“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 上つ巻 第一帖  Kellyさん的解釈

 

前回は主に、
数字の解釈の事を中心にKellyさんはぼやいたんやけど、
そう言う風に“日月神示”を観ると・・・
最初、岡本天明はんが自動書記で書いたんは、下記のようやったそうで、

二二八八れ十二ほん八れの九二のま九十のちからをあら八す四十七れる

卍も十も九も八きりたすけて
七六かしい五くろうのない四かくるから 
三たまを二たんにみかいて
一すしのま九十を
十四て九れ四 

いま一十九十六あるか 
九の九六八三たまを三かいておらぬ十こせぬ 
九の四八まって二十十七一九六てある

・・・ほんまは、
そう言う形で書かれた物を観るのが、エエのかもしれへんけど・・・
色々探してみても、
最初に書いた状態って言うのんは、見つける事が出来へんかった。
その自動書記で書かれた原文を見ると、
違う解釈が出来るのかもしれへんけど、無いもんはしょうがない。
ほんでからに、
今残ってる“日月神示”の文章って言うのんは、
岡本天明はん自身がその原文を観て、
こう言う意味だろうとして文章としたもんやから、
それは、
最初書かれた状態のものを、
岡本天明はんが解釈したって言う事、そのものが、
憑依現象の変圧の過程で・・・
そう言う過程を経て人に意味が伝わったと解釈するのが、
妥当やろな。

そやからこそそれは、数字や記号で書かれた原文って言うのんは、
岡本天明はん自身の考えや思惑が入らんカタチの憑依・・・
ストレートに憑依した存在の思惑を伝えるカタチで、
岡本天明はんの肉体を、道具・・・それは、依り代として使った。
“上”の存在の思惑を“上”の言葉で伝えた。
・・・そういう事やと思うし・・・
そやけどそれでは・・・
(進化程度の低い=沢山の認識を得ていない)人には、
伝わり難い。
そう言う伝え方・・・
それはS会のT霊媒の能力のように、
ローム太霊さんや、
会員の主護霊の意思を肉声で伝えるって言う事でもそうや。
T霊媒の思惑って言うもんの介入が出来へん現象や。
そやから自動書記って言うのんも、
人の常識では考えられへんスピードで書かれたり、
書いてはる人=乗り移られてる人の知らん事を書いたりする。
それはKellyさんや先生にとっては当たり前に解釈出来る事やけど、
そう言う分析が又、
高い存在の憑依なのか・・・本当に価値の有る事なのか・・・
そう言う区別をして行かんならんし、
ほんでからに心霊現象に目が利く人が少ない。
それは問題やと思うやん。

そやから大体、高い存在の思惑が伝わる時は、
その伝えた依り代としての人、
今の話で言えば岡本天明はんとかT霊媒はんとか・・・
その依り代としての人達の考えや思惑は、
そのメッセージその物に介入出来ん形をとる。
そう言う場合が多いんやけど・・・
一般にそう言う分析が出来てへん。
そやから、
現象を起こしてる霊的存在の高低が判らへんと、
心霊現象を何でも一緒に考える。
それは、低い心(靈)の発現由来の観察・・・そういう事は言える。

そやからそれは、なんでも心霊現象をありがたがる・・・
程度の低い人ほどそう言う傾向があるやん。
只々ありがたいとか、現象を凄い事やって騒ぐとか・・・
そういう事に終始する。
それは感覚優先の物の見方でしかない。
ほんでからに、そう言う事象の観察をしてる人って言うのんは、
その中の本当の事を見出す事が出来へん。
そやから今の話・・・只々ありがたいって言うのんも、
感覚優先の低い心の発現由来の観察行為やから、
心霊やらUFOやら・・・そう言うサイトや、
アセンションに対する認識って言うのんも、
てんで低い事になってる・・・
ほんでからにひどい例は、それを商売にしてる。
こんな事も・・・前に先生と話した事やけど、
結果それは、そう言う心(靈)の動きの人が多いからこそ、
商売としてのインチキ宗教や、
霊感商法や、テレビに出てはる霊能力者のように、
自分の意見を相手に押し付け、
甘い事を言ったりして人の弱みに付け込む。
それは只単に霊とかオーラとか愛とかをバラエティにしてしまい、
その甘い(亜、魔、出ずる、泉)雰囲気に酔わせ、
そして数字を取り・・・結果としてその霊能力者は金を取るだけに終始する。
低い現象ほどそう言う傾向が強い。
インチキ宗教や霊感商法でも・・・それで金を取られた人・・・
しかしそれも、
そんな程度の低いもんと縁のあった、金持ちの、
物質しか判らへん価値感でエネルギーを贖って努力して来た人の、
右往左往って事でもあるやろけど、
沢山、金を贖って自分が背負ってる因縁を深く理解して行く・・・
それは自分の人生の価値を知る事にもなって行くやろし・・・
人(日止、霊止)って一体なんやろう・・・って、
考えになって行くやろし・・・
そやからこそ、騙されて金を取られ・・・それから、
考える過程が必要とも言えるやん。
そやからこそ、
そう言う程度の低い心霊現象とかインチキ宗教とか・・・
そう言うもんと、
程度の低い自己奉仕者の進化過程の人は、
縁がある。

これも霊縁や。

おんなじ程度の進化過程=心(靈)の発現が、
同程度やから、
そう言うもん同士、
騙したとか騙されたとか言い合って、
奪った奪われたと言い合って・・・罵り合って、
ほんでからに、
そういう事自体・・・自分の在り方を考える材料にして行かんならん。

・・・いらん事まで考えてしもたけど・・・

そやからそれは、心霊現象の高い低いの区別が出来へん・・・
その区別が出来へん人こそ、
“上”の心(靈)を持ってへんからや。
下三つのチャクラ由来の心の発現しかしてへんからや。
そしてそれは、騙す方も騙される方もそうや。
大体、騙す方かて、自分が“悪”の存在に操られてる・・・
傀儡(かいらい)になってる事すら気が付かへん場合が多いやん。
ほんでからにそれは色々失敗して・・・
失敗させる事自体が、
その人の霊的成長を望んではる存在の思惑なんやろけど、
そうは思わへんやろし・・・
そやからそれは、具体的には、
間違った霊視をしたりとかで、初めて操られてる事に気が付くんやろけど、
そやけど自分は、間違ってないと思いたい・・・
傀儡になってるなんて思いたくない。
それは、低い功名心由来の発想で・・・自分の立場を守りたい。
そやからそれは、愛を語ってはる割には、
自我が強い=低い心(靈)の発現しかしていない事の証明でもあるやん。
そやからこそ低い心(靈)の発現の段階の人が、
“上”に向かう為に・・・向かわんならんから失敗する。
失敗して恥かいて・・・それでも自分が悪くないって思いたい・・・
まるでこの間思うた二十年ぶりに逮捕された人の心境と、
おんなじやな。
ほんでからにこれも、右往左往と左往右往やな。

・・・まあエエわ・・・そんな事は・・・

今の話、
高い存在が思惑を人に伝えるって言うのんは、
きっと、
伝えた存在と、こちら側の認識・・・
人の認識って言うのんは違いすぎるからや。
“下”すぎるからや。
そやから、
人にはすぐその意味が通じん数字や記号の羅列って言うのんも、
それには高い存在からの通信・・・思惑って言うのんがあって、
それを解釈しようとする気持ち=発振、発信が、
又、
直接それを書かせた存在とは、振動の高低の違う霊的干渉を招き、
それは段々“下”に降りてきて、
さっきも言うたんやけど、
それは変圧っていう過程がある。

ほんでからにそれは、
そう言う変圧の過程そのものが、岡本天明はんの“行”って事になるんやろ。
自分より高い存在の憑依・・・
それは、先生も何回も体験のある事やけど、
自分より高い霊的存在の思惑の受信・・・
憑依は、通信を受ける事は、
自分のエネルギーを贖わんならん。
そやから先生も、
太陽凝視を教えてくれたKさんが呼び出した高い存在の通信を、
霊眼で観てはった時も、
その直後、倒れるように寝てしまった事がたくさんあるらしいやん。
それは、太陽凝視中にも目を開けたまま失神する事があるらしいし・・・
太陽凝視中に沢山の霊的存在の憑依も起きてるようやな。
ほんでからに楽屋落ち的言い方やけど、
前のブログの文章を考え、そして加筆訂正し、
アップし終わった時にもよく有った事らしいやん。

又々、話が逸れたやん。

数字や記号・・・それで書かれたものそのものは、
多分、それを伝えた存在の霊的階層・・・
そう言う場(フィールド)でしか、通じへん物なのかも知れへん。
そやけどそのままでは人間には全然解らへんって事やから、
その原文を観てた岡本天明はんに、
又、
こちら側に近い、
岡本天明はんより“上”の霊的存在の憑依現象があって、
解り易い様に通信を送り、
ほんでからにそれは、
岡本天明はん自身の発想って事になって、
今残ってる“日月神示”の文章に成った。

そやからそれは、原文は、
“上”から“下”に垂れたんやろけど、
それではあまりにも霊的階層が違いすぎるから、直接伝わり難い・・・
そやからそれをある程度霊的に成長した人に知らせる為に、
今の文章が出来た。
その為に岡本天明はん自身が、その文章の解釈をした。

そやから・・・それを解釈して行く・・・
そう言う方法で行きまんねん。

ほんでからに、
人に解り易い文章になってるって言うても、
意味不明の数字や記号や図みたいなもんや・・・
これはきっと、そのままになってる事自体が重要な事で、
それをどう解釈して行くのかって事が、
“日月神示”を伝えた存在の思惑を探る・・・
きっとそう言う事やと思いまんねん。
ほんでからにそう言うもんに対して先生は、
我田引水な解釈をしてはるけど・・・
それは・・・まる34年間の太陽凝視・・・
先生の太陽凝視の解釈は、
自分の智性を高める事・・・
智性(日を知った上で獲得した性質)を高めるって言うのんは、
自分より“上”の存在の憑依があり、
そして自分の心(靈)も肉体も変化して行く。
それは神に近づき、自分が神格化して行く為の“行”って事で、
そやからこそ先生は、
色んな事象を観る視点って言うもんが、ちょっと普通と違いよる・・・
それは、
キチガイ呼ばわりされた事も何回もあるって言うてはった。
そやからそれは、
頭のオーラ、“一”=智性=1番目のオーラの大きさが違うから、
憑依する存在も、
その霊的成長度に応じた存在が通信を送ってくる。
一般の憑依現象って言うのんは、
“下”三つのチャクラ由来の憑依が多いから、
そう言う程度の心(靈)の発現をした霊的存在が憑依する。
それは本能、情動、功名心、自我、・・・それが中心の心(靈)やから、
憑依するほうも表意される人もおんなじ程度の霊的干渉で、
感応共振って事や。
そやからこそ自我より“上”の心(靈)を、
乗っ取られた現象が多い。
欲望に振り回されてる憑依現象が多い。
ほんでからに、Kellyさんが今思った事・・・
低い憑依現象の分析って言うのんと、高い存在の憑依・・・
その変圧の過程と、自分の心(靈)の発現の相関関係って言うのんか・・・
それを整理しておく事は、すごく必要な事やと思うし、
これもまた、Kellyさんの考えをしっかり整理せんとアカン事やし・・・
それは別の機会に考える・・・そう言う事にして・・・


まず“日月神示”の 上つ巻 第一帖

それは以下の通りでんねん。 ↓



二二は晴れたり、日本晴れ。
神の国のまことの神の力をあらはす代となれる、
仏もキリストも何も彼もはっきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るから
みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。
いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ、
この世初まって二度とない苦労である。
このむすびは神の力でないと何も出来ん、
人間の算盤では弾けんことぞ、
日本はお土があかる、
外国はお土がさかる。

都の大洗濯、鄙の大洗濯、人のお洗濯。
今度は何うもこらへて呉れというところまで、後へひかぬから、
その積りでかかって来い、
神の国の神の力を、はっきりと見せてやる時が来た。
嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来る
○ ローレンツ力は神の国、神の力でないと何んにも成就せん、
人の力で何が出来たか、みな神がさしてゐるのざ、
いつでも神かかれる様に、綺麗に洗濯して置いて呉れよ。
戦は今年中と言っゐるが、そんなちょこい戦ではない、
世界中の洗濯ざから、
いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。
臣民同士のいくさでない、
カミと神、
アカとあか、
ヒトと人、
ニクと肉、
タマと魂のいくさぞ。
己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、
それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ、
早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一。
さびしさは人のみかは、神は幾万倍ぞ、
さびしさ越へて時を待つ。
加実が世界の王になる、てんし様が神と分らん臣民ばかり、
口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふぞ。
神の臣民みな命(みこと)になる身魂、掃除身魂結構。
六月の十日、ひつくのかみ。


まず・・・Kellyさん的に思うんは、

“二二は晴れたり、日本晴れ。
神の国のまことの神の力をあらはす代となれる、”

この“二二”って表現は、
これは先生の解釈としたら、2~3番目のオーラの事やろし、
それが二つ並んで書かれてはるってって言うのんは、
左右・・・日足と砌(ひたりとみぎり)やと思いまんねん。
ほんでからに“二”・・・それは、
動物と共通のオーラやし、肉体のオーラって事やし、
ほんでからにそれは、高い振動とも言える“一”・・・
肉体=“二”より“上”の振動、“一”・・・ほんでからに、
創造主を示す“一”、
ほんでからにそれは、智性=1番目のオーラ。
動物には無いオーラ。
ある意味、
完成された人(日止、霊止)としての、“王”って言う字を構成する“一”。
それは、この文章には表現されてないって事や。
そやからそれは、前に先生と話した事として、
“王”から“一”を外すと“土”=2~3番目のオーラ=肉体。
ほんでからにそれは、左右のエネルギーラインを持ってる。
Kellyさん的に思うんは、左右のエネルギーライン、
それが、“八”に表れてて、
そやからこそ、原文の、

“二二八八れ十二ほん八れ”

・・・ちょっと纏めれば、
“二二”は、左右のエネルギー、砌(みぎり)と日足(ひたり)で、
それはこの間の“八”を観てKellyさんが思ったみたいに、
砌(みぎり)の行と日足(ひたり)の行は、
やる事も思う事も違う・・・
その両方の行からから認識を得て、
人(日止、霊止)は、(霊的)成長をして(霊的)進化して行く。
そやからこそ、
“晴れたり日本晴れ”=“八れ十二ほん八れ”
八れ十=晴れたりって事でもあると思うけれど、
これも、先生の解釈から言うたなら、
“十”は、自省(胸の磁性“十”)って事やろし、
それは自省(胸の磁性“十”)=“直日(なおひ)”で、
自分を振り返る心(靈)の動きが無いと、
それはローム太霊さんの言葉、左往右往って事でもあるけれど、
それをして行かんと、霊的進化して行かへんって事を言うてはると思うやん。
そやからそれは、霊的進化程度の低い人(日止、霊止)は、
右往左往の行をしてはる・・・そうやって認識を得ていく過程やな。
人を犠牲にしてでも、恨みの連鎖を拡大しても、
力を示し、
自分の低い心(靈)の発現由来の欲望を満たす・・・
経済の為に頑張るとか、自分の功名心を満たしたいとか・・・
只それだけの低い幸福感由来の行動でしかない。
それは、
“力”の使い方って事をよう解ってない段階やな。
“力”=知恵、知識、学問、能力、そして霊能力・・・は、
“力”でしかないって事を知らへん。

そやからそれは“力”をどう使っていくのかが・・・
智性=神性(日を知った上で獲得した性質)由来の事やろし、
“力”を得た人は、
どうするべきなのかって事を、
右往左往の行で心(靈)の発現をしている人は、
左往右往=やってみて教訓を得て考える・・・
ほんでからに、
左往右往そのものが自省(胸の磁性“十”)の行やから、
そう言う心(靈)の動きをあまり持ってない。
そやからそれは、“目下(めした)の思い”やな。
ほんでからに右往左往、
ある程度それを体験したなら、左往右往の行に入って行かんならん。
それは誰でもが進まんならん過程やろし、
人(日止、霊止)は神の子やから、
どんな体験をしようとも、どんな悪人でも・・・
一定の認識を獲得するまで何回でも生まれ変わって、
そして認識=“一”=智性=1番目のオーラを高めていき、
最終的には神格化する。

そう言う事を知らへん・・・
そう言う認識が無いから、
大半の人は死んだら終わりやと思う。
そやから悪い事してでも自分の目先の損得勘定で動き、
欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか・・・
ひどければ殺人・・・戦争なんかでもそうや。
そう言う心(靈)の動き由来の事象を自分で創って行きよる。
死んだ後の事なんか考えへんし・・・
生きてる間だけがすべて・・・
死んだ後の事は解らへん・・・
そう言う認識そのものが低い認識って事なんや。
そやから生きてる間に楽しみたい・・・大体そう言う発想そのものが、
低い心(靈)の発現由来の事でしかないやん。

自分は・・・自分の本質は・・・意識って言うのんは・・・
永遠の実在って事を知らんからや。

そやけど・・・
又、違う事まで考えてしもたけど・・・
霊的成長の仕組みは、右往左往して左往右往する。
“上”・・・相対的に高い心(靈)の発現の過程は、
大体・・・そういう事なんやと思いまんねん。

そやからそれは、“二二”って言うのんは、次の言葉に掛かる。

“神の国のまことの神の力をあらはす代となれる、”

この、“神の国のまこと”・・・
まこと、眞、真、誠、
“日月神示”の中の表現でもある○ 九 十、
真実とか、誠実とか・・・の意味の“まこと”・・・

大体“まこと”って言葉は動物には無い認識やし、
当たり前やけど・・・

動物には無い認識=動物の進化過程では獲得出来ない、
認識=心(靈)の動きで、
その事そのものが、
動物の心(靈)の発現の段階が、
人(日止、霊止)の心(靈)の構造とも言える、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動・・・
そこから分類しても、
動物(・・・と、
人(日止、霊止)が認識している生物=肉体を持った霊的存在と言う意味)って、
言うのんは、
下三つのチャクラの心(靈)の発現の“自我”以下の振動しか持ってへん。
そう言う地球人も多いけど・・・
ほんでからに大体、動物はたいした言葉を持ってない。
自分の感情を表現した(発振した)声は出しても、
それは人が聞けば、(認識すれば)
ワンワンニャ~ニャ~ブ~ブ~モ~モ~コケコッコ~やねん。
そやからそれは、(“力”としての)知恵すら無いから、
言葉の種類が少ないとも言えるやん。
ほんでからに、
言うまでもない事やけど、“まこと”って言うのんは、
智性(日を知った上で獲得した性質)由来の認識やねん。
そやからそれは、相対的な比較として、
智性を持ってない存在を観れば判るやん。
それは、人の行動を見てても解る事や。
真実とか誠実とか・・・そう言う“上”の心(靈)の動き由来の行動をとらへん人は、
沢山居てるやん。
ほんでからに、
進化過程=心(靈)の発現の段階を“上”と“下”で観る・・・
その極端な例を挙げれば、先生の話の中でも何回も出てきた事やけど、
進化って言うのんは下等生物から人(日止、霊止)に進化して来たって、
認識されてるんやから、
それは、
先生のお友達のミミズ、ヒル、ゴカイ君達を見るとよう判る。
人が持ってる心(靈)の構造とも言える、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動から言って、
本能しか持ってへん。
生き物の最初の心(靈)の発現は本能でしかない。
ほんでからに進化して行って、
心臓が出来て、脳が出来て、骨が出来て・・・
段々“上”の心(靈)の発現をして行く。
そして人(日止、霊止)になって“まこと”って認識も出来た。
ほんでからに、“まこと”・・・
この言葉に対する先生と太陽凝視を教えてくれたKさんの概念、
真固止・・・真に固く止める・・・
古事記の言葉の修理固成でって事やねん。

修理固成って言葉でもそれは、
修理って表現がなされてるって言うのんは、
壊れた物を直すとか・・・正しい道に引き戻すって考えたらエエと思いまんねん。
そやからそれは“神の咎め”・・・“曲霊(まがつひ)”でもあるし、
右往左往と左往右往でもあるし、
アミの本の中の表現、ブーメランの法則とも言えまんねん。
ほんでからにそれは、
どんな事でもやってきた事は実るって事でもあるし、
蒔いた種は実るって事でもあるし、
それは“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の心(靈)であろうが、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”の心(靈)の動きであろうが、
エネルギーを贖って発信するんやから、
どんな事でもそれは、時間の進行と共に実る。
この世界は、質と量の法則性で支配されてる世界やからとも言えまんねん。
発振されたエネルギーは必ず現象になる・・・事象として認識され得る。
その事を示しているのが、因果・・・
因は(囗)くにがまえに大・・・
“大”は、
人(日止、霊止)が発振、発信する様子でんねん。
自分が発振、発信して来た結果が、
観察され得る事象になるって言うのんが、
先生の言い回しやから、
間違った事をすれば、
修理=正すって事になるやん。
そやからそれは、何を間違えるのかって言うたならば、
自分が神格化の・・・
“善(神格化の方向性と智性の受信)”の行いをしてへんからやねん。
ほんでからにそれは、
自分より高い存在・・・“上”の存在、
その人の進化を望んでいる主護霊やその配下や眷属・・・その霊的存在の思惑としたら、
バチを当てて道を正す。
修理固成やから、正さんならんやん。
そやから修め成して固め、完成に至る。
それが修理固成って事やねん。
それは、“理・・・この修理の理って言う字かて、
“王”に“田”に“土”=2~3番目のオーラと肉体でんねん。
ほんでからに重複するけど、
それを示してる事象が“神の咎め”・・・
バチが当たる事でもあるし、
その仕組みはローレンツ力の象徴とも言える“曲霊(まがつひ)”でんねん。
ほんでから、
修理固成の固め成すは、
骨を持ってない生物は、脳も心臓も発達してない。
ミミズ、ヒル、ゴカイ君達くらい低い進化過程の生物は脳なんかあらへんし、
心臓も血管が発達したくらいの物しかないやん。
そやからこそそれは、
てんで低い心(靈)の発現の段階しかしてへんのやし、
そやからこそ、肉しか持ってないミミズ、ヒル、ゴカイ君達は、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)の低い部分としか、
感応共振せんって事や。
心(靈)の発現って言うのんは、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)との感応共振・・・って、
言うのんが、先生の考えやし・・・
それは骨が大事やからこそ、
“宝=体=體=骨が豊か”やからこそ、
真に固く止める=真固止でんねん。
そやからこれは、
先生の解釈、○ 九 十(まこと)の卆、
最後の仕事・・・
神の思惑の顕現=人(日止、霊止)っていう事と同じやねん。

ほんでからに骨を構成しているミネラルって言うのんは、
宇宙線を受け止める。
そう言う話もした。
そやから進化程度の低いっちゅうのんは、
頭の骨が結晶化してへん。
それは、
沢山の生体内電流が頭に流れてへんって言う意味で、
そう言う意味での先生の認識として、
先生は、
古事記の、天の岩屋戸の話をした。
(エピローグ 参照)

ほんでからにさっきも思うたけど・・・人を観察してても、
低い心の発現の段階の人(日止、霊止)・・・そう言う人はいてるやん。
本能と情動だけで心(靈)の動きを構成してはる人・・・
それは、行い=行が動物に近い人。
ほんでからに、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の概念・・・それは、
進化を引き戻す・・・
最初の状態である“亜”の心(靈)にしてしまう。
亜の心(靈)に引き戻す。
そやからそれは、現時点から・・・
相対的な表現をすればって事やけど、
それは、心の動きの本能化と低振動化。
人は多少智性を持ってて、
“善”って言う概念も持ってるのに、大多数の人は道徳的な善悪しか考えん。
道徳的な事を振りかざして他者を批判したりする。
そう言う人はそれしか認識が無いって事や。

そやから“まこと”・・・
この言葉だけ見たとしてもそこまでの事を考えるやんか。

ほんでからに・・・途中を飛ばしたんやけど、

“晴れたり、日本晴れ。”

これは“二二”が晴れる、そして“日本晴れ”って表現されてる。
これは、晴れは、日と青。
青は、
三=三つのオーラと(たて棒、コン)と、月・・・
そやけどこれは辞書を見ると月部(げつぶ、にくづき)ではなく、
“丹”って言う字らしく、
それは地中にある鉱物って言う意味らしいやん。
そやからそれはストレートに帯電するミネラルって事を思わせる・・・
ほんでからに、“青”の上半分は、
生きるって言う字の、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を外した物らしいやん。
ほんでからにその、“青”の上半分は、
芽生えるって言う意味でもあるって辞書に書いてあった。
ほんでからにこれも、
三つのオーラを縦に繋いで、
ほんでからにそれは“一”の上に出てる・・・
それは“上”に向かう意志やねん。
そしてこの字そのものが、
“土”=2~3番目 + “一”って言う事やと思いまんねん。
更にこれは、先生と話した事やけど・・・
生きるの丿部(へつぶ)を外した残りは、
乚部(いんぶ)で、乙で、
この事は前回のアップでも言うた事や。
“七”の象形文字のところを読んで欲しいねん。
そやからそれは、
日足(ひたり)“上”から横に砌(みぎり)“上”に移行し、
そして、
砌(みぎり)“上”から日足(ひたり)“下”に移行し、
そして、
日足(ひたり)“下”から砌(みぎり)“下”に移行し、
最後に“上”にはねる。

・・・複雑な言い回しをしたんやけど・・・
生きるの丿部(へつぶ)を外した残りは、
こう表現するのが妥当やと思いまんねん。

ほんでからに(たて棒、コン)って言うんは、
上から下に書く。
それは神さんの意思・・・思惑が伝わる事やと思いまんねん。
そやからこそそれは、
丹=“青”の下半分は、
肉体の磁性を高めていく仕組みでもあり、
生きるの丿部(へつぶ)を外した表現は、
その“上”にあり、
人の思惑の顕現でもあり、
肉体を持った心(靈)=人(日止、霊止)の、
存在意義のひとつでもあるやん。
又、
“三” + (たて棒、コン)は、
自分の肉体のエネルギーをどう扱うのか・・・
それは上から下=(たて棒、コン)・・・“上”の思惑を取り込んで行かんならん。
そやから肉体の“土”=2~3番目のオーラを縦に繋いだ字って言うのんは、
その過程そのもので、
人の体の中の、
下三つのチャクラのエネルギー=軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”のエネルギーが、
胸の自省(胸の磁性“十”)によって変換されていく。
そう言う話を先生とした。
その時の心(靈)の発現が“慈悲”と“慈愛”・・・
そう言うもんを持ってへんとそれは、自己奉仕者に成る。
本能、情動、功名心、自我、・・・それが中心の心(靈)の発現って段階の、
進化過程って事やし、
それはS会での主護霊会でよく使われた言葉、
“これからの人(日止、霊止)、明日の人”・・・
アセンション後の人(日止、霊止)の心(靈)の発現って事やない。
そやから、“晴れ”・・・そう言う事を思わせる字でもあるやん。
それは霊的進化を果し、霊的成長をしたならば、
人(日止、霊止)が感じ取る“上”の要素・・・
神さんの思惑を沢山自分に取り込み、そしてそう言う肉体になる・・・
そしてこの世界の創造をして行く。
それが“青”で、その向かって左に、“日”が書いてあるのが、
“晴れ”って事やと思いまんねん。
ほんでからに“青”は、
赤 橙 黄 緑 青 藍 紫・・・物質世界で観察される振動・・・
可視光線としての、
相対的に本能の赤=ムラダーラチャクラの赤より、
振動の高い波長でもある。
相対的な観察として青方偏移・・・
自分が持ってる振動の波長よりも=チャクラの覚醒段階よりも・・・
自分の認識よりも高い認識に出逢ったならばそれは、
青く見える。
或はもっと高い波長ならばそれは、
白光になる。
そして光り輝くって事になるんやろ。

そやから“晴れたり、日本晴れ”・・・は、
“日”=創造主の振動の場(フィールド)=太陽。
“日本晴れ”の“本”って言うのんは、
漢和辞典をみると、
木の太い根のところにつけた“一”は、
それは印って言う意味があって、
その場所を示していて、木の根もとの部分とか“もと”とか・・・の意味を持つ。
ほんでからに物事の根源とか中心になるものとかの意味もあるやん。
そやから本題とか本当とか本質とか・・・
そう言う表現に使われる字でもある。
それは、Kellyさん的に思うんは、
自省(胸の磁性“十”)に儿部(じんぶ、にんにょう)+“下”の右往左往。
それが“本”って言う字でもある。
そやからそれはちょっと解り難いけど、
自省、“直日(なおひ)”・・・胸の磁性“十”に、 
“下”の右往左往でもある“一”・・・これは位置から言って、
“三”の一番下の“一”。
ほんでからにそれを全部足して、日本晴れ。
これは文章どおり“二二(ふじ)”に掛かる言葉で、
人(日止、霊止)のあるべき肉体・・・神に近づくべく肉体の事を、
言うてると思いまんねん。

そやからこそ、次の言葉、

“神の国のまことの神の力をあらはす代となれる”

神の国の神は、
“呂”を示すのが神で、それはエネルギーの回転を示してる。
(霊的干渉 “目上(めうえ)と目下(めした)” “その六”)
“国”って言うのんは、
“玉(ぎょく)”の場(フィールド)=(囗)くにがまえで
“まことの神の力をあらわす代”・・・
“代”って言うのんは、時間の進行を伴った表現で、
そやからそれは、(霊的)進化って事やねん・・・
読んだだけで分かると思うけれど・・・

ほんでからこの言葉から考えたなら、
今現在は“神の力”を“あらはしてない”って事やし、
そやからこそ、
人(日止、霊止)が、
“宝玉(ほうぎょく)”になる・・・・

先生独自の言い方・・・それは、
真(真固止)・・・帯電するミネラルの結晶化・・・
それゆえの発振、発信が“国”を構成する。
ほんまの“国”って言うのんは、
そう言う意味を持ってると思いまんねん。
右翼の人がよう使う愛国心とかの意味での国とは全然違いまんねん。
大体、(今の進化過程の人が思ってる)国って概念が、
低い概念で、
それは縄張り意識の上での認識やねん。
進化した存在としての人(日止、霊止)は、
人種とか地域とか貧富とか・・・そんな事で人を区別せん。
ほんまの“国”って言うのんは、
“玉(ぎょく)”に成った人の場(フィールド)=(囗)くにがまえでんねん。
そやからそれは、
今後の世界・・・“これからの人(日止、霊止)、明日の人”が、
“慈悲”と“慈愛”を持ち、
それはアセンションとして認識され、
自己奉仕者なんていない場(フィールド)になって行くのが、
ほんまの“国”って事やと思いまんねん。

ほんでからに、
“卍もキリストも何も彼もはっきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るから
みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。
いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ、
この世初まって二度とない苦労である。”

・・・この原文は、以下の通り、

卍も十も九も八きりたすけて
七六かしい
五くろうのない四かくるから 
三たまを二たんにみかいて
一すしのま九十を
十四て九れ四 
いま一十九十六あるか 
九の九六八三たまを三かいておらぬ十こせぬ 
九の四八まって
二十十七一九六てある


卍も十も・・・
これは卍=仏教もキリスト教もって解釈をされてる事が多い様やけど、
それはちょっと違うと思いまんねん。
卍って言うのんは日足(ひたり)回転やと思うけど、
ほんでからに、腹のエネルギー、
軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”が自省=胸の磁性“十”で上昇する様が、
日足(ひたり)回転やろけど、
この場合の卍って言うのんは、
渦巻き 左回転・・・“善の回転=日足(ひたり)回り”とは違い、
これは・・・内側から外側に発振されてる様子やと思いまんねん。

卍の回転方向
そやからそれは日足(ひたり)回転で発振、発信して事象の創造をする。
それに引き換え、“善”の回転とされてる、
渦巻き 左回転 は、
取り込んだ荷電粒子を自分の中心に送り込む。
それはそう言う心(靈)の動きを創っていく。
そう言う意味やと思いまんねん。

ほんでからに、
日足(ひたり)回転由来の事象の創造って言うのんは、
その逆を考えるとよう判るって言うのんか・・・
卍・・・その逆は、右回転=ハーケンクロイツ・・・
ナチに象徴される自己奉仕者の典型の思想。
自分達だけが優秀な民族やと思い込み他者を排斥する。
その心(靈)の動きが、ファシズム・・・
反個人主義、反自由主義、反民主主義、反議会主義、反社会主義、反共産主義等に、
現れたんやと思うし、
ファシズムって思想が、政治、経済を支配して、
国益が私益に対し絶対に優位やって思い込む・・・
まるで今のどっかの国みたいやな。
大体、今の政○家なんて言うのんは、
低い心(靈)の発現しかしてへんみたいやから、
国民の事なんか考えへん。
今どんどんそれがバレてる・・・そう言う話も先生としたやんか。
ほんでから、
低い心の発現しかしてへん特徴って言うのんか
選○演説なんかまったく意味の無いもんで、
それは、
ワンワンニャ~ニャ~ブ~ブ~モ~モ~コケコッコ~やねん。
自己奉仕者としての・・・自分の地位と立場と権利と・・・財布と・・・
保身の気持ち由来の発想が一番大事。
それがどんどんバレてる事はこれも、
先生と話したアセンションの振動の影響・・・
やって来た事の結果を出さんならんし、それを示さんならんやん。
ほんでからにそれは、神さんの腹の部分から胸の部分・・・
そう言う次元に移行する。
それを示してるのが大日如来の条帛(じょうはく)・・・
それも日足(ひたり)回転を示してる。
そして腹の段階の心(靈)の発現から、
胸の磁性“十”の心(靈)の発現になって行く
そういう事を示すからこそ、
“上”と“下”=霊的成長度って認識が出来、
それを観察して認識して行く事が、
又、
“これからの人(日止、霊止)、明日の人”に必要やろし、
その為に今、失敗の世界・・・そこに意識が位置してる・・・
そやからそれは普通の言い方をしたなら、
失敗を体験せんならん事の意義とも言える事やな。
そやけど・・・
先生みたいな根性悪い言い方してしもた。
・・・ゲロゲロ←死語。

ほんでから・・・“九も八きりたすけて”
これは、
“九も”は“何も彼も”
“八きりたすけて”は“はっきり助けて”
・・・そう言う風に読まれてる。

そやからこの場合の“九”って言うのんは、
事象の事で・・・
自分達が神の思惑を取り込んで想像した観察し得る事象の事で、
それは最後の仕事、卆の“九”・・・○ 九 十の、
“九”でもあると思いまんねん。
ほんでからに、
観察し得る事象って言う言い方がなんとなく先生的な言い方やけど、
簡単に言えばそれは、現実って事やねん。
現実と肉体を持っているって言う認識やと思いまんねん。

人(日止、霊止)の認識って言うのんは、
自分が認識した事のみ、
現実で、
それが、
本当の事やと思い込む。

これも先生が言いたかった事なんやろけど・・・

そやからそれは、
只単に現実の世界、ローム太霊さんの言う現界、
肉体に心(靈)が位置している世界・・・次元・・・
生きてる間に認識する世界=事象って事やねん。
そやけどそれ以外にも、
高い心(靈)の発現で認識して行く事象もあり、
それがある意味、
先生が太陽凝視中に失神して行く世界だったり、
寝てはる時に行ってはったり、
ハープのCDを聴いてはる時にも時々どっか行かはったりするらしいけど、
人(日止、霊止)の認識が高まる=“一”、智性、1番目のオーラが、
大きくなると、そう言う事が起きるらしいやん。

話が・・・凄く逸れてしもたやん。

そやからそれは“八”・・・“はっきり助けて”・・・
左右のエネルギーラインに神の要素が加わってから、
神格化して行く。
そういう事を示していると思いまんねん。

ほんでから・・・

“仏もキリストも何も彼もはっきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るから
みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。
いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ、
この世初まって二度とない苦労である。”

この文の中の“七六かしい”・・・
これは、七は“一”+乚部(いんぶ)で、
創造主の振動が向かって右下に降り、そして“上”にはねる。
創造主の振動が顕現してそれは“六”・・・これは、陰爻で、
陰爻って言うのんは陽に対し陰やから、
物質化ってことやと思いまんねん。
事象の創造って事やねん。
それは、古神道では、
伊邪那岐之神は、
父系、霊系、精神、心、左回転、順流、陽神、男神 、
伊邪那美之神は、
母系、肉体、物質、右回転、逆流、陰神、女神 、
(ウエサク祭 月の祭り 参照)

・・・そう言う意味を持ってる。
改めて考えたなら・・・今までの話と一致する事が多い。
そやからこの間考えたみたいに陽と陰は、
“九”と“六”って言う事も考えられるやん。
そやから、
“七六かしい”・・・“一”から乚部(いんぶ)=乙・・・
そして現象化する・・・
そやからこそそれは、
“しちむずかしい”って読むのかもしれへんな。
上手くいってないって事やな。

ほんでから・・・
“御苦労のない代が来るから”は、原文では、
“五くろうのない四かくるから”
 
“五”は、
糸巻きって前回のアップで紹介したけど、
それは神経が密になる過程って事で、
それは“苦”でしかない・・・
言い換えれば“行と修行”の“苦”って事やと思いまんねん。
“苦”は腹のエネルギーが自省(胸の磁性“十”)で変化して、
それで自省(胸の磁性“十”)由来の心(靈)の動き、
“慈悲”と“慈愛”・・・そう言うもんが芽生えてくる事を示してるのが、
“苦”って言う字やって先生と話したやん。
そしてそれは心(靈)が“慈(しげる)”・・・
そういう事でそれは感覚優先の事象の観察から、
智性(日を知った上で獲得した性質)由来の観察になって行く・・・
それが(霊的)進化やって事やねんな。
そやからそれは、
“四かくるから”で、
“四”は、自分の心(靈)の発振、発信、息吹って事やな。
そうやって創造して行けよ・・・って事やな。

そやからそれは、次の言葉に掛かる。
“みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。”
この原文は、
“三たまを二たんにみかいて
一すしのま九十を十四て九れ四”

“三たま”は、三つのオーラ、“三”やろし、
ほんでからに、
天、地、人って事やろし、
そやからこそ、身魂磨き・・・肉体と霊を磨いていけって事やろし、
そやけど、
霊と魂って言うのんは、ちょっとニュアンスが違う。
魂って言うのんは、
“二”と、ム部(しぶ)・・・自分自身。
“二”が、肉体のオーラの事やから、
“二”とム部(しぶ)は、肉体を持った心(靈)由来のものって事・・・
そやからそれは、
“鬼”・・・これも前に先生と話した事があるけど、
鬼は、魂が体を離れて彷徨う・・・死者の亡霊って言う意味がある。
これは、こちら側・・・三次元の物質世界からの観察やろし、
大体それは、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)由来の心(靈)って事やと思う。
そやから、
心、靈、と、
魂って言うのんは、
ちょっと別に考えるべきやな。
そやからこそそれは次の言葉で、
“二たんにみかいて”
“みたまを不断に磨いて”って事で、
間断なき行でって事や。
“二”が、肉体のオーラの事で、
ほんでからにそれは、この世界でのオーラの事でもあるやん。
そやからそれは、
この世界の認識での時間の進行で、
磨いて行けよって事で、
それは“磨く”って言うのんも先生と話したけど、
广(まだれ)と左右の木部と“石”・・・
これに付いては、ここで説明するととても長くなるので、
思惑と顕現 “その八” 摩多羅神 (またらしん)・・・を、
読んで欲しいねん。

そやからこそ、“二たん”“不断”は、
“二”=肉体のオーラの事やし、
これもまた重複するけど、
肉体の認識って言うのんは、
育つとか若いとか老いるとか・・・
そうやって最後には死を迎え、この世界を卒(卆)業し、
物質の次元でない世界・・・
物質の振動を伴っていない次元に心(靈)が位置しまんねん。
それが、ローム太霊さんの分類、
幽界、霊界、神界って事でんねん。
これも重要な意味が有る事をKellyさんは感じてるし、
“日月神示”の言葉の中にも幽界って言葉は出てくる。
それに付いてはまた別の機会にKellyさんの考えを述べる事として、
“三たまを二たんにみかいて
一すしのま九十を十四て九れ四”
この言葉自体が、
時間の進行を伴った表現でもあるし、
この世界で肉体を持ってる内に、
霊的成長して行けって事やとKellyさんは思いまんねん。

ほんでからに次は、
“一すしのま九十を十四て九れ四 ”
“一筋の誠を通して呉れよ。”

“一”=智性=1番目のオーラで、
まこと=○ 九 十・・・
肉体を持った霊・・・それを通してくれ・・・
そう言う事やろし、
ほんでからに、
“十四て九れ四”・・・やから、
“十”は自省で、胸の磁性“十”、
“四”は、発振、発信、息吹。
そして、
“九”は、肉体とか、卆の九でもあるし、
神の思惑の顕現・・・最後の仕事としての、
“九”であると思いまんねん。

そやからここまでの言葉、
“仏もキリストも何も彼もはっきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るから
みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。”

・・・これは、
“五くろうのない四”
“御苦労のない代”・・・
こういう世界の創造をして行く為に、
“上”の思惑を取り込んで肉体に現象化するのが、“七六かしい”・・・
その為に、
“みたまを不断に磨いて”
“三たまを二たんにみかいて”
その方法が、
“一すしのま九十を十四て九れ四”
“一筋の誠を通して呉れよ。”

“一”=智性=1番目のオーラで、
真(真固止)の事象を創造して行けよ。
・・・そういう事やと思いまんねん。

ほんでから、
“いま一十九十六あるか 
九の九六八三たまを三かいておらぬ十こせぬ 
九の四八まって二十十七一九六てある”
“いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ、
この世初まって二度とない苦労である。”

“いま一十九十六あるか ”は、
“一”=智性=1番目のオーラと自省(胸の磁性“十”)と、
肉体=“九”と、
そして自省(胸の磁性“十”)・・・“直日(なおひ)”。
そして“六”・・・陰爻・・・現象化って事やねん。

“九の九六八”
“この苦労は”・・・は、
“九”=肉体、
それは九と六、陽爻と陰爻、
それは陰陽でもあるし、
思いの現象化って事でもあるやろし、
思惑の顕現って言う意味でもあると思いまんねん。
そやからこそ、
“三たまを三かいておらぬ十こせぬ”
“身魂をみがいて居らぬと越せぬ、”

・・・もう敢えて説明せんでも解ると思いまんねん。

そやからそれは、アセンションに向かっての事やから、

“九の四八まって二十十七一九六てある”
“この世初まって二度とない苦労である。”

・・・この原文の表現の、
“九の四 八まって”・・・
この世=九の四 は、
二つのエネルギーライン=“八”で出来ていく。
それは右往左往と左往右往って言う、
砌(みぎり)と日足(ひたり)のエネルギーを高めながら、
バランスを崩しながら、
そして方向性(“善”)を見失い、
“神の咎め”を受けながら、
バチ当たりながら・・・
砌(みぎり)と日足(ひたり)のエネルギーを使って行きながら、
霊的進化して行く。
それはどんな過程を踏んでいったとしても、
ある程度霊的成長した人(日止、霊止)は、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”の、
方向性に行く。
そして“上”の心(靈)の発現をして行く。
その為のアセンションって事やと思うし、
その事を示した表現やと思いまんねん。

そやからこそそれは、
“二十十七一九六てある”
“二度とない苦労である。”

・・・そう表現されてる。

そやけど、この中の、
“二十十七一九六”は、
肉体のオーラ=“二”
自省、胸の磁性“十”が二つ書かれてる。
それは、自省、胸の磁性“十”の行にも、
二つ、二種類あるって事やと思うし、
それは、
物質の事象=砌(みぎり)の事象から感得する認識と、
心(靈)の動き・・・自分の感情を観察して自省する・・・
その二種類やと思いまんねん。
そやから二つ“十”が書かれてる。
そういう事やと思いまんねん。

ほんでから、
“七一九六”
“ない苦労である。”
・・・は、
“七”=“一”と乚部(いんぶ)・・・創造主の振動を切り分けて、
乚部(いんぶ)=人の思惑の顕現とする。
そして“一”=智性=1番目のオーラで、
“九六”=陽と陰・・・
それは、人の心(靈)と肉体、
ほんでからにそれも、人(日止、霊止)って言うのんは、
創造主の思惑の顕現って言う事で、
そやからこれを続けて読むと、
肉体のオーラ“二”を、
物質の事象の観察と自分の心(靈)の動きを観察しながら、
神さんの思惑を受信し=“一”と乚部(いんぶ)・・・
そうやって“九六”・・・思惑と顕現をしていけって事やと思いまんねん。
ほんでからにそれが又、苦労って事やし、
“苦”=腹の段階のエネルギーから胸の磁性“十”が芽生える(クサカンムリ)って、
言う意味の字・・・そういう事やと思いまんねん。
この事に付いては、思惑と顕現 “その八” 摩多羅神
・・・を読んで欲しいねん。

そやからこそそれは、次の言葉に掛かるやん。

“このむすびは神の力でないと何も出来ん、
人間の算盤では弾けんことぞ、”

・・・現時点での人の目先の計算どおりにはならへんって事やねん。
当たり前でんねん。
人の低い心(靈)の発現だけで事象は構成されてへんから、
左往右往=失敗を体験して、教訓として自分の在り方を考え、
自省して“直日(なおひ)”して、
霊的進化して行くのが、
人の“道”って事を言うてるだけの事やねん。
ほんでからその時に自分より“上”の霊的存在の思惑も受信する。
それは自分の心の動き自体が“上”に向かってないと、
自分より“上”の存在の思惑は受信出来へん。
心(靈)が“下”に向かってれば、
苦難を試練と考えへん現実逃避とか、
目先の娯楽とか快楽を求めるとか苦労しないでよい結果を求めるとか・・・
一言で言えば・・・甘い夢とか・・・
そう言うもんを求めるようになり、
その心(靈)の動き=発振、発信が
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)・・・
そう言う受信をする・・・感応共振する。
そういう事に気をつけてくれって事でんねん。

ほんでからに次の言葉も、
そういう事を言うてると思いまんねん。
それは、

“日本はお土があかる、外国はお土がさかる。”

これはさっき言うた日本の解釈、
自省(胸の磁性“十”)の行に向かう=“直日(なおひ)”する心は、
二+(たて棒、コン)=“土”=2~3番目のオーラと肉体、
それが上がる。
日足(ひたり)回転で上がる。
そう言う意味やと思いまんねん。
そやからそれは、
自分の内面の観察って言う言い方が解りやすいと思うねんけど、
自己観察して、その心(靈)の動きを自分でよく観て、
ほんでから“観自在”・・・自分の在り方をよく観て、
そして“直日(なおひ)”=自省して、
それも左往右往って事やけど・・・
そうして時間の進行と共に存在して行く。

それに対し、
“外国”って言うのんは、
外は、外側の事象の観察で、
それは“直日(なおひ)”ではなく、
右往左往の心(靈)の動きやと思いまんねん。
本能、情動、功名心、自我・・・そういう振動で、
そう言う心の発現で事象を観て、自分の在り方を考えるならば、
それは低い欲望の達成って事でしかないし、
そやからそれは自己奉仕者って事でんねん。
ほんでからにそれは、自分の外側にしか価値を求めへん心(靈)の動き、
力を示すとか、
外見の美を求めるとか、
只々欲望を満たす為に努力するとか・・・
こんな事は低い事で、
その為に本来の価値を見失った何かって言うのんは、
たくさんあるって話を先生とした。
(事象の形骸化)

そやからそれは“外”の“国”・・・
この“外”って言うのんも辞書を見ると、
夕部(せきぶ)とト部(ぼくぶ)で、
夕部(せきぶ)って言うのは夕方、又は、
右足を意味し、
ほんでから月が半分だけ現れた様に象る・・・
そして夜の時間とか夜の活動とかの意味もある。
そやからそれは、日と月でもあるし、
陽に対しての陰やし、
思惑に対しての事象の認識=現象化って事やねん。

ト部(ぼくぶ)・・・これは、
古代中国での占い、亀の甲を火で焼いたり焙ったりして亀の甲羅に亀裂が出来る、
その亀裂で天意を伺い吉凶を占い、それを示してるのが、
ト部(ぼくぶ)で、
その占いは、これを亀卜・・・
それに近いもんに骨卜(こつぼく)という。
もともと日本にも有った事らしく鹿や猪の肩甲骨で行ったそうやねん。

そやからそれは、“天意を伺う”って事に意義があって、
何でもかんでも、
人(日止、霊止)の進化程度の低い心(靈)の発現で決めたら、
あきまへんで~・・・っていう意味やと思うやん。
ほんでからに、前に先生と話した古事記の話、
(ウエサク祭 月の祭り)
古事記をよく読むとその中にも、
太占(ふとまに)って出てきてる。
それは天の岩屋戸の話のときにも出て来ているやん。
そやからそれは、
今の形骸化した占いって事や無くって、
上の思惑ゆえの判断・・・それが天意って事で、
そうして色んな事を決めて行かんならんって事やねん。
その為に多分、天皇制・・・天意を受信する人(日止、霊止)・・・
神さんと、
人(日止、霊止)とのコミュニケーションの役割の人(日止、霊止)・・・
本来の天皇制って言うのんはそう言うもんやと思いまんねん。

又、話が逸れてしまいましてん。

要は“外国”って言うのんは、
外側の事象ばかり見てるって事で、
そう言う発振、発信で(囗)くにがまえ=場(フィールド)を構築してはる。
この場合の国って言うのんも、
“玉(ぎょく)”+(囗)くにがまえ。
“玉(ぎょく)”って言うのんは、
“王”+2~3番目のオーラ間の向かって右、
それは、
肝=怒り=“いきり立つ心(奴と心)”のエネルギーが向かって左にはねる。
日足(ひたり)にはねんとアカンのやけど、
その“国”って言う字の前に“外”って書いてあるやん。
そやから、
自分の外の観察ばかりしてるんは、
自分の外側の事象の観察しかしてへん人は、
その認識ゆえの発振、発信をして、
場(フィールド)を構築するって言うのんは・・・
言い換えればそれは“日本”に掛かり、
“直日(なおひ)”して自省(胸の磁性“十”)の行をしてへん人は、
お土がさかる・・・
右=砌(みぎり)回転して、
心(靈)が下がるって事やろし、
それは心(靈)の低振動化と本能化って言う意味での“悪”って事やねん。
又、それは、
2~3番目のオーラだけが盛るって事やと思いまんねん。
“一”=智性=1番目のオーラを獲得出来へんって事やねん。
そやからそれは、繰り返すけど、
自分の持ってるエネルギーって言うのんが、
“上”には行かへんって事で、
それそのものが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”って事やと、
思いまんねん。


ほんでからに・・・

“都の大洗濯、鄙の大洗濯、人のお洗濯。
今度は何うもこらへて呉れというところまで、後へひかぬから、
その積りでかかって来い、
神の国の神の力を、はっきりと見せてやる時が来た。
嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来る”

都、鄙、大洗濯・・・
鄙、これは鄙びた(ひなびた)とか・・・田舎って言う意味らしいやん。
この大洗濯って言う表現には“大”が使ってあり、
人の場合だけ“お洗濯。”って言うてる。
大は人が発振、発信する様子やって何回も先生と話した。
そやから都と鄙は場(フィールド)であるって事で、
人のお洗濯って言うのんは自分自身で、
それは霊的成長と同義の祓うって事やろ。
ほんでからにこれも先生と話した事やけど、
祓うって言うのんは、
それが悪霊を対象としても、人(日止、霊止)を対象としたとしても、
その存在の霊的成長を望む事や。
只、憑いてる悪霊を、
はがすとか自分と別々にするとか汚いもんを取り除くとか・・・
そう言う意味だけの事やないって先生は言うてはった。
それは、どんな悪霊も霊的進化して行かんならん。
そやから自分に危害を及ぼした悪霊かて、
それをした事はちゃんとした理由ってもんがあって、
その悪霊自身の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の行為は、
悪霊の自分の在り方を考える=自省(胸の磁性“十”)の為の指針って事になるやん。
そう言う意味で、今、
どんな地球人でも因縁から逃れる事は出来へん。
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の行いは、
自分が“悪”って認識する事が大事で、
それを、
自分の心(靈)の動きの、
“善悪”(神格化と動物化=心の本能化)を判別してから、
自分の行動を考える事そのものが、
左往右往で、
神格化の為にある過程とも言える事やし、
ほんでからにそれは、
生きてる人(日止、霊止)も、
死んだ存在も、
例え動物霊でも、それを知らんならんやん。

そやからこそ次の言葉、
“今度は何うもこらへて呉れというところまで、後へひかぬから、
その積りでかかって来い、
神の国の神の力を、はっきりと見せてやる時が来た。
嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来る”

“神の国の神の力”・・・
創造主の思惑の発振、発信=国、
神の力=“一”の右端から“下”に降り、そして日足(ひたり)“上”にはね、
それは丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を最後に書く。
要はこれから示すって事で、
そやからこそ、
“嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来る”・・・
今までやってきたことの結果が出て、
目先の損得で動いてはった人は・・・言い換えれば低い心の発現由来の事で、
喜んではった人は、
苦しみ=右往左往し、
それに対し、ほんまに試練ばかり体験し、そう言う人生を送り、
自分の在り方を考え・・・苦難を試練として生きて来はった人は、
その結果が出て=“上”の存在に認められ、次の段階に移行出来る資格を持った。
そういう事やと思いまんねん。

ほんでから、

○ ローレンツ力は神の国、神の力でないと何んにも成就せん、
人の力で何が出来たか、みな神がさしてゐるのざ、
いつでも神かかれる様に、綺麗に洗濯して置いて呉れよ。
戦は今年中と言っゐるが、そんなちょこい戦ではない、
世界中の洗濯ざから、
いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。
臣民同士のいくさでない、”

・・・この○は心(靈)って場(フィールド)を指してて、
ほんでからに
 
ローレンツ力は、人の神格化の為の身体内のローレンツ力で、
それがあるからこそ“上”の振動を取り込むことが出来る。
そやから、

“人の力で何が出来たか、みな神がさしてゐるのざ、”

・・・やろし、
それは“上”の思惑とも言い得る高い振動・・・
人の科学の分類で言えば宇宙線に近い振動。
そう言うもんを受けて、
自分の体の中で増幅しそして発振、発信する。
(サイクロトロンやシンクロトロンに似た構造)

そやから、
○ ローレンツ力は神の国、神の力でないと何んにも成就せん、”

・・・当たり前でんねん。
進化程度の低い人が傲慢やから、
なんでも自分で何かをなしたと思いたいって事やから、
わざわざこう言う言い方をされてしまいよると思うやんか。
そやからこそそれは、人(日止、霊止)の存在意義=神格化から見たら、

“いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。”

どんなに力を示す事でも霊的干渉と無縁の事象は無い。
それを程度の低い人って言うのんは、
なんでも自分一人でなしたと思い込む。
必ず“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)と、
“術”って言うのんは、
自分のエネルギーを贖わんと現象化=事象の創造って結果にならへんねん。
沢山の霊的干渉があって、ほんでからにそれはうんと“上”の思惑って事があって、
それが変圧って過程を踏んで、“下”である人(日止、霊止)に垂れ、
そして色々体験し認識し・・・そうやって人は進化して行きまんねん。
そういう事を知らへんからこそ、
こんな言い方されてまんねん。
その霊的干渉と変圧・・・それは“上”からの意思=情報とか“力”とか・・・
そう言うもんは電磁波で、それを取り込む仕組みがローレンツ力でんねん。

そやからそれは、“神の国”は、
神は、示すに“呂”で、エネルギーの回転を示す事やし、
そのエネルギーを“下”=地球が地球の磁場で取り込んで、
ほんでからにそれを宇宙線とした。
そう言うもんの影響を受けてるのが人(日止、霊止)って事や。
そう言う存在が創った場(フィールド)を、
国=“玉(ぎょく)”と(囗)くにがまえ・・・
“玉(ぎょく)”の心(靈)の動きで構成されてるって事を言うてるんやと思うし、
そやからこそそれは、
“神の力でないと何んにも成就せん、”

“力”って言うのんは、さっきも簡単に言うたけど、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)に、
“一”の右端から“下”に筆を降ろし、
それは向かって右下=砌(みぎり)“下”に降ろし、
ほんでからに左上=日足(ひたり)“上”に、はねるやん。
書き順としてはイチの右端から左下に降ろし左上にはね、
ほんでからに最後に、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を書く。
これは、“一”=アイって事で、
(前回の記事を読んで欲しいねん)
それは、
神の思惑の顕現の最初の段階とも言えるのが“アイ”で、
この世界の創造を示してて、
それを更に右から“下”に降ろすのは、
もっと低振動化って事になるんやろし、
それは生命の発生って事やと思いまんねん。
ほんでからにそれは、
創造主が創造主以外の意識の認識をした=創造したとも云える事やと、
思いまんねん。
そやけどそれは“力”って言う字が示すとおり、
単なる“力”でしかない。
そこにはまだ、
智性(日を知った上で獲得した性質)とか、
智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)とかの要素は無い。
そういう事やと思いまんねん。

ちょっと我田引水な解釈でも有るんやけど、
それは、この後に出てくる言葉でもそういう事を思わせる・・・
それは、以下の文章、

“カミと神、
アカとあか、
ヒトと人、
ニクと肉、
タマと魂のいくさぞ。”

このカタカナに対し、
ひらがなと漢字で表現されてるんは、
カタカナが“上”の意思、
ひらがなと漢字がこちら側、物質世界での認識って事やと思いまんねん。

そう思う根拠は、
“カミ”の“カ”は、
さっき思うた“力”(ちから)みたいに、
丿部(へつぶ)と“一”、
ほんでから“一”の右端から“下”に降り、
そして左上にはねる。
“ミ”は、向かって左から右斜め下に降りて止める書き方。
これは前にKellyさんが気が付いた事やねん。
それも前に先生と話をしたやん。
それは以下の通りでんねん。
(“上”の思惑と顕現・・・“天の御目”)



・・・“ミチ”・・・って言うのんは、
三つのオーラが向かって左から右下に降りてるのが“ミ”・・・
それは又、思惑の顕現みたいな感じでんな。
ほんでからに“チ”って言うのんは、
丿部(へつぶ)+“一”+丿部(へつぶ)・・・
神さんの思惑と顕現が二つ重なって、
それに“一”=智性=1番目のオーラが加わってる。
そう言う風にも見えまんな。

・・・って。


そやからカタカナで書かれてる“カミ”は、
“上”の振動を取り込んだ人で、
それは三つのオーラが左上から右下に下降する。
日足(ひたり)“上”から砌(みぎり)“下”に現象化して、
事象の創造をして行く。
それは神の思惑を取り込んだ様子って事でんねん。

ほんでからに、
“アカとあか”
カタカナの“アカ”は、
アは“一”の筆の動き、日足(ひたり)から右で止まり、
それは、“アイ”を示す事でもあり、
そして左下に向かい、その先に丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を書く。
アイの下降・・・愛(炁)の顕現って事やと思いまんねん。
ほんでから、“カ”は、“カミ”で、今、説明したとおり。
そやから“アカ”って言うのんは、
“上”からの思惑が顕現した・・・顕現させたって言うのんか・・・
人がそれを取り込んだ事を表現した・・・
“上”の意識からの観察・・・そういう事やと思いまんねん。
それは、
ひらがなの“あか”って言うのを観ると、
“あ”は、“一”に(たて棒、コン)に、
右回りで“の”・・・みたいな字を書く。
“一”=“アイ”って事で、それが“下”に垂れてる様子を示してる。
“か”は、書き順を観ると、
向かって左から横、そして“下”に降りて左上にはねる。
そして、真ん中から左下に下ろす。
そして、向かって右にローレンツ力みたいな点を書く。
これは、ひらがなの“あか”は、
どちらも左から右の筆の動きがあり、
それは“あ”の中の“一”=創造主・・・その、
思惑の顕現って言う事でもあり、
良い形の思惑の顕現を示してるように思うやん。
そやけどそれは、
ひらがなの場合は、
こちらから(被造物としての人間が)感じる認識・・・
カタカナの場合は、
“上”から“下”に降ろした事情みたいな事を示してると思いまんねん。

ちょっと文章で表現しただけでは解り難いかもしれへんけど・・・

そう言う立場上の違い・・・
創造の意志とそれを受け取った人(日止、霊止)・・・
それによる表現の違いって事やと思いまんねん。
それとおんなじ様に、

“ヒトと人、
ニクと肉、
タマと魂のいくさぞ。”

“ヒト”と“人”、
カタカナのヒは、
乚部(いんぶ)=人の思惑の顕現、
その向かって右=砌(みぎり)に、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)・・・
カタカナのトは、
(たて棒、コン)とその向かって砌(みぎり)に、
点を書くやん。
その点も向かって日足(ひたり)“上”から砌(みぎり)下に止める。
“上”からの意思がとどまるって事やと思いまんねん。
それに対して、漢字の人って言うのんは、
向かって日足(ひたり)に、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)で、
その砌(みぎり)に乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)・・・

ほんでから、
カタカナのニクって言うのんは、
ニは2~3番目のオーラと肉体・・・
クは、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”・・・
そして“一”の砌(みぎり)から日足(ひたり)“下”に向かって、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)のように書く。
そやからそれは、創造の思惑の顕現が人(日止、霊止)の肉体=ニ・・・
そう言う風に思えまんねん。
漢字の肉は、冂部(けいぶ)に人が二つ縦に並んでる。
冂部(けいぶ)って言うのんは、
都市から遠く離れた郊外の地を意味し、国境または城郭って言う意味がある。
ほんでからに人が二つ縦に重なってるんは、
人って言う字そのものが、
丿部(へつぶ)神の思惑の顕現と、乚部(いんぶ)人の思惑の顕現、
それが二つって言うのんはまさに“土”=2~3番目のオーラの事で、
それが冂部(けいぶ)からはみ出して“上”に向かってるのが肉って事やねん。
そうあって欲しいってことやねん。
そやけどその人二つはほとんど冂部(けいぶ)の中にあり、
まだ“上”に飛び出してない=“上”に位置していないって事で、
そやからこそ肉の世界=現界の事象は腐ってると感じるやん。

ほんでから、
“タマと魂”
カタカナのタは、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と“一”とその砌(みぎり)端に、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)みたいに垂れる。
そして砌(みぎり)端の中ほどに日足(ひたり)“上”から砌(みぎり)下に点を書く。
さっきのカタカナのトの点とおんなじやねん。
カタカナのマは、“一”の砌(みぎり)端から日足(ひたり)“下”に降ろし、
そして今の点と同じように書く。
そやからこれも“上”の思惑の下降って事を示していて、
それに対し、
魂って言うのんはさっきも言うたけど、
ニ+ム部(しぶ)+鬼・・・
“魔”=マーラ(魔羅)っていう事になりやすいって事やと思いまんねん。
そやからここまでの話、
カタカナとひらがなと漢字で表現されてるんは、
カタカナは創造の思惑で、
その思惑通りの事象になってへん=右往左往してはるから、
“いくさぞ。”って言われてると思いまんねん。

ほんでから、
この後の言葉もそれを物語ってる感じで、
それは以下の通り。

“己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、
それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ、”

・・・敢えて説明する事ではありまへんな。
自己観察以外に霊的進化はありえへんって事でもありまんな。

ほんでから、次の言葉は自己観察してから考えるべきの言葉・・・
“早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一。
さびしさは人のみかは、神は幾万倍ぞ、
さびしさ越へて時を待つ。
加実が世界の王になる、てんし様が神と分らん臣民ばかり、”

掃除って言葉そのものが、
“己の心を見よ”=自己観察をするって言う概念から考えるべきやな。
そやからそれは何度も言うけど自省(胸の磁性“十”)と“直日(なおひ)”、
左往右往でもあるやん。
そやからそうなって欲しいから、
“さびしさは人のみかは、神は幾万倍ぞ、
さびしさ越へて時を待つ。”

これはKellyさんが思ったみたいに、

“何とかならへんのやろか・・・何とかする事・・・”

こう言う“上”の思惑を受信してるって言うのんは、
今“上”は、憂いてるからや。
これから“上”も左往右往の行に入り・・・もう入ってるんやな。
そやからその憂いの左往右往の思いが伝わってくるから、
今までやって来たことの結果は出て、
それに本当に価値があるのか・・・“まこと”の事やったのか・・・
観察させられ考えさせられる。
そやから、
“さびしさ越へて時を待つ。”・・・憂いてはるって事やねん。
ほんでからに次の言葉、
“加実が世界の王になる、てんし様が神と分らん臣民ばかり、”

“加実”は、
場(フィールド)を示す(囗)くにがまえ・・・ただ単に口でもエエやろけど、
その日足(ひたり)に“力”・・・
さっきから何回も言ったカタカナのカと“力”、
創造主の思惑の顕現を示す字・・・
そやからこそ、“実”・・・
宀(うかんむり)に、
“三”=三つのオーラ・・・人(日止、霊止)のオーラの構成に、
人=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)・・・
この場合宀(うかんむり)=頭って事でそう言う思想って言うのんか、
それは、
神さんの思惑を受信した様子が“加実”って事やと思いまんねん。
そやからこそそれは、
“世界の王になる”・・・そうならんとアカンって事やねん。
いうまでもない事やけど、“王”って言うのんは、
“三”を(たて棒、コン)で繋いだ様子で、
それは自省(胸の磁性“十”)の行もして、
“一”=智性=1番目のオーラを構成している様でんねん。
ほんでから、
“てんし様が神と分らん臣民ばかり”・・・
天意を受けたっていう意味やと思いまんねん。
天意を受信してはる人をてんし様って表現し、
それは“上”のエネルギーの示すへんと“呂”、
エネルギーの回転を示している様子を表してるのが神って言う字で、
それを受けているって事でんねん。
そやからこの文章は、
てんし様そのものが神って言う事では無く、
てんし様は神=示すへんと“呂”を受信してはるって事でんねん。
ほんでからにもっと穿った物の見方をするなら、
てんし=天使=天子・・・
天の使いはその字そのものやし、
天子って言うのんは、
子って言う字が、カタカナのアに“一”って事で、
それも創造の思惑を取り込んで“下”に垂れるって事やねん。
そやからこそ、てんし・・・ひらがなで書かれたのかも知れへんな。

ほんでから次の言葉、
“口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふぞ。”

口と心(靈)と行・・・
これは受信=口・・・そして場(フィールド)としての(囗)くにがまえ。
心は心(靈)で、それは“一”=アイを受信してはる様が、
靈って言う字やって先生は言うてはった。
(“上”の思惑の顕現・・・“天の御目”)
ほんでからにそれは、
この後の“日月神示”の文章に出てくる表現メグリ・・・
先生の解釈の“メグリ”(帀)・・・
それも“上”からの受信を示しているって言うてはった。
要は、受信して増幅して発振、発信して、
そして行=創造・・・時間の進行と共に事象を形成して行く。
それが、
神さんの思惑の最後の仕事でもある人(日止、霊止)って事や。
それは○ 九 十 の卆って事やねん。
そやからそれが人(日止、霊止)の存在意義・・・使命って事やねん。

ほんでからに、以下の言葉はもう説明はいらへんやん。
“神の臣民 みな命(みこと)になる身魂、掃除身魂結構。”

・・・何を掃除するのか・・・よう考えて欲しい・・・
これがKellyさんの感じた事やな。

そやけど・・・

(;・д・)∂ ぽりぽり・・・(A;´o`)=3=3=3=3=3=3 フゥウウウ・・・

ε=ε=ε=ε=ε=ε=ε= ( ̄。 ̄;A)フゥ~~・・・ツカレタヤンカ・・・アア, シンド・・・

“日月神示”の一番最初の文章を解釈するのにもこんな長い時間がかかってしもたやん。
そやから今後、解釈して行くに当たって、
以前の解釈を紹介してたら凄く時間が掛かるから、程よくはしょるようにして行かんと、
時間が掛かりすぎて先生の寿命が尽きるとアカンから、
今後の解釈で説明をはしょり、それが理由で解り難いところは、もう一度読み返して欲しいねん。


そやからそれは、
このブログに縁のあった人(日止、霊止)、
先生の考えに共感を持った人(日止、霊止)は・・・
そう沢山居てへんやろけど、
説明をはしょったところは過去記事をもう一度読み直して、
自分の認識にして欲しいねん。

今日はこれくらいにしておきまんねん。

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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


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