表ぞ”
“道理分らずに理屈ばかり申してゐる”

・・・でもあるな。

ほんでから次の言葉、

“加実の申すこと千に一つもちがはんぞ。”

この中の言葉、
“加実”は、
前にも言うたからそのままコピペしときまんねん。
(“日月神示” 上つ巻 第一帖  Kellyさん的解釈 参照)
          
            


“加実が世界の王になる、てんし様が神と分らん臣民ばかり、”

“加実”は、
場(フィールド)を示す(囗)くにがまえ・・・ただ単に口でもエエやろけど、
その日足(ひたり)に“力”・・・
さっきから何回も言ったカタカナのカと“力”、
創造主の思惑の顕現を示す字・・・
そやからこそ、“実”・・・
宀(うかんむり)に、
“三”=三つのオーラ・・・人(日止、霊止)のオーラの構成に、
人=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)・・・
この場合宀(うかんむり)=頭って事でそう言う思想って言うのんか、
それは、
神さんの思惑を受信した様子が“加実”って事やと思いまんねん。
そやからこそそれは、
“世界の王になる”・・・そうならんとアカンって事やねん。
いうまでもない事やけど、“王”って言うのんは、
“三”を(たて棒、コン)で繋いだ様子で、
それは自省(胸の磁性“十”)の行もして、
“一”=智性=1番目のオーラを構成している様でんねん。


・・・以上でんねん。・・・ほんでから、

“加実の申すこと千に一つもちがはんぞ。”

の、“千”は、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と胸の磁性“十”でもある。
それは“加実の申すこと”=“上”からの発振、発信で、
天意を受けた人を指す言葉でもあり、
そやからこそそれは、
今後色んな事が起きるやろけど・・・
今よりもっと醜い事象でいっぱいになるやろけど・・・

それは右往左往で起きるべくして起きる・・・

そして、
次の世界に位置する人(日止、霊止)は、
(心(靈)の発現の段階で次の世界に位置する資格を獲得するという意味で)
なるべくしてなるからこそ、

“一つもちがはんぞ。”
・・・って言われてると思えるやんか。

今日はこれくらいにしときまんねん。


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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
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お近くの書店にない場合は
たま出版のサイトでお買い求めください。

発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




初めての方は、
・・・その後の事と・・・これからの事。
からお読みください。

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☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (107)
Kellyさんがこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)に伝えたい事 (24)
Kellyさんと○○○大先生との会話 (7)
Kellyさんとチョ~極上ラブラブ中高年夫婦はんとの会話 (6)
Kellyさんとチョ~ベッピンはんのA野はんとの会話 (7)
Kellyさんと∪・ω・∪ ▼・。・▼ ▼・。・▽ U・。・U U。・ェ・。U たちとの会話 (34)
Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
Kellyさんとややメタボ内科医のYっちゃん先生との会話 (7)
Kellyさんと和風のベッピンはんのSはんとの会話 (2)
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話 (12)
KellyさんとNominyan ∥*σ_σ*∥&Senyapoo λ*゜ο゜*λ との会話 (6)
☆ Kellyさん的“日月神示”解釈 (603)
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (46)
“日月神示” 上つ巻 (42)
“日月神示” 下つ巻 (38)
“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
“日月神示” 地つ巻 (36)
“日月神示” 日月の巻 (68)
“日月神示” 日の出の巻 (23)
“日月神示” 磐戸の巻 (21)
“日月神示” キの巻 (17)
“日月神示” 水の巻 (36)
“日月神示” 松の巻 (30)
“日月神示” 夜明けの巻 (26)
“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (11)
“日月神示” 荒の巻 (27)
“日月神示” 地震の巻 (93)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (149)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。



自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




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