“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 水の巻 第九帖 Kellyさん的解釈 

 今回も、水の巻 第九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

富士は晴れたり日本晴れ、いよいよ岩戸開けるぞ。 お山開きまこと結構。 松の国 松の御代となるぞ。
旧九月八日から大祓ひのりとに天津祝詞の太のりと「一二三(ひふみ)のりとコト」入れてのれよ。 忘れずにのれよ。 
その日からいよいよ神は神、けものはけものとなるぞ。江戸道場やめるでないぞ、お山へ移してよいぞ、役員一度やめてよいぞ。 またつとめてよいぞ。 
めぐりあるから心配あるのぞ。 めぐり無くなれば心配なくなるぞ。 心配ないのが富士は晴れたりぞ、富士晴れ結構ぞ。
日津久の御民 何時も富士晴れ心でおりて下されよ。 肉体ちっとの間であるが、魂は限りなく栄へるのざぞ。
金に難渋して負けぬ様にして下されよ。金 馬鹿にしてはならんぞ。 あせるでないぞ。あせると心配事出来るぞ。 神が仕組みてあること、臣民がしようとて出来はせんぞ。 細工はりうりう滅多に間違ひないのざぞ。 見物して御座れ、見事して見せるぞ。 
不和の家、不調和(ふわ)の国のささげもの神は要らんぞ。 喜びの捧げもの米一粒でもよいぞ。 神はうれしいぞ。 
旧九月八日とどめぞ。
六月二日、みづのひつ九のか三。

 第九帖には“富士”と“日本晴れ”“晴れ”の表記がいくつか登場する。 
 また“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、それを“行”として行う“日津久の臣民”の表記もある。

 これまで解釈してきている通り“日月神示”表記の“富士(二二)”は、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道のこと。 人が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくと、日足(ひたり)の極性と砌(みぎり)の極性がたかまる。
それは個々の思想が“日津久”=太陽凝視で“上”と感応していく、これが、進化していくべき人間の日足(ひたり)の極性のたかまりであり、それを現津(あきつ)、観察され得る事象に顕現する、顕現すること事態が砌(みぎり)の極性であるし、本来、このこと事態が人間の存在の意義であり、進化した生命である人間、“一”=智性=1番目のオーラがたかまった、あるいはたかまっていくべき人間のことを、古神道の表記の“日止、霊止”と呼称すべきである。 

 それと、“お山開き”“お山へ移してよい”の“お山”は、“一”=智性=1番目のオーラのたかまりによって進化していく目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳のことである。

 説明が前後するが“日止、霊止”の表記、これは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、あるいは日月の巻の表記の“天津御空(あまつみそら)”これも“上”からの振動の意であり、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子を、肉体(月(ツキ))の磁束、ローレンツ力で止める、それが“日止、霊止”の表記の意味であり、肉体(月(ツキ))が持つ円形加速粒子機の構造(サイクロトロン、サイクロトロンに水平磁場が加わるとシンクロトロン)で、“一二三”のオーラとして発振、発信することが、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、息吹はまた、“日月神示”表記の“言”“コト”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)でもある。

 それで、“日本晴れ”“晴れ”に関しては、過去に幾度か使った画像で意味を示すこととする。

“晴れたり日本晴れ”の解字

 これも太陽の意味と自省(胸の磁性“十”)の意味、そして心(靈)(ヒ)が育つ過程の右往左往と左往右往、そして育った心(靈)(ヒ)、進化した心(靈)(ヒ)の“思惑の顕現”=現象化の意味合いがあることを今まで述べてきている。

 そしてまた、第五帖と第七帖で登場した“松”(〇つ)の表記があり、この表記の意味は、“上”の思惑、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子が、つづまる(約まる)集う(つどう)して、これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈)=○である。

 これらのことを踏まえ、第九帖の本文の解釈に入る。

まず、
“富士は晴れたり日本晴れ、いよいよ岩戸開けるぞ”
というのは、進化した生命、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性が高まった人は、自省(胸の磁性“十”)の心を持つ、それは自我より“上”の心(靈)の発現なので、岩戸開きをする、この岩戸を開くの意味は、岩を構成する字、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、それはヨガでいうところのアナハタチャクラ、その心(靈)の発現は、“慈悲”と“慈愛”、そして重複するが、自省(胸の磁性“十”)の心である。

 これに続く、
“お山開きまこと結構。 松の国 松の御代となるぞ”
は、山=目上(めうえ)の脳が開く、これは“一”=智性=1番目のオーラのたかまりであり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を望んでいる“上”としての立場の言葉として“結構”であり、そうなれば先に説明した“松”〇つ、という生命、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意と感応する“日止、霊止”になる、そういった心(靈)(ヒ)の持ち主(“国”)と、その人たちが“創造”する時代になるという言い回しが“松の国 松の御代となる”ということで、いうまでもなく霊的成長度における区分け、アセンション後のことである。

 次の、
“旧九月八日から大祓ひのりとに天津祝詞の太のりと「一二三(ひふみ)のりとコト」入れてのれよ。 忘れずにのれよ”
の“九月八日”も日付のことではなく、“九”は“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、現地球人より“一”=智性=1番目のオーラがたかまった状態を指すものである。 そして月は肉体(月(ツキ))のこと。 
そして“八”文字の構成が、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、そしてこれは“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同じ意味を持つ。 そして“日”は、太陽のことであり、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性がたかまった“日止、霊止”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、と感応するというのが“八日”の意味であり、さらに“旧”の表記は、「古い」の意味ではなく、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と太陽を示す“日”、あるいは、太陽の振動が下降する、それを|(たてぼう、こん、縦の磁性))で示していると思える。
 よって“旧九月八日”も、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をある程度果たした肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)、“日止、霊止”を指す表記であり、これに続く“大祓ひのりとに天津祝詞の太のりと「一二三(ひふみ)のりとコト」入れてのれ”は、元々、
大祓祝詞、(中臣祝詞、中臣祓ともいう)の「天つ祝詞の太祝詞を宣れ 此く宣らば」で、太祝詞(ふとのりと)を唱えるべきものであり、一昔前は“役員づら”の神職などに多額の(通貨としての)金を払わなければ教えてもらえなかった「ヒフミヨイムナヤコト モチロラネ シキル ユイツ ワヌソ オタハクメカ ウオエニ サリエテ ノマス アセエ ホレケ ウイエ」、これは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応のための文言であり、これを唱えること事態が“上”との感応になる。 それで第九帖の文言は、そのことを指す意味合いもあるが、“一二三(ひふみ)のりとコト”と述べられているので、“一二三”のオーラを“のる”=発振、発信せよ、それは、“コト”、
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意、
と、
“ト”は、止まると云う心、
要は“上”の思惑、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを自らに止め、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)とせよ、という意味合いであり“忘れずにのれよ”は、その発振、発信が出来得る進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たせ、そして“上”との感応を忘れるな、という意味合いである。

 これに続く、
“その日からいよいよ神は神、けものはけものとなるぞ。 江戸道場やめるでないぞ、お山へ移してよいぞ、役員一度やめてよいぞ。 またつとめてよいぞ”
は、“その日”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たし“一二三”のオーラをきちんと発信しうる、“一”=智性=1番目のオーラがしっかりした進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の人が現れることにより、その人たちは、“上”と感応し、神の思惑を顕現しようとするから“神は神”と称され、そうではない今までの地球人は目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の進化過程であるから“けものはけもの”と分類される、それが霊的成長度の高低において区分けされるアセンションの意義であるが、現時点、この認識が一般になさすぎることを示唆しているのであえて“その日からいよいよ”と述べられている。 
 そして“江戸道場やめるでないぞ、お山へ移してよいぞ”の“江戸”は、“江戸と尾張”腹の水、(“江戸と尾張”の“江”)、それは自我の進化、自我の発達、腹の位相のサイクロトロン、三番めのオーラの強化のことで、それを“道場”と称されており、その三番めのオーラを“上”に引き上げる、本文の“山へ移してよいぞ”は、“山”=目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の“行”をする、それをするなれば、三番めのオーラは胸のシンクロトロンの構造で“上”に引き上がり“一”=智性=1番目のオーラに変換されていくことを○○○大先生は著書で述べた(条帛(じょうはく)のこと)が、これが“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことの秘密でもあるし、“ほんとう”の意味での進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、これが必須であることをあえて述べておく。
 これに続く“役員一度やめてよいぞ。 またつとめてよいぞ”は、“ほんとう”の意味合いの“役員”は、程度の低い人を進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に導くものであるが、今は“役員づら”が台頭しているので、活躍する条件に無いことを述べられているが、先の“その日からいよいよ”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をある程度果たした人が台頭する時代になれば、進化程度の低い人を導く役割を行使することが出来得る、という意味合いにとれる。
 だが、そういった時代になれば現地球人の大半である“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の進化過程の人達はいない、ある程度自省(胸の磁性“十”)をした人でなければ、次の段階に移行しえないことを述べておく。

次の、
“めぐりあるから心配あるのぞ。 めぐり無くなれば心配なくなるぞ。 心配ないのが富士は晴れたりぞ、富士晴れ結構ぞ”
の“めぐり”は、恨みの連鎖の霊的干渉、平均的地球人の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きが生み出している因縁のことであるが、それが無くなるのが次の段階、アセンション後の事象であることを今まで幾度となく述べているが、そのことを指しているに過ぎず、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対して(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者、“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)を理念とした人たちは恨みの連鎖の霊的干渉を生み出さず、当然のことながらローム太霊がローム太霊講話集の第九話で述べられた“憎悪の霊団”とも感応しないものである。
 それを示す文言、ある程度進化して(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者となった人たちは、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、がしっかりしており、先に画像で示した“晴れたり”になっており、“めぐり”を生みださない、創らない、増大させない、今の状況とは変わって来ることを“めぐりあるから心配あるのぞ。 めぐり無くなれば心配なくなる”と述べられ、自分たちが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)したならば、恨みの連鎖の霊的干渉は減少し、いつか消失するので“心配ないのが富士は晴れたりぞ、富士晴れ結構ぞ”と述べられている。
 またこういった世界を人間に創らせるのが神の思惑であり、それをローム太霊は、ローム太霊講話集の第二話で、
何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う
という言い回しで、神の思惑について述べておられる。

 これに続く、
“日津久の御民 何時も富士晴れ心でおりて下されよ。 肉体ちっとの間であるが、魂は限りなく栄へるのざぞ”は、太陽凝視を“行”として行って自省(胸の磁性“十”)の心を発現させている人、現状を憂いている人たちに対するメッセージである。
 それは以前解釈した、
下つ巻 第三十七帖で、以下のように述べられているからである。
“あめのひつくの民と申すのは、世界治めるみたまの入れもののことぞ”
これは“上”との感応、神の“思惑の顕現”をすべく生命(生きる使命=存在理由)が、“あめのひつくの民”=太陽凝視を“行”として捉え真剣に行っている人を指す表記である。 
そして、
“ひつくの臣民は神がとことん試しに試すのざから、可哀そうなれど我慢して呉れよ、その代り御用つとめて呉れたら、末代名を残して、神からお礼申すぞ”
これは今後=アセンション後の事象を創造するという意味合いであり、今後=アセンション後の事象が神の“思惑の顕現”となっていくからこそ、“末代名を残して、神からお礼申す”と述べられている。
 さらに“ひつくの臣民”は今、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“創造”による事象では、たいして活躍できないことを示す文言が以下の文、
“何事も神は帳面につけとめてゐるのざから間違ひないぞ、この世ばかりでないぞ、生れ代り死に代り鍛へてゐるのぞ、ひつくの臣民 落ちぶれてゐると申してあろがな、今に上、下になるぞ”
この文の“神は帳面につけとめてゐるのざから間違ひない”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は絶対のものであり、それに沿っていない人間と、沿っている“ひつくの臣民”は、それぞれ、それなりの、“上”からの評価があり、やってきたことが“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っているかいないかで、この文の“今に上、下になる”=程度の低い人は活躍できない時代になるし、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをしてきた人が、今後=アセンション後の事象の“創造”の要になることを示すものである。
 また“何事も神は帳面につけとめてゐるのざから間違ひないぞ、この世ばかりでないぞ、生れ代り死に代り鍛へてゐるのぞ”
と、第九帖本文の、
“肉体ちっとの間であるが、魂は限りなく栄へるのざぞ”
は、同じ意味のことを述べている。

 それで次の、
“金に難渋して負けぬ様にして下されよ。 金 馬鹿にしてはならんぞ。 あせるでないぞ。 あせると心配事出来るぞ。 神が仕組みてあること、臣民がしようとて出来はせんぞ。 細工はりうりう滅多に間違ひないのざぞ。 見物して御座れ、見事して見せるぞ”
これは、下つ巻 第三十七帖の“ひつくの臣民 落ちぶれてゐる”にかかる言葉でもあり、先に述べたように“ひつくの臣民”は、今、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に比べれば“金に難渋”しているものであるが、○○○大先生が著書で述べたように“必要なもの以外は必要ではない”という悟りを持つ、そうすれば自分は落ちぶれているとも思わないし、自分の外側(外国と幽界)の事象ばかり見るから“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を羨んだりすることもあろうが、それは“あせるでないぞ。 あせると心配事出来るぞ”といわれている通りであるし、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が集めている(通貨としての)金は、汚い金であるからこそ“金 馬鹿にしてはならん”のであり、“世為人為”を理念として仕事をするならきれいな金しか集まらないが、きれいな金は汚い金より少ないという現状を指し示す文言でもあり、この文を読んだなら自分はきれいな金を集める生業(なりわい)をすべきであると悟らなければならない。
 そしてこれに続く“神が仕組みてあること、臣民がしようとて出来はせんぞ。 細工はりうりう滅多に間違ひないのざ”
は、今後=アセンション後の事象の“創造”、そしてそれを担う(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者、“世為人為”を理念とする人、こういった人達の世になるが、たった今の現状は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍する時代であり、それは“神が仕組みてあること”=神の思惑ではないのだということであり、今はどうであれ、必ず“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の人達は“めぐり”により活躍できなくなり、自分で自分の首を絞めるという結果になり、その時に“世為人為”を理念とした(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者が、台頭するようになるものであることを示す文言で、そのことを最後に強調した形で“細工はりうりう滅多に間違ひないのざぞ。 見物して御座れ、見事して見せるぞ”と述べられている。

 次の“不和の家、不調和(ふわ)の国のささげもの神は要らんぞ。 喜びの捧げもの米一粒でもよいぞ。 神はうれしいぞ”
これは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“創造”した何かを“不和の家、不調和(ふわ)の国(“国”は心の意味)のささげもの”と称されているに過ぎない。
 それに対し“上”が観て“ほんとう”に価値を認めるものを“喜びの捧げもの米一粒でもよい”と称され、何度も言うが“世為人為”を理念とした人の行動は、“上”が評価するものであるという意味合いの文言である。

 最後の、
“旧九月八日とどめぞ”
は、先に述べたとおり、
“よって“旧九月八日”も、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をある程度果たした肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)、“日止、霊止”を指す表記”
のことであり、この文の“とどめ”は、同義語として、佳境を迎える、クライマックスを迎える、ピークに達する、 絶頂に達する、 最大の見せ場、山場を迎える、天王山、極めつけ、などの意味合いであり、これが次の事象、今後=アセンション後に入るための“とどめ”であることを述べ、今回はこれくらいにしときまんねん。



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 Kelly & ○○○大先生

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“日月神示” 荒の巻 (27)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (107)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
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☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




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