“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” キの巻 第九帖 Kellyさん的解釈


 今回も、キの巻 第九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

悪いこと待つは悪魔ぞ、何時 建替、大峠が来るかと待つ心は悪魔に使はれてゐるのざぞ。この神示 世界中に知らすのざ、今迄は大目に見てゐたが、もう待たれんから見直し聞き直しないぞ、神の規則通りにビシビシと出て来るぞ、世界一平に泥の海であったのを、つくりかためたのは国常立尊であるぞ、親様を泥の海にお住まひ申さすはもったいないぞ、それで天におのぼりなされたのぞ。
岩の神、荒の神、雨の神、風の神、地震の神殿、この神々様、御手伝ひでこの世のかため致したのであるぞ、元からの竜体持たれた荒神様でないと今度の御用は出来んのざぞ、世界つくり固めてから臣民つくりたのであるぞ、何も知らずに上に登りて、神を見おろしてゐる様で、何でこの世が治まるものぞ。
天と地の御恩といふことが神の国の守護神に判りて居らんから難儀なことが、愈々どうにもならん事になるのぞ、バタバタとなるのぞ。 
臣民 生れおちたらウブの御水を火で暖めてウブ湯をあびせてもらふであろが、其の御水はお土から頂くのざぞ、たき火ともしは皆 日の大神様から頂くのざぞ、御水と御火と御土でこの世の生きあるもの生きてゐるのざぞ、そんなこと位 誰でも知ってゐると申すであろが、其の御恩と云ふ事知るまいがな、一厘の所 分かるまいがな。
守護神も曇りてゐるから神々様にも早うこの神示読んで聞かせてやれよ、世間話に花咲かす様では誠の役員とは云はれんぞ、桜に花咲かせよ。 
せわしくさしてゐるのざぞ、せわしいのは神の恵みざぞ、今の世にせわしくなかったら臣民くさって了ふぞ、せわしく働けよ。
三月十一日、ひつぐの神。

 第九帖、そして第十帖は“日月神示”のそれぞれの巻に時々見られる、やや揶揄(やゆ)した言い回しの文章という感がある。

 冒頭の文。
“悪いこと待つは悪魔ぞ、何時 建替、大峠が来るかと待つ心は悪魔に使はれてゐるのざぞ”

これは、キの巻で一貫して述べられている自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が事象になっていく(“思惑の顕現”=現象化)こと、自らの霊的成長度の高低により観察しうる現津(あきつ)、観察され得る事象は違ってくるのだということを分かりやすく述べているし、それがあるからこそ、“悪いこと(思いながら)待つは悪魔”といわれている。
 この“悪いこと”に対する認識も霊的成長度において様々であろうが、この文の言い回しでは“何時 建替、大峠が来るかと待つ心”の“待つ心”というのが、程度の低いアセンションの解釈、“役員づら”が商売に使っている程度の低い認識であると思うし、その手法にはまっている認識の低い人たちは、その“役員づら”と霊的成長度が同程度だから感応する、結果、自分たちに都合の良いものを信じる、それが大半の地球人のアセンションの認識で、そんな認識を持つ人、いわゆる“建替、大峠が来る”のを“待つ心”で待っているだけならば、それは、今後=アセンション後の事象の“創造”を担う資格のある人間ということではないのであり、そしてそれは、自分たちが観察しうる事象は、自分たちの心(靈)(ヒ)の動きによるのであるということに理解が及んでいない。
またこのこと=自分たちの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により、自分達の霊的成長度により自分が“観察と認識”する事象は違ってくる、そこに“ほんとう”のアセンションの意義があることを分かっていない人間は、ただ“待つ”、待っているだけであるということを述べていると思える。 
またアセンションを待っているだけの人、時が来たらこの世界が良くなるという甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)考えを持っている人間には、今述べたとおり事象の“創造”が自らの心(靈)(ヒ)の動きによるものであり、それは自己責任を伴うものであることを理解できていないものでもある。
だからただ待っているだけでこの世界が良くなるとか不幸の無い世界になるとかと錯覚するし、それは悪魔、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”と“魔”=マーラ(魔羅)、いわゆる悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)=“悪魔に使はれてゐる”、これに成り下がっている、アセンションに対する認識も甘く低いし、それまで“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化や“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”ということが出来ないか、その解釈を間違えている程度の低い自我の肥大(“石屋の仕組み”)した人間であると言いうる。

これに続く次の文。
“この神示 世界中に知らすのざ、今迄は大目に見てゐたが、もう待たれんから見直し聞き直しないぞ、神の規則通りにビシビシと出て来るぞ、世界一平に泥の海であったのを、つくりかためたのは国常立尊であるぞ、親様を泥の海にお住まひ申さすはもったいないぞ、それで天におのぼりなされたのぞ”

 今後=アセンション後は、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が示される、その通りになる、だから“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”はいなくなるのだが、それを“今迄は大目に見てゐた”と指摘され、アセンションは“創造”の“主(ヌシ)”の計画で“道”(時間の進行)に沿ったものであるから、“待たれんから見直し聞き直しないぞ、神の規則通りにビシビシと出て来る”ということ。
 そしてこれに続く“世界一平に泥の海であったのを、つくりかためたのは国常立尊である”は、霊的成長と同義である古事記の言葉“修理固成”(しゅうりこせい)のことを述べ、それはタンパク質の高分子化であり、“日月神示”表記なら“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化でもあり、低分子のたんぱく質が固まり、高く山のように塔のように高分子化したタンパク質は低分子のたんぱく質と電気特性が違うから“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め(“日止、霊止”の表記の意味合い)、“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)して、自らの思想と成して心(靈)の動きとなり、それが行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠となり、いわゆる思想が顕現する、それが今後=アセンション後の事象であるし、それは“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)が、常に、立つ、ということになるから“国常立尊”という表記が使われていると思うし、低分子のたんぱく質を“泥”と称しているが、それが固まれば、“行”によって固まるならば“天におのぼりなされた”=霊的に成長したということが揶揄(やゆ)して述べられていると思う。
(ちなみに○○○大先生はS会=紫光会の主護霊会で、どんな泥でも固め方によってはダイヤモンドになる。 といういわれ方をされているから、このことはよく理解できるし、この文言そのものが○○○大先生の著書に書いてある)

 次の文。
“岩の神、荒の神、雨の神、風の神、地震の神殿、この神々様、御手伝ひでこの世のかため致したのであるぞ、元からの竜体持たれた荒神様でないと今度の御用は出来んのざぞ、世界つくり固めてから臣民つくりたのであるぞ、何も知らずに上に登りて、神を見おろしてゐる様で、何でこの世が治まるものぞ”

冒頭の“岩の神、荒の神、雨の神、風の神、地震の神殿”、これは、日の出の巻 第十八帖 に同様の表記がある(“雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒の神様”)ので、その解釈からコピペ。

“雨の神”はこれまで解釈してきたとおり“メグリ”(帀)と左右に分かれた点四つは“上”からの荷電粒子の取り込み。
“風の神”は空気の取り込みによる電磁誘導、いわゆる空気の呼吸。
“地震の神”は地が震える、地は“石”(帯電するミネラル)と土=肉体(月(ツキ))の意味合いで、震えるは振動を発するの意。
“荒の神”は低振動、“下”三つのチャクラの振動。
“岩の神”の岩は岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことの岩。

 それでキの巻 第九帖では、“地震の神”ではなく“地震の神殿”と述べられているが、この文の前で“修理固成”(しゅうりこせい)のことが述べられている、ある程度完成された肉体(月(ツキ))と月のことが述べられているから、荷電粒子の回転=神、という表記ではなく、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める“神殿”、いわゆる霊的成長をしていくべき肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)という意味合いの表記であると思えるし、それは“下”(低い心(靈))から成長し、自省(胸の磁性“十”)して、智性(神性)を獲得するという進化の“理(ミチ)”(法則性)があるからこそ、“下”を“元からの竜体持たれた荒神様でないと今度の御用は出来ん”、その“荒神”と、その下の振動が上昇する意味合いの“竜神”、この“竜”の表記は、太陽に昇る竜であり、難しい字の“龍”は、月に立つ龍であることを○○○大先生は著書で述べたが、このことを理解してこの文を読み解くなら、自らが持つ“下”の振動が“上”に上がること(これはチャクラ(荷電粒子の回転を示す)の概念が解りやすい)が、さらにそれは太陽に昇ること、太陽に近づくこと、太陽の振動を取り込んで“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)すること(“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと)が“竜神”の表記であるということが理解できる。
 そして人は自らの肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)を“神殿”にしていかねばならないし、それが人間の存在の根拠、理由、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、独り神(ひとりがみ、日取り神)になっていく過程であることを知らねばならない。
 これに続く“世界つくり固めてから臣民つくりたのである”は、地球が出来てから生命(生きる使命=存在理由)が発生し、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が始まったという意味合いのこと。
これに続く“何も知らずに上に登りて、神を見おろしてゐる様で、何でこの世が治まるものぞ”は、形骸の権威、形骸の名誉、神や仏を形骸にした“役員づら”のことを述べているに過ぎない。

 次の文も“役員づら”の程度の低い認識のことを指摘している。
“天と地の御恩といふことが神の国の守護神に判りて居らんから難儀なことが、愈々どうにもならん事になるのぞ、バタバタとなるのぞ。 
臣民 生れおちたらウブの御水を火で暖めてウブ湯をあびせてもらふであろが、其の御水はお土から頂くのざぞ、たき火ともしは皆 日の大神様から頂くのざぞ、御水と御火と御土でこの世の生きあるもの生きてゐるのざぞ、そんなこと位 誰でも知ってゐると申すであろが、其の御恩と云ふ事知るまいがな、一厘の所 分かるまいがな。
守護神も曇りてゐるから神々様にも早うこの神示読んで聞かせてやれよ、世間話に花咲かす様では誠の役員とは云はれんぞ、桜に花咲かせよ”

 この文の“守護神”は、天つ巻 第十一帖で“守護神どのの改心まだまだであるぞ”という文言が出てきたときに自分たちよりほんの少し“上”の存在であることを指摘した。
 同じくに天つ巻 “上の守護神どの、下の守護神どの、中の守護神どの、みなの守護神どの改心して呉れよ。いよいよとなりては苦しくて間に合はんことになるから、くどう気つけておくのざぞ”の解釈で、“上”“下”“中”は、“一二三(ひふみ)”のオーラのことであり、守護神っていうのは、それぞれのオーラ=それぞれの心(靈)の動きに感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する霊的存在のことであると解釈した。
 そして地つ巻 十八帖で“守護神どの、臣民どの、だまされぬ様に致して下されよ”の文言に対し、形骸の宗教、そして似非スピリチュアルや、薄っぺらい感謝を売り物にするとか、それに騙されて雰囲気に酔っ払っているだけの人、そしてその人たちに感応しているその人たちよりほんの少し“上”=その人たちの“守護神”が多いこと、それと、尊い偉業をなしえた霊能力者を利用して、ただ引用しただけの人とか、それらすべて自己奉仕者であり、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)でしかないことを理解して欲しい旨の解釈をした。
 同じく地つ巻 第三十五帖で“日本は日本のやり方に返して呉れよ、番頭どの、下にゐる臣民どの、国々の守護神どの、外国の神々さま、人民どの、仏教徒もキリスト教徒もすべての徒もみな聞いて呉れよ、その国その民のやり方伝へてあらうがな”っていわれているけれど、それぞれ縄張り意識としての国の事情や、民族の事情ってもんがあるから、こういういわれ方をされており、それは外人だろうが日本人だろうが人(日止、霊止)には違いない。 またこの文を見ても、自分たちよりほんの少しだけ“上”と感応する、それは大概、既成宗教を介して行われている感応であることが理解できるが、それぞれの国の宗教が“ほんとう”の霊的成長を説いているのであれば、こんな指摘をすることも無い。
また、日の出の巻 第二十帖の“日本の上に立ちて居る守護神に分りかけたら ばたばたに埓あくぞ”と述べられているが、これは今の人とそのほんの少し“上”である存在が、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)をなにも分かっていないことを示唆した言い回しである。
 そして、磐戸の巻 第十五帖の“守護神よくなれば肉体よくなるぞ、善も悪も分からん世、闇の世と申すぞ”の“闇の世”は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”“役員づら”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が創っている今の事象のことであり、それら程度の低い心(靈)の動きに感応する存在は先に述べたとおり三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きの浮遊霊などであり、それらと感応して“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を示しているのが今現在の成功者と称されている人間でもあるが、それではダメであり、“上”は認めないのであるから、今後=アセンション後の“創造”を担う人としては“上”と感応し、自分の思想を作り理念とし、結果それは神の“思惑の顕現”となるが、それを示唆した言い回しが“守護神よくなれば肉体よくなる”であると解釈した。
 同じく磐戸の巻 第十六帖の“守護神殿にたのむぞよ”について、人を守っている個人個人の進化に相応した“上”、それはあまり高くないから“創造”の“主(ヌシ)”の思惑であるアセンションのことをしっかり理解していない“上”だからこそ“たのむぞよ”といわれていると解釈した。
 そしてキの巻 第七帖の“後から来た守護神 先になるから、今の役員さうならん様に神示で知らしてあるのざから、よく裏の裏まで読んで肚に入れて、何一つ分らん事ない様にして呉れよ、今に恥づかしい事になるぞ”は、霊的成長度の低い“上”、あるいは“役員づら”が説いている神や仏や守護霊などの概念は低く、あるいはまったくのにせものに成り下がっており、今の人間を霊的成長に導くどころか御利益優先、天の僥倖ばかり求めるダメな人間を増やしていることを示唆し、今後=アセンション後の事象の“創造”を担う資格を得た霊的成長度の心=“役員”には“さうならん様に神示で知らしてある”と述べられ、その“神示”をしっかり自分の腹、自我に入れ、自我を諌めよという表記が“よく裏の裏まで読んで肚に入れて、何一つ分らん事ない様にして呉れ”ではあるのだが、その“役員”と認めうる霊的成長度の人間はとても少数である、と解釈した。
このことを理解していれば今取り上げている文はすぐ意味が解るもので、それは平均的地球人の霊的成長度に感応する“上”は低い、また平均的地球人の“上”に対する認識も低い、だから“天と地の御恩といふことが神の国の守護神に判りて居らんから難儀なことが、愈々どうにもならん事になるのぞ、バタバタとなるのぞ”と述べられ、この文が示唆しているのは“ほんとう”の神と人間の関係、“天と地の御恩”が判ってないと述べられそれは“難儀なこと”だから“愈々どうにもならん事になる”と述べれれているに過ぎない。
これに続く“臣民 生れおちたらウブの御水を火で暖めてウブ湯をあびせてもらふであろが、其の御水はお土から頂くのざぞ、たき火ともしは皆 日の大神様から頂くのざぞ、御水と御火と御土でこの世の生きあるもの生きてゐるのざぞ、そんなこと位 誰でも知ってゐると申すであろが、其の御恩と云ふ事知るまいがな、一厘の所 分かるまいがな”は、“御水はお土から頂く”、これは肉体の水分、錯体のことであり、肉体が“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める構造を持っていることを示唆し、それを止めながら生命(生きる使命=存在理由)が存続して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するからこそ“其の御恩と云ふ事”でもある。
 前後するが“たき火ともしは皆 日の大神様から頂く”は、“上”からの振動の太陽からの荷電粒子を示し、“御水と御火と御土でこの世の生きあるもの生きてゐる”の“御土”は肉体のことをいっている。 これが生命の構成要素であり、そしてそれは大概の人間が気が付かない、そういう認識を持っていないから小さいの意味合いの“一厘”といういいまわしをされ、さらにそれは荷電粒子は小さいことを示している言い回しであるかもしれない。

次の文。
“守護神も曇りてゐるから神々様にも早うこの神示読んで聞かせてやれよ、世間話に花咲かす様では誠の役員とは云はれんぞ、桜に花咲かせよ”

 この“守護神”も先に指摘した平均的地球人よりほんの少し“上”の霊的存在のことで、それを神だと思い込んでいる程度の低い認識ではダメなのだが、そういった霊的成長度の存在、人も含め、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が説かれている“日月神示”、それは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化と“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”これを換言すれば“観自在”(自分の在り方を観る)“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”そして“自分を観察する自分の確立”が必須であり、これが出来始めたなら“世間話に花咲かす”、これはこの世界は間違っている、間違ったことばかり行われているなどという批判のことであると思えるし、批判は批判でしかないことを○○○大先生は著書で述べたが、批判して他者の低いことを指摘しても何もならず、“ほんとう”に変えていかねばならないのは自分、自分の内面とか内側(心の中と感じている事)であるのであり、だからこういった批判ばかりする人間に対し“世間話に花咲かす様では誠の役員とは云はれん”といわれ、ことにそれは“誠”、言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する、では無いのだと指摘されている。 これに続く“桜に花咲かせよ”は、自我の肥大した人が、世間話=この世界や人を批判するだけではダメですよという、やや皮肉っぽい揶揄した表記であると思う。

 次の文。
“せわしくさしてゐるのざぞ、せわしいのは神の恵みざぞ、今の世にせわしくなかったら臣民くさって了ふぞ、せわしく働けよ”

これは、仕事が忙しい、家事が忙しい、などという生業(なりわい)のことも含めてはいると思うが、そんなことではなく、“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)は間断なき“行”であることを示唆している言い回しであるし、それが“神の恵みざぞ”であることを知れということ。
また、“せわしく”“せわしい”“気血栄衛(營)”、それが無かったなら肉体(月(ツキ))は朽ち果てるという言い回しが“今の世(アセンションに向かい“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意が激しく降り注ぎ始める今の事象)にせわしくなかったら(その振動を止めることが出来なかったなら)臣民くさって了ふ”といわれていると思う。

今回はこれくらいにしときまんねん。

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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
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