“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示”上つ巻 第二十一帖 Kellyさん的解釈



今回も、上つ巻 第二十一帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


世の元の大神(かみ)の仕組といふものは、神々にも分らん仕組であるぞ、
この仕組 分りてはならず分らねばならず、
なかなかに六ヶ敷い仕組であるぞ、
知らしてやりたいなれど、知らしてならん仕組ぞ。
外国がいくら攻めて来るとも、
世界の神々がいくら寄せて来るとも、
ぎりぎりになりたら神の元の神の神力出して岩戸開いて一つの王で治める神のまことの世に致すのであるから、
神は心配ないなれど、
ついて来れる臣民 少ないから、早う掃除して呉れと申すのぞ、
掃除すれば何事も、
ハッキリと映りて楽なことになるから、早う神の申すやうして呉れよ。
今度はとことはに変らぬ世に致すのざから、世の元の大神でないと分らん仕組ざ。
洗濯できた臣民から手柄立てさしてうれしうれしの世に致すから、
神が臣民にお礼申すから、
一切ごもく捨てて、早う神の申すこと聞いて呉れよ。
因縁の身魂は何うしても改心せねばならんのざから、
早う改心せよ、
おそい改心なかなか六ヶ敷ぞ。
神は帳面につける様に何事も見通しざから、
神の帳面 間違ひないから、
神の申す通りに、分らんことも神の申す通りに従ひて呉れよ。
初めつらいなれどだんだん分りて来るから、
よく言うこと聞いて呉れよ、
外国から攻めて来て日本の国丸つぶれといふところで、
元の神の神力出して世を建てるから、
臣民の心も同じぞ、
江戸も昔のやうになるぞ、
神の身体から息出来ぬ様にしてゐるが、
今に元のままにせなならんことになるぞ。
富士から三十里四里離れた所へ祀りて呉れよ、
富士にも祀りて呉れよ、
富士はいよいよ動くから、
それが済むまでは三十里離れた所へ、仮に祀りて置いて呉れよ。
富士は神の山ざ、
いつ火を噴くか分らんぞ、
神は噴かん積りでも、
いよいよとなれば噴かなならんことがあるから、
それまでは離れた所へ祀りて呉れよ、
神はかまはねど、臣民の肉体 大切なから、
肉体もなくてはならんから、
さうして祀りて呉れ。
まつりまつり結構。
六月の二十八日、ひつ九のか三。



冒頭の言葉、


“世の元の大神(かみ)の仕組といふものは、神々にも分らん仕組であるぞ、
この仕組 分りてはならず分らねばならず、
なかなかに六ヶ敷い仕組であるぞ、
知らしてやりたいなれど、知らしてならん仕組ぞ。”

この文の中でも、特に、

“この仕組 分りてはならず分らねばならず、”


これは、
“世の元の大神(かみ)の仕組といふもの”・・・に掛かる言葉やけど、
その言葉が指してる意味って言うのは、
言葉で教えても何もならんって言う意味の事やと思える。

それは、言葉だけ知ってても、
この世界の色んな貴い事って言うのんは、
どんどん形骸になってるからこそ、こんな言われ方をするって事でもあるし、

話が逸れるけど・・・只、言葉だけ聴いたとしても、
その言葉の意味を知っていたとしても、
それは、
その事自体は単なる知識でしかなくって、
それは又、
知恵と智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)の違いでもある。
もっと下世話な言い方をすれば、
知識を知ってても自分の生き方に活かせないとか、
結果それは、
自分の持ってる知識をどう扱うのか?・・・の、
心(靈)の発現が無く、
それは、智性を持ってない。
そやから・・・知識だけ知っててそれを自分の生き方に生かせない人は、
知識の羅列された何か、例えば、
本やパソコンや・・・そんなもんに等しい。
しかしそれは、
神の子としての生命(生きる使命=存在理由)では無い。

そやから、
知識を指すのに妥当な知恵って言葉は、
単なる“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)で、しかない。

そやからそれは“力”をどう扱うべきなのか?
今の話、自分が得た知識をどう使うべきなのか?
自分がその知識・・・
どう“力”を使って行く事が、
創造の法則性に則って(のっとって)いる事なのか?

それを決めていくのはその人の心(靈)の在り方でしかない。
そして、智性由来の自分の考えでしかない。

ほんでからアセンション後の世界は、
そう言う人(日止、霊止)だけに成るとも言い得る。

そやからこそ・・・

“この仕組 分りてはならず分らねばならず、”

こんな言われ方をすると思える・・・
それは、
体得して認識してくれって事でんねん。

そやからそれは・・・今までも何度も言うた事やけど、

神性を発現した、
(平均的地球人より相対的に)霊的成長を果した人(日止、霊止)が、
認識する事。

智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)と、
“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)としての知恵・・・
その両方があるけれど、
その違いを認識出来る人はてんで少ない世界が、
この世界でもある。

自分自身の霊的成長=認識(悟り、幸取=さとり)の拡大って言うのんは、
苦しんで悩んで自省して・・・“観自在”“直日(なおひ)”・・・
それが有って初めて、
自我から“慈悲”と“慈愛”・・・
胸の磁性“十”ゆえの心(靈)の発現をする。
そうなれば、
霊的成長度の低い人=自己奉仕者ではなくなるし、
自己奉仕者由来の考えでもある、目先の損得とか、
自分の利益の為に誰かを害してもそれを優先するとか・・・
そんな事を自分自身に許さん様になる。
それが、
“慈悲”と“慈愛”ゆえの、
自分に対する“厳しさ”でもあり、
他者に対する尊厳でも有り、
その心(靈)の確立が、
自分の低い欲望を制御出来るとも言い得る。

そして、
野放図とも言い得る人の低い心(靈)の発現由来の創造が、
今の世界やし、
そやからこそそれは、よく“日月神示”の表現として出てくる言葉、
“グレン”と、ひっくり返り、
壊れるって結果になる。

そやから簡単に纏めれば・・・
霊的成長を果した人(日止、霊止)は、
自我より“上”の“慈悲”と“慈愛”ゆえの行動をする。

自分の心(靈)が、
ほとんど自我しか発現していない人は、自分の事しか考えん。
或は、自分の身近な人の事しか考えん。
そやから自分達の(低い概念の)幸福の為に、
誰かを害したりする事は平気でもある。
それは自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉)って事でもある。

そして・・・
自分達の利益の為に本当に価値の有る事を、
勝手に利用するからこそ、
宗教や政治やヨガや・・・
霊能力や主護霊の存在の意義と意味や、
オーラやチャクラや・・・
太陽凝視や・・・アセンションの意味する何かとか・・・
すべて、
低い心(靈)の発現の人がその価値を低いものにして、
広め、
所詮そんなもんなんやって沢山の人に思わせる・・・
それは、その事自体が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の、
思惑の顕現やと先生は思うてる。

そやから・・・もう一度繰り返すけど、
知識を含む、
あらゆる“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)を、
自分が得たなら、
それをどう扱うべきなのかを考える。
それは、
自分、又は自分の身近な周囲の人の為の利益=低い幸福の概念。
自分と他者・・・あらゆる存在の霊的成長の為か=(相対的に)高い幸福の概念。
それを思うべきでもあるやんか。
その事を深く考えん人ばかりの世界やからこそ、
この世界は失敗の世界でもある。

そやからそれは、
智性由来の“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)の使い方を、
表す言葉でもある、
智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)となる。

知恵と智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)の言葉の意味の違いは、
そこにあるし、
その違いを認識しなければいけない・・・
その為に知恵と智慧の言葉の違いを教えられてるのは、
その理由って言うのんは・・・
地球人は・・・何回も言うたけど平均的に自己奉仕者で、
そしてその人達は、
自我より“上”の心(靈)の発現の程度が低いから、
自分達自身が、
自分達自身を観察する=自分の行動や心(靈)の動きを観察するに当たっても、
自己奉仕者って認識があまり無い。
その人の心(靈)は自我が大半を占めてるからでもある。
そやからこそそれ以上、自我以上の認識は無い。
その事自体が、
“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現の程度が足らん事を、
示してるし、
自分に対しての厳しさも無いから、
目先の損得の為に他者を利用する事などなんとも思わない。
最近のニュースは、そんな人がやってきた事を示すものばっかりやし、
それは一言で言えば・・・自分に甘いって言える事やな。
この間のニュースの・・・一時隆盛を極めた、
経済で“力”を示した有名な人の第二審も・・・
裁判官から反省したところがまったく見られないような事を言われ、
まさにそんな感じやった。(ホ○○○○の事でんねん。)

そやから・・・地球人が平均的に自己奉仕者が多くなった。
そやからこそそれは右往左往でも有り、
体験せんならん事でも有り、
そして右往左往の失敗を体験して、
自省して自分の教訓にする。
その段階の事を今やっていると思えるし、
今その事がピークでも有り、
そしてこれから失敗を体験する。
それはアセンションと認識されてる事象に伴う変化でも有り、
そしてそれを通して、
自省(胸の磁性“十”)し、
そやからこそアセンション後の不安の無い世界を創造する。
創造出来得るって事でんねん。
そやから、
智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)・・・
それは体験から得られた、
そして自分がエネルギーを贖いその上で、
“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)を得た上での、
認識で、
それこそが自分にとって、一番貴い何かって事でもあり、
それは、
“一”=1番目のオーラでしかないって話を先生としたし、
その事そのものが又、先生の認識でもある。

それは・・・34年半の太陽凝視と、
何年やってはるか知らんけど、
骨の結晶化の為の電気行と、
そして、Kellyさんのよう知らん事・・・それは・・・
先生自身のプライベートな体験・・・
それは、
肉体を持っている上での因縁を、
贖った事からこそ、
先生が得た先生の認識(悟り、幸取=さとり)・・・

その認識の一部が、
本当の幸福の意味って言うのんは、
神格化であり、
その事そのものが、
生命・・・生きる使命=存在理由でもあるって言うのんが、
先生自身の認識(悟り、幸取=さとり)・・・でもある。

こんな事はいくら(言葉としての)知識を知ったとしても、
得られない認識でもあるやん。

そして、先生の認識・・・
霊的成長の仕組みとも言い得る右往左往と左往右往・・・
それは、“日月神示”の表現ならば、
“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、
それぞれの左右の磁性の、
右往左往と左往右往でもある。
こんな見方が出来るのも、
今まで先生自身が、
右往左往と左往右往して沢山苦しんだ・・・
そして・・・認識を得たからでもある。
そやから、
“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、
それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往、
その事そのものが霊的成長の為の法則性でもあり、
それは創造主の創造の始まりが、
極性を創った=認識した・・・
それに由来する事でもあるって先生は言うてはる。

今言うた、“極性を創った=認識した・・・”

この言葉自体がちょっと解り難い言い方やけど、
それに付いては、先生が、
もう一本別ブログを立ち上げてから細かく説明するつもりでんねん。

そやから、今言いたい事は、
体験して失敗して、
砌(みぎり)の“行”と日足(ひたり)の“行”をして、
それを自分自身が観察して、
自分自身の認識(悟り、幸取=さとり)の拡大=オーラが大きくなって行く事そのもの・・・
その事を先生は霊眼を発現してた時に認識した。
その事を根拠に先生自身は、
“行”やってはるって事やし、
それは、太陽凝視を教えてくれたKさんも、
そう言う認識を持っていたからこそ、
自分の子供達・・・11人の子供達に、
太陽凝視と電気行をさせた。

そして・・・又、余談やけど、
もっと昔から人は自己奉仕者になって来た傾向が有るんやけど・・・
その判りやすい一例が、
聖徳太子が現れた事・・・豪族が天皇を自分達の権力の為に利用するようになった。
その時点で、
天意を受け民衆を指導し率いて行くべき筈の、
真の天皇制は、崩れてしもたって先生は思うてる。
そして又々、余談やけど・・・
その頃にあった価値のある文献等は、
大化の改新の時に焼けてしもたって先生は思うてる。
その中の価値のある預言書とも言えるものが、
暦(こよみ)=来る世を見る、来世見(観)・・・
そう言うものが有った事、
その事を先生は“上”から通信を受けてる。
そして他にも、肉体のチャクラに相当する記録や、
人(日止、霊止)の肉体の霊的干渉(電磁誘導)のラインでもある、
経絡図譜に相当する物も、それ以前には有ったって先生は思うてる。

それらの事は、
人の霊的成長を示す重要な法則性が示されている物やから、
日本にも必ずあった筈・・・そやからその一部が、今、
古神道の鎮魂法として残っている。
しかし、それを日本から無くする事が、
又、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑でもあった。
そやからそれを実行させるには・・・
要は、その具体的な方法って事なんやけど、
大化の改新で燃やされた事自体が、
人の低い心(靈)の発現を煽れば、
簡単に事を済ます事が出来る・・・その事を、
人の霊的進化を望まない存在は知っている・・・熟知している。

それは・・・そのパターンは今かてそうやねん。

“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の、
傀儡の人の言葉は、
みんな幸せになりましょう・・・とか、
美しくなりましょう・・・とか、
健康になりましょう・・・とか・・・
今までやってきた事を振り返る事をさせない。

そして先生が憂いている事・・・それは、
太陽凝視にはこんな効果があります・・・とか、
アセンションすると不安の無い時代が来ます・・・とか・・・

そう言う甘い言葉。

それは大体、人を落とし入れようとする存在は、
甘い囁きで人を唆す(そそのかす)。
そして、
感覚優先の物の見方をさせ甘い夢を見させる。

アセンションっていうのは、
人の生き死にに関わる事やし、
その重要性を考えさせん・・・
ほんでから太陽凝視は、
沢山の苦痛を贖わんと本当に価値のある通信は受けん。

そやから、
(霊的に低い)甘い人ほど、そんな事は考えん。
思いたくも無い。

この事も何回もいうけれど・・・敢えて指摘させてもらいまんねん。

・・・そやから、
地球自体が自己奉仕者の活躍する場(フィールド)になったのは、
もう随分前からの事で、
ほんでからそのころから地球そのものが右往左往の段階に入り、
その結果が今の世界でもあり、
それは、
低級な欲の振動で出来た世界でもあり、
恨みの連鎖の霊的干渉でいっぱいの世界でもあり、
低い心(靈)の発現の段階の人が活躍する=“力”を示す世界でも有り、
そして・・・
形骸の価値感で行動する人が圧倒的多数の場(フィールド)になってしもてる。

しかし・・・余談やった。

上つ巻 第二十帖の解釈からとんでもなく話が逸れたけど、
“日月神示”で言うてる事は、
人の形骸の認識を戒めてる事も多いから、敢えて言うときまんねん。

ほんでから、前後するけど、

“世の元の大神(かみ)の仕組”・・・

この言葉の一つ一つを解析していくと、
世=事象=現津(あきつ)=観察され得る事象って事を思わせる。

それは“元の大神(かみ)”・・・
“元”は、二と儿部(じんぶ、にんにょう)、
肉体のオーラと時間の進行を示す字でもある。
儿部(じんぶ、にんにょう)は、人の歩く様に象る部首でんねん。
ここまで前のブログとこのブログを読んでくれはった人なら、
この言葉の意味は、すぐ理解出来ると思いまんねん。

ほんでから“大神(かみ)”
大は人の発振、発信する様子。
それは人(日止、霊止)+ 胸の磁性“十”
そして神=示すへんに“呂”。
それはエネルギーの回転で発振、発信する様子。
そして人(日止、霊止)は肉体を持っているやんか。
それは縦の磁性=(たて棒、コン)と、
頭、胸、腹の磁性、“一”“二”“三”(ひふみ)を持っている。
そしてそれを繋ぎ合わせた字が“王”で、
二と三の間のエネルギーの回転を示すのが、
“玉(ぎょく)”の中の点、
ローレンツ力でもある。
そして、
腹の心(靈)の発現は、
大日如来の条帛(じょうはく)のように上昇し、
その時の心(靈)の発現が“慈悲”と“慈愛”やし、
ほんでから体質にもよるんやけど、
その時に起こりやすい変化が、肺の経絡を病む、
ゲホゲホゴホン、
ズルズルズル~~~でもあるやんか。
(霊的干渉 “目上(めうえ)と目下(めした)” その二~四 参照)

そやからこそ、
腹の段階の心(靈)の発現由来の観察を示す言葉が、
次の言葉、

“外国がいくら攻めて来るとも、
世界の神々がいくら寄せて来るとも、
ぎりぎりになりたら神の元の神の神力出して岩戸開いて一つの王で治める神のまことの世に致すのであるから、
神は心配ないなれど、
ついて来れる臣民 少ないから、早う掃除して呉れと申すのぞ、
掃除すれば何事も、
ハッキリと映りて楽なことになるから、早う神の申すやうして呉れよ。”

この文の中の“外国”は、
ちょうど戦争が起きてる時にこの文章が書かれたからって事もあるやろけど、
やはりKellyさん的に感じるのは、
外側(外国と幽界)の、
現津(あきつ)=観察され得る事象の観察って事でしか無いと思う。
それは簡単に一言で言えば、
自己観察が足らん。
自分の心(靈)の動きを自分で分析出来ん。

自分の目先の、
外側(外国と幽界)の事ばかり意識している心(靈)の状態でもある。

そやから外側(外国と幽界)の観察をしてる段階って言うのんは、
自我の確立=固定化の段階の霊的成長過程で、
それは動物から人(日止、霊止)になる過程でもある。
そして人(日止、霊止)は、
段々“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きを持ち始める。
その時に起きる肉体的な変化は、
前足が両手になる。
両腕と胸を構成する骨で腹のサイクロトロンの段階から、
シンクロトロンに移行するとも言い得る。
それは前にも言うたけど、“日月神示”内の言葉であれば、
“江戸と尾張”が腹の磁性で、
○ 九 十(マコト)の“十”は、
胸の磁性“十”を表す。

それは頭と尾骨の磁性が、縦の磁性で、
両腕の磁性が、横の磁性・・・
そやからそれは“十”と表現された。
そやからこそそれは、心(靈)の発現が段々“上”に向かうとも言い表す事が出来、
そしてそれは、
円形粒子加速器の構造が、車輪を表すチャクラって言葉になった。
それが先生のチャクラに対する解釈でもある。
そしてこの事は、
生きている肉体にしか生体内電流が観測出来ない事、
これがとても重要な根拠になってる。

そやからこそ先生独自の概念でもある事。
○=荷電粒子の場(フィールド)=心(靈)。
それを構成するのは縦の磁性と横の磁性。
心(靈)の発現は、
“上”から降り注がれる(瀧原宮の命名に示される滝の如くの様に・・・)荷電粒子を、
肉体の磁性=ローレンツ力で取り込んで、
その事そのものが、
○=心(靈)の創造になって行く。
但しそれは、
人(日止、霊止)の心(靈)の発現の場合で、
もっと下等な生物の心(靈)の発現と、
その下等生物の肉体の構造が持つ電気特性を、
先生は、三本目のブログで説明するらしい・・・
それは、
なんでも自分達より“下”から理解せんと、
自分達の心(靈)の発現がよう解らんからからでもある。
ほんでからそのブログは、秋くらいから始まる・・・そのつもりで今、
先生は文章を作ってはる様やねん。
さっきも言うた楽屋落ち的情報やけど・・・

ほんでから、

“ぎりぎりになりたら神の元の神の神力出して岩戸開いて一つの王で治める神のまことの世に致すのであるから、”


“ぎりぎりになりたら”・・・敢えて説明する事では無いな。
その時期が来て文明が崩壊して・・・って事やな。
それは次の言葉に掛かり、
“神の元の神の神力出して”・・・くどい表現のように見えるけど、
“神の”と、
“元の神の神力”には、
それぞれ意味があり、
これはさっきも言うたけど、
“元”=二と儿部(じんぶ、にんにょう)・・・肉体を持った人(日止、霊止)の、
時間の進行に伴う創造を示し、
そやから“元の神”は、
よいカタチを創造する事を人(日止、霊止)に託した、
“上”の意思でもあると思えるし、
“神力出して”は、
身魂掃除、身魂洗濯=自己観察して、
自分の心(靈)の中の、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を、
見出し、区別し、
その方向性を自分で決定する事と、
そして身魂磨き=結晶化。
それが出来て無いと出来ない事でもある。
そやから次の言葉、

“岩戸開いて一つの王で治める”
戸の“上”の岩。
岩は、
山=脳と腹の水の中の帯電するミネラルをさす“石”。
それが固まって=結晶化、
そして水で“上”の意思を受信して脳で認識する。
(電磁波は水に吸収される性質を持つ、前のブログを参照の事)
そうやって人(日止、霊止)は完成されていく事、
それが、
“一つの王で治める”・・・
一人の“王”が治めるって事ではなく、
自分の心(靈)の在り方をよく考える人=霊的成長を果した人(日止、霊止)は、
現状より良いカタチの創造しかしないし・・・
自分の中の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を自分に許さない。
そう言う人の世界がアセンション後の世界って事でもある。
そやけど・・・認識の程度の低い人は、
この言葉を見て、
独裁者が現れるとか、たった一人の王様が政治を治めるとか・・・
そんな事しか思わんやろけど・・・
まあエエわ・・・そんな事は・・・

今まで言うた事、そやからこそ次の言葉、

“神のまことの世に致す”

霊的成長を果した人(日止、霊止)が創造する世界って事でんねん。
真実=真固止の認識を得られ、
それしか無い世界でんねん。
そやから、
現状の世界は、
チャクラの覚醒が低い段階の人の創造した、
なんでも形骸の価値感で動いてて、
形骸の“力”で出来上がったとも言い得る、
失敗の世界を、
今、観察させられてる。
それが、現津(あきつ)=観察され得る事象でも有り、
そこから得られる認識は、
平均的に地球人は、
腹の段階のチャクラ、マニピューラチャクラまでの段階が機能している。
そやから自我の確立=固定化でもあるし、自己奉仕者が多い世界でもあるし、
それは“日月神示”の言葉の、
腹の水と尾骨の磁性を指す、
“江戸と尾張”でもある。


話を戻し、次の言葉、

“今度はとことはに変らぬ世に致すのざから、世の元の大神でないと分らん仕組ざ。
洗濯できた臣民から手柄立てさしてうれしうれしの世に致すから、
神が臣民にお礼申すから、
一切ごもく捨てて、早う神の申すこと聞いて呉れよ。”


“とことはに変らぬ世”

この言葉はアセンション後の世界を指し、
今起きてる、
右往左往と左往右往が引き起こす醜い事象が無くなるからこそ、
そしてその世界は、
さっきも言うた霊的に高い人、
智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)を持ってる人(日止、霊止)、
“力”の使い方を、
全体の奉仕を中心に考える人ばかりの世界に成るから、

“洗濯できた臣民から手柄立てさしてうれしうれしの世に致す”
“神が臣民にお礼申す”
・・・こういう表現をされると思うやん。

そして今とても誤解されてる表現、

“洗濯できた臣民”
“身魂掃除”
そして、“身魂磨き”・・・

この表現自体は、
その人が高い振動を受信出来、
それを自分の認識に出来る人(日止、霊止)=骨の結晶化をして、
相対的に今よりも、
“上”からの高い振動を受発信出来る人(日止、霊止)が、
“洗濯できた臣民”である事。
こんな事も何回も言うた事やから、
くどくど説明するのはやめときまんねん。
要は、
自分の心(靈)の中の“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を認識して、
そして“行”すればエエ事やねん。

そやからその事の補足として、次の言葉、

“因縁の身魂は何うしても改心せねばならんのざから、
早う改心せよ、
おそい改心なかなか六ヶ敷ぞ。”

“因縁の身魂”
背負っている因縁は自分の在り方を示し、
そして因縁と戦いながら自分を構築し、
そして“力”と認識(悟り、幸取=さとり)を得る。
ややこしい難しい言い方やけど、
ここまで・・・前のブログとこのブログを読んでくれはった人(日止、霊止)なら、
すぐ解ると思うから細かい説明はしませんねん。

ほんでからこの言葉の中の
“六ヶ敷”
これは前にも言うた事があるからそのままコピペしときまんねん。
(Kellyさん的“日月神示”解釈 上つ巻第十五帖 参照)

     ↓


“六ヶ敷い”は、
落語や講談によく出てくる言葉らしく、
“むつかしい”って読ませるらしいやん。

そやけどこの言葉をKellyさん的に観たなら、
六=陰爻=神の思惑と人(日止、霊止)の思惑、その両方の顕現・・・
“六”についてのKellyさん的解釈は、
“Kellyさんが、“日月神示”を解釈して行くに当たって・・・考えた事。”
・・・を読んで欲しいねん。

そして、
“敷い”・・・これは場(フィールド)の構築としか思えへん。
神さんの思惑を受信し、
そして、
自分達が思想を構築し、その上で行動し・・・
場(フィールド)の構築をして行く。
それが事象=現津(あきつ)=観察され得る事象って事になり、
結果、
観察している何かって言うのんは、心(靈)の中の事なんやけど・・・
その創造って言うのんは“上”からの思惑を顕現していかんと、
貴いとか美しいとか価値があるとか・・・
そう言う色んな事を思わせる・・・感じさせる場(フィールド)を構築して行こうとするのが、
人(日止、霊止)としての生命(生きる使命=存在理由)やろし、
そやからこそ人(日止、霊止)は、
神の子なんやろし、
そして良い形の創造の概念が、
幸福って概念やし・・・

そやけど現状、幸福の概念が低いから、
欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかって事をして、
自分達の利益の追求をする人が多い・・・多すぎる。

多すぎるから失敗するんやけど、
それも、
事象=現津(あきつ)=観察され得る事象でもあり、
そやからそこには、失敗を通じ、
霊的成長の為の法則性=“道”が出来、
そやからこそ、
“六ヶ敷い”=むつかしい法則性を認識して行くのには、
困難を伴い、
そして獲得した認識は霊的成長の為の認識やからこそ、
“道(おしへ)”って言葉で示される・・・
こういう表現になってると思えるやん。


・・・以上でんねん。

とても重要な言葉と概念やと思うから、
くどいようにコピペしときまんねん。

ほんでから、
“何うしても改心せねばならん”・・・

それをせんと次の段階に移行出来ん。
それは“因縁の身魂”に掛かり、
今の低い事象を構成している人達の事を言うてる。
それは何回も言うたけど、
人(日止、霊止)の低い心(靈)の創造でもある。

特に最近目立つ、
誤魔化したり欺いたり・・・そうやって自分の利益を得てきた人。
それは低い幸福の概念でもあり、
その心(靈)の発現は、
低い功名心と自尊心=自我の肥大=マニピューラチャクラの覚醒段階。
そして自省(胸の磁性“十”)し、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現をする。
そやからその具体例は、
生きてる間に、
閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)に、
似た体験をして、
批判され自分以外の誰もが敵になり、落ちぶれ・・・
前回の、
“日月神示”上つ巻 第二十帖の言葉を引用すれば、
“上の者 下に、落ちぶれた民 上になるぞ、”・・・やろし、
そしてその中で自省し、
自分を戒め、
自分の在り方を確立しなければならない。
そやから今、その事象と直接関係が無いと思われる人も、
その事象を見せられてる。
それは今後、誰もが考えんならん事でもあるからでもある。
(さっき言うたホ○○○○でもそう言う事でんねん。)

その事を補足として説明してるのが次の言葉、

“神は帳面につける様に何事も見通しざから、
神の帳面 間違ひないから、
神の申す通りに、分らんことも神の申す通りに従ひて呉れよ。
初めつらいなれどだんだん分りて来るから、
よく言うこと聞いて呉れよ、”

この言葉は、
“上”の存在はすべて知ってるし、
バチを当てる時期まで計算してる。
ほんでから、
バチは霊的成長度に応じてしか当たらへん。
それが又、S会=紫光会の交霊会での言葉、
神は乗り越えられない困難は与えない
の意味の一部でもある。

そして、
次の言葉も人の観察行為の様子を示す側面があり、
外側(外国と幽界)の事象しか観てない人の事を言うてると思えるやん。

“外国から攻めて来て日本の国丸つぶれといふところで、
元の神の神力出して世を建てるから、
臣民の心も同じぞ、”


この言葉の中で重要な事を感じさせるのがやっぱり、
“元の神の神力”で、
さっきも言うたけど、
“元”=“二”(肉体のオーラ)と儿部(じんぶ、にんにょう)。
人(日止、霊止)は完成=“王”を目指す。
そやからこそ、
“神力出して世を建てるから”・・・でも有り、
“上”の思惑を現象化した人(日止、霊止)、
それは自省(胸の磁性“十”)を果した、
霊的に高い人の創造=発振、発信でもあり、
元=2~3番目のオーラと儿部(じんぶ、にんにょう)で、
事象の形成をして行く。
それを・・・その事を“上”は望んでる。
だからこそ、

“臣民の心も同じぞ”

・・・って言うてると思えるやんか。


ほんでから次の言葉、

“江戸も昔のやうになるぞ、
神の身体から息出来ぬ様にしてゐるが、
今に元のままにせなならんことになるぞ。”

“昔のやうになるぞ”
・・・は、さっき言うた事、
今の時代は自己奉仕者が活躍する時期やからこそ言われてる事で、
もっと昔・・・天皇制が形骸になっていなかった時は、
腹で=“江戸と尾張”で、
受信して発振、発信する人の思惑には、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”が無かった。
そういう事を感じさせる言葉やな。
そやから、

“神の身体から息出来ぬ様にしてゐる”

この言葉の中の“息”=自分の心(靈)。
それを呼吸、息吹、気吹、生吹、と言ってもエエ事やし、
発振、発信やし、
そして創造して事象を感得する。
それが出来て無い・・・だから、
“神の身体から息出来ぬ”・・・

神の思惑を取り込むべき身体から、
発振、発信=息出来ないように成ってしまった。

そう言い表すのが妥当と思えるし、
一言で言えば、人(日止、霊止)の思惑が“上”の思惑通りになってない。
それは、恨みの連鎖由来の、
貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きを、
大多数の人が受信してるから、
その受信で自分の心(靈)を構築してるから、
重ねて言うけど、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の世界の創造を、
今、大多数の人がしているって事やと思えるんやけど・・・

そやから次の言葉、

“富士から三十里四里離れた所へ祀りて呉れよ、
富士にも祀りて呉れよ、”

この文の中の“祀りて呉れよ”は、
“日月神示” 上つ巻 第四帖 Kellyさん的解釈”で、
既に述べた事屋から説明しませんねん。

例に拠ってコピペしときまんねん。
       ↓

“祀”・・・示すへんに巳。
示すって言う字は、
“二”=2~3番目のオーラ=肉体と、
亅部(けつぶ こう かぎ)=“上”から下に降り、
そして日足(ひたり)斜め上にはねる。
良いカタチで“下”から日足(ひたり)“上”に現象化するっていう意味と、
ほんでからに亅部(けつぶ こう かぎ)の左右に点が二つ、
この二つの点は回転を示し、それは人のエネルギーを示し、
そのエネルギーそのものが砌(みぎり)と日足(ひたり)でもある。
そしてこの点の書き方自体が、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)・・・
そう言う意味を持ってると思いまんねん。

示すの中の丿部(へつぶ)と乚部(いんぶ) 

ほんでから“巳”・・・
これは十二支の六番目の巳でもあり、
それは陰陽五行として“火”に属す。
そやからこの“祀る”って言う意味は、
肉体の事そのものでもあり、
その良い形が、
神=示すと“呂”エネルギーの回転による発振、発信・・・
それは“上”から降り注がれるエネルギーって言ってもいいし、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)を、
取り込んでるって事でもある。
そやからそれは、相対的に高い心(靈)の発現って事になって行く・・・
地球人の(霊的)進化程度から言って、
自我より“上”の心(靈)の発現、“慈悲”と“慈愛”の発現になって行く。
又、さっきも言うた事やけどそれは、天意を伺うって事やねん。
段々“上”の思惑を受信するようになるって事でんねん。
それそのものを示した言葉が、“神祀り”・・・
そう思えまんねん。

      ↑
・・・以上でんねん。


ほんでから“三十里四里”は、
距離の事ではなく、
“富士”も、地名としての富士山とか富士市の事では無い。

“富士”=“二二”で、
それは肉体の持つ左右の極性でもあると思える。
この事はこのブログの初めの頃の文章で説明したな。

ほんでから、
“三十里”は、
“三”は三つのオーラで、
“十”は何回も言うたから敢えて説明しませんねん。
そやから、
“三”と“十”を足すと、
人(日止、霊止)の完成された様子を示す“王”に成る。

ほんでから“四里”は、
“四”は、発振、発信する様で、
(Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 参照)

“里”は、
この間、上つ巻 第二十帖の“十理(トリ)”の解釈で言うた様に、
“田”と“土”で構成された字でもある。
思想と行動=発振、発信・・・それによる、
現津(あきつ)=観察され得る事象の創造でも有り、
それは人(日止、霊止)の思惑と顕現でもあるって事でんねん。
人の思惑と顕現には“上”の思惑を足さんとアカンって事でんねん。
“上”の思惑を認識する肉体の器官は、
“田”に示される大脳新皮質・・・目上(めうえ)の脳って事でんねん。
これもいちいち説明するととても長くなるから、
霊的干渉“目上(めうえ)と目下(めした)”を、
よく読んで欲しいねん。

そやから、
“三十里”と“四里”は、
すべて“里”に掛かる言葉で、
それは“富士”と、一体ではない・・・そう言う表現がエエのか知らんけど、
“上”の思惑が肉体のオーラと一体ではなく、
その肉体のオーラの発振、発信が“上”の思惑通りでは無いからこそ、
“上”からの通信を受けた認識が、
人の創造し得る事象に生かされて無いからこそ、

“富士から三十里四里離れた所へ祀りて呉れよ、
富士にも祀りて呉れよ、”

・・・って言葉になる。
“上”の思惑と、
人(日止、霊止)の思惑が一体では無いって事を指し示し、
そやからこそ、
“祀りて呉れよ”=受信して自分に体得して、
それを、
大脳で感じる認識(悟り、幸取=さとり)にしてくれ・・・って、
事でもあると思えるな。

ほんでから次の言葉も、今言うた事と同義、

“富士はいよいよ動くから、
それが済むまでは三十里離れた所へ、仮に祀りて置いて呉れよ。”

“富士”=“二二”で、それは、肉体の左右の極性。
“上”の思惑が、富士=左右の極性に活き、
人(日止、霊止)の思惑と“上”の思惑が一体になり、
そして事象の創造をして行く事を示す言葉で、
それがアセンションの時期に遭遇する、
フォトンベルト=大日如来の条帛(じょうはく)で、
条帛(じょうはく)そのものが、
“呂”=“上”と“下”の口 + 丿部(へつぶ)、
それは、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を示し、
左往右往を示す事でも有り、
腹のエネルギーの上昇する様子でもある。
そして人(日止、霊止)は、
“慈悲”と“慈愛”の心(靈)を発現する。
この事も前のブログで先生が説明した事やから、
敢えて説明しませんねん。

そやからその時期が来るまでは、
次の言葉のように言われてる・・・

“富士は神の山ざ、
いつ火を噴くか分らんぞ、”

これは実際に富士山が噴火するって事も言うてるんやろけど、
“火を噴く”は、
肝=砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”・・・
そしてそれはS会=紫光会の交霊会などで“火”とされている。
この事もこのブログで前述した。
それは、
物質が酸素(呼吸で)でエネルギーに変換される事でもある。
創造って言うのんは、砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”が無いと、
出来ないって事でも有り、
その創造自体が砌(みぎり)回転=心(靈)が“下”に向かう事=“悪(心の動きの本能化と低振動化)”ならば、
それは右往左往で失敗になる。
そやけど、
“富士は神の山”
これは、
“二二”=左右の極性に、
“神の山”=“上”の思惑を受信した脳を指す言葉、
それは天意を受けた人の認識(悟り、幸取=さとり)を指し示すと思えるな。

そして次の言葉は、人に対する期待の込められた言葉・・・

“神は噴かん積りでも、
いよいよとなれば噴かなならんことがあるから、
それまでは離れた所へ祀りて呉れよ、”

時期が来たら(自己奉仕者としての)人の都合など、
関係なく事を済ます。
でも・・・その時期に間に合って欲しい・・・
その為に自省(胸の磁性“十”)の“行”をして欲しい。
“慈悲”と“慈愛”の発現をして欲しい。

間に合わせたい・・・一人でも多く・・・
そやからこそ“日月神示”は、
“上”から垂れた文章で重要な情報でもある。

それと同義の事として、以下の言葉、

“神はかまはねど、臣民の肉体 大切なから、
肉体もなくてはならんから、
さうして祀りて呉れ。
神はかまはねど、臣民の肉体 大切なから、
肉体もなくてはならんから、
さうして祀りて呉れ。
まつりまつり結構。”

とにかく“上”からの思惑を意識してくれって事やと思いまんねん。
意識せんと感応共振せん事やし、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑は、
憑いてる霊的存在は、
何でも主護霊と思わせる・・・これも何回も言うた事でんねん。

そやからこの一例をとっても、
それは今、
なんでも形骸の価値感で動いてる・・・
その形骸の価値感を作っているのは、
人の心(靈)の低い分部でしか無いし、
その自覚を持ってない人が大多数・・・
そやからこそ、“上”の思惑を受信する事を指して、

“まつりまつり結構。”

・・・そうなってくれって事でんねん。
今日はこれくらいにしときまんねん。



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


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