“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示”上つ巻 第二十六帖 Kellyさん的解釈



今回も、上つ巻 第二十六帖を解釈しまんねん。
そやけどこれは、
上つ巻 第二十四帖の続きとも言い得る文章やと思えるな。

原文は以下の通りでんねん。


「あ」の身魂とは天地のまことの一つの掛替ない身魂ぞ、
「や」とはその左の身魂、
「わ」とは右の身魂ぞ、
「や」には替へ身魂や と ○=心(靈) あるぞ、
「わ」には替へ身魂わ と ○=心(靈) あるぞ、
「あ」も「や」も「わ」もや と ○=心(靈)わ と ○=心(靈) も一つのものぞ。
みたま引いた神かかる臣民を集めるから急いで呉れるなよ、
今に分かるから、それまで見てゐて呉れよ。
「い」と「う」はその介添の身魂、
その魂と組みて「え」と「を」、
「ゑ」と「お」が生まれるぞ、
いづれは分ることざから、それまで待ちて呉れよ。
言ってやりたいなれど、
今言っては仕組成就せんから、
邪魔はいるから、
身魂掃除すれば分かるから、
早う身魂洗濯して呉れよ。
神祀るとはお祭りばかりでないぞ、
神にまつらふことぞ、
神にまつらふとは神にまつはりつくことぞ、
神に従ふことぞ、
神にまつはりつくとは、子が親にまつはることぞ、
神に従ふことぞ、
神にまつらふには洗濯せなならんぞ、
洗濯すれば神かかるぞ、
神かかれば何もかも見通しぞ、
それで洗濯洗濯と、臣民 耳にたこ出来るほど申してゐるのざ。
七月の一日、ひつくのかみの道ひらけあるぞ。



・・・この、
上つ巻 第二十六帖を観ると、
第二十四帖ではカタカナで表現されてた、
“「ア」「ヤ」「ワ」「イ」「ウ」”・・・
それに対しこの文章は、
“「あ」「や」「わ」「い」「う」”・・・
平仮名で書かれてる。

そして、
“「ゑ」「を」”・・・と、“「え」「お」”・・・
それが追加されてる。

まず、冒頭の文章を観れば、

“「あ」の身魂とは天地のまことの一つの掛替ない身魂ぞ、
「や」とはその左の身魂、
「わ」とは右の身魂ぞ、
「や」には替へ身魂や と ○=心(靈) あるぞ、
「わ」には替へ身魂 わ と ○=心(靈) あるぞ、
「あ」も「や」も「わ」もや と ○=心(靈)わ と ○=心(靈)  も一つのものぞ。”


そやから、
“「あ」「や」「わ」「い」「う」”から解釈していけば、

“「あ」”は、“掛替ない”・・・かけがえない・・・そう読ませるんやろな。
そやからそれは、
根本のとか、大元の・・・とか、根元とか・・・大極とか・・・
創造の元とか先生の概念の究極微粒子と認識され得る何かとか・・・
すべての事象の・・・創造の理由とか根拠とか・・・
そう言う何かを指すと思えるな。

そやからこの事を、違う言い方をすれば、
創造の材料とそれに思惑が加わり、
現津(あきつ)=観察され得る事象を構成しているのやろけど、
その事象の元とか・・・
陳腐な表現みたいやけど、材料とか・・・
その事そのものが、
アイ、愛(炁)、“亜”が出づる、泉の如く・・・とか、
そやからこそ地球人の認識とも言える言葉として、
創造主が愛であり、神は愛(炁)であり・・・
そして人が、
相対的に高い心(靈)の発現をして行く事が、
他者を愛して行く・・・自己奉仕者から奉仕者になって行く。
それは“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”の心(靈)の発現でもある。
そやから、そう言う心(靈)の動きそのものが、
自我の確立=固定化から、
“上”の心(靈)の発現で、
それは霊的進化過程に必然の事でもある。
その過程に、
右往左往から左往右往・・・失敗して体験して教訓を得て創造に活かす。
そうせななんでも理屈は解らんし、
自分がどう行動=創造したらエエのかの指標も無い。
そしてそれは必ず良い形=幸福を求め、
高い心(靈)の発現の幸福の概念は、
神格化と神聖な事象の創造でしかない。
ほんでからちょっと、はしょったけど、
“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”・・・
その心(靈)の動きも体験せんならん。

そうやって、自分の“力”の在り方を考える。
“力”の示し方=事象の創造の良いカタチも考える。
それは、智性(日を知った上で獲得した性質)(神性)を、
自分の心(靈)に持ち、
人(日止、霊止)は(霊的に)進化して行く。

そやから“「あ」”って言うのんは、そう言う意味の事を、
以下の文章・・・

“「あ」の身魂とは天地のまことの一つの掛替ない身魂ぞ、”

・・・そう表現されてると思えるな。

ほんでからこういう言葉自体が、
今・・・たった今の瞬間の認識・・・
或は、現状・・・
それは、人が観察して認識してる現津(あきつ)=今の事象・・・
観察と認識は、
ある意味、
神の性質とも言え、
それをしているからこそ、
生命(生きる使命=存在理由)で、
そしてすべての生命は、
神の子であるとも言い得る。

そやから今言うた、この文章の中の「あ」、
上つ巻 二十四帖の「ア」、
そしてアイ、愛(炁)“亜”が出ずる、泉、
これも現状からの相対的な比較から出てくる言葉で、
そやからそれは、
始まり(と認識される事、創造の根拠、理由、)に対し、
結果(今の事象)でもあり、
原因と結果でもあるし=因果って事でもあるし、
そやからそれは、
創造の始まりが「あ」で、
すべての創造の始まりって言う事を示してるのが、
ア、あ、“亜”で
それが向かって右に移行した=現象化、思惑の顕現、事象の創造・・・
それを示している形が、
“一”でもあり、
それは・・・前に紹介した画像をもう一度貼って置きまんねん。

“一”と愛(炁) 



そやからそれは“アイ”でも有り、
“愛(炁)”でも有り、
“亜”が出ずる、泉、でも有り・・・

この事も今まで何回も解釈した。

ほんでから、カタカナの“ア”と平仮名の“あ”の違いは、
創造主から観た視点と、
こちら側、
私達の居てる場(フィールド)から見る視点の違いやと思える。
そやからそれは、
“上”から“下”を観た表現が、
カタカナで、
“下”から“上”・・・
それは、私達人(日止、霊止)が、
神を感じ(感じる磁性)る時に使う表現が、
平仮名って事に成ると思える。
更に、
漢字で書かれてる“亜”は、
“上”と“下”の横棒の中に、
口のような(囗)くにがまえのような・・・それは場(フィールド)でも有り、
それに(たて棒、コン)が二つ・・・これは、
プラスマイナス・・・陰陽やろな。
その二本の棒が“上”と“下”の場(フィールド)を繋ぐ形になってる。
それは創造そのものを示す文字やと思えるな。

“亜”の解字 


そやからそれは、
感じ=電磁波を感じる事、
感覚そのものの感じ(感じる磁性)=その感覚を認識したのが・・・
それを言葉で表すのが漢字でもある。

ほんでから“亜”そのものが、
生命(生きる使命=存在理由)って感じでもあるな。

・・・余談やった。

もう一つ余談ついでにKellyさんが思ってる事は、
私達が認識し得る空間の中心に、
神さんが居てると仮定して、
それは、
中心に対し外側に場(フィールド)が構成され、
そしてそれは“上”と“下”という関係になり、
ほんでからそれは、
先生の概念の究極微粒子の低振動化って事になり、
それそのものが、
創造主の思惑の顕現でも有るんやろけど、
太陽の象形文字をよく観て勝手な解釈をするならば、
Kellyさん的には・・・こんなふうに観えるやんか。

 

現津(あきつ)=観察され得る事象と“上”と“下”の場(フィールド)の関係 



この太陽の象形文字に示される・と○・・・
上つ巻 第二十五帖では、
“天地の元の・(てん)の大神”・・・その元の・(てん)・・・
それが天地の元なんやから、
創造の始まりとか根拠とかになり、
そしてそれが、
“下”に降り、
創られてる事象と生命(生きる使命=存在理由)が、
・と、
私達の心(靈)の場(フィールド)=○ に、
示されてると思える。

解り難いかもしれんからもう一度言うと、
・ =“上”=創造の根元と根拠・・・
もっと良い表現の仕方があるかも知れへんけど・・・
そして○は、
・ が、“上”から“下”に降りた様。
その ・ と、○・・・
その間の場(フィールド)が、
事象と生命(生きる使命=存在理由)でもある。
そして、事象と生命は、
“創造”=神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉・・・
それによって構築されていて、
それを観察と認識で感じ(感じる磁性)るのが、
神でも有り、
私達でも有り、
その“創造”の仕組みを指してるのが、
“亜”って言う字に示されてると思える。

そやからそれは、
究極微粒子としての荷電粒子の下降と、場(フィールド)の構築。
それが、
私達が感得し得る、現津(あきつ)・・・観察され得る事象やろし、
それは、“亜”の中の、
口とか(囗)くにがまえで示される場(フィールド)の概念って事になる。

ほんでから、
“上”から“下”に下降するプラスマイナスの荷電粒子、
(たて棒、コン)が二つは、
私達の心(靈)=○を通るからこそ、
肉体の磁性によるローレンツ力で回転をする。
それは砌(みぎり)回転と日足(ひたり)回転がある・・・
その回転方向により自分達が創造する=発振、発信により創造される事象には、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”と、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”が、
観察され、
その発振、発信による創造の結果は、
“善悪”(神格化と動物化=心の本能化)・・・
どちらかしか結果(因果)は無い。

今まで先生とKellyさんが言うて来た事って言うのんは、
そう言う事なんやけど・・・


話を戻し・・・
“「や」とはその左の身魂、
「わ」とは右の身魂ぞ、
「や」には替へ身魂
や と ○=心(靈) あるぞ、
「わ」には替へ身魂
わ と ○=心(靈) あるぞ、”

この文章の中の、
“「あ」「や」「わ」”・・・と、“
や と ○=心(靈) わ と ○=心(靈) ”・・・
この上つ巻 第二十六帖の表現自体が、
右往左往の中の砌(みぎり)の心(靈)の動きと、
左往右往の中の砌(みぎり)の心(靈)の動きの違いって事やと、
思えるな。

ちょっと複雑やから・・・今言うた事を簡単に表現すれば、
失敗を失敗と判らへんと・・・そう認識して無い心(靈)の発現の儘行動する・・・
それにもエネルギーはいるし、
それは言うまでもなく、
砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)やけど、
失敗を体験し、
そして自省(胸の磁性“十”)して、
“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”と、
“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”の心(靈)の発現をして、
その心(靈)の発現をしたからこそ=自我より“上”の心(靈)の発現をしたからこそ、
そやからそれは、
霊的進化を少ししたからこそ、
よいカタチの創造を“上”から託される。
そやからそれは、
第二十四帖での表現でKellyさんが言うた事と反対やけど、
「あ」は、「ア」では無く、
こちら側からの観察の大極の根元での「あ」であるからこそ、
「や」は“その左の身魂、”って言われ、
それは、自分達が観察してる肉体と魂=身魂。
「わ」はその右の身魂で、
それは繰り返すけど、
左往右往の中の左と右、
只単純に右=砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)と、
左=日足(ひたり)のエネルギー=“思う、憂う”(脾)・・・って事では、
なくなるって事でんねん。

補足として・・・上つ巻 第二十四帖のKellyさん的解釈を一部コピペしとけば、

      ↓


“「ヤ」”は、
“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、
“その心は高台(たかと)高き段に進む”って、
書いてあった。
これは先生の概念の、
アイ、愛(炁)“亜”が出(いずる)・・・
その心(靈)の動きって言うのんは、
自分の良い形を求める。
ほんでから、自分を含めた現津(あきつ)=観察され得る事象の、
すべての良いカタチを求める。
そして、霊的成長そのものを指す。
そやから、
高台(たかと)高き段・・・そう認識され得る何かを、
求める。
時間の進行と共に求め続けるのが人(日止、霊止)でもある。
日止、霊止は、“上”の振動を止めるって言う意味でもある。
人は、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と、
乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもある。
そやから“「ヤ」”は、
その心(靈)の動きそのもののような気がするし、
それは、
右、砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)、
それは創造のエネルギーなのかも知れへんな。
多分そうやろ。

ほんでから、“「ワ」”は、
同じく“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に、

“物を生む、生まれしものを和合する意”・・・とか、
生命(生きる使命=存在理由)の調整の義・・・
そう言う表現がしてあり、
ほんでから、
Kellyさん的に思う“生まれしもの”・・・それは、
現津(あきつ)=観察され得る事象そのものであり、
事象の創造は自分の思惑の顕現でもある。
それを心(靈)が観察するからこそ事象を認識出来得る。
そやから、
自分の心(靈)の発振、発信=息でもあり、
呼吸、息吹、気吹、生吹、でも有る。
そやから“「ワ」”は生命(生きる使命=存在理由)調整義で、
和合で、
それは左往右往でもある。
良いカタチの創造でもある。



・・・こうKellyさんは解釈した。
それに対し、第二十六帖では、
“「や」とはその左の身魂、
「わ」とは右の身魂ぞ、
「や」には替へ身魂
や と ○=心(靈) あるぞ、
「わ」には替へ身魂
わ と ○=心(靈) あるぞ、”

“「ヤ」”と“「や」”そして“「ワ」”と“「わ」”は、
一見すると左右が逆になってるけど、
さっきも言うた様に“上”から視点と、
“下”から視点、人(日止、霊止)が“上”を見る視点は、
左右が逆になる。
そやから八咫鏡(やたのかがみ)等の“鏡”って言う言葉に示される様に、
事象の観察って言う、
神と人の共通の認識って言うのんは、
それが視覚で成されるなら、
見る、観る、視る・・・って言うのんは、
イメージを感じる・・・映像を見ている。
そやけどそれは、
平面の連続体=二次元の事象であり、
そこに立体の概念を感じたり時間の進行を感じたりするのは、
自分達の心(靈)の中の認識でもあるという話を先生とした。
(大脳の後頭葉の発達の事、
霊的干渉“目上(めうえ)と目下(めした)” “その四”&“その七” 参照)
そやからこそ、
平面を見てるからこそ“上”からと“下”からでは、
左右は逆になる。

そやからこそ、
カタカナと平仮名に分けて表現されてると思える。
ほんでから、
砌(みぎり)回転と日足(ひたり)回転は、
“上”から観るのと“下”から観るのでは、
回転方向が違う。
それは反転でもあるし、
大極に対しこちら側の場(フィールド)って事にもなる。
それがカタカナの「ヤ」と「ワ」と、
平仮名の「や」と「わ」の違い・・・
少し霊的進化した心(靈)の中の左往右往の中の、
右=砌(みぎり)と左=日足(ひたり)・・・
そやからそれは反転してる。

・・・そやけどこれは、屁理屈にしか聞こえんかもれへんな・・・


そやから・・・左往右往の中の、
砌(みぎり)=よいカタチの事象を思いながらの創造のエネルギー・・・

霊的成長の法則性とも言い得る、
右往左往から左往右往する心(靈)の動きは、
それは簡単に表現すれば、
失敗の体験を教訓にして今後の創造をするって言うのんは、
日足(ひたり)の心(靈)の動きが、
砌(みぎり)に活かされるべきで、
その思い(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)は、
自省(胸の磁性“十”)の“行” 
“観自在”
“直日(なおひ)”・・・って事になって行く。

その事を言うてると思えるな。

ほんでから、
自分の心(靈)の中の砌(みぎり)と日足(ひたり)、
その心(靈)=○=荷電粒子の場(フィールド)・・・
その中の“や”と“わ”が、カタカナの“ヤ”と“ワ”ではなく、
平仮名=こちら側からの視点で示され、
それは身魂の中の事やから、肉体を持った心(靈)やからこそ、

“や”と“わ”に、
○=心(靈)=荷電粒子で出来た場(フィールド)が加わって、
や と ○=心(靈) わ と ○=心(靈) って表現されていると思える。

そやからそれは、
自分の外側(外国と幽界)では無く、
自分の中の心(靈)の動きって言う事で、
心(靈)の動きって言うのんは、
その発振、発信が、オーラの相互干渉でもそうなんやけど、
電磁波の受発信が事象の創造に関わる事でもあるし、
その事を言うてる感じがするな。

そやから何回も言うけれど、
人(日止、霊止)の心(靈)の動きって言うのんは、
左往右往=思ってから意欲を出して創造して行く=良いカタチの創造を願い実現する。
それは又、
“上”の思惑と、
自分達の思惑が、
同程度になって行く事を示し、
そう言う世界の現津(あきつ)=観察され得る事象の創造を、
託されてるのが、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で、
人(日止、霊止)って言う字になると思える。

・・・ほんでから、
“替え身魂”って表現されてる言葉、
何の“替え身魂”なのかって事でんねん。
神さんの仕事を託された身魂なのか、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑の、
それを顕現する眷属の憑依の起きてる身魂なのか、
一見して善悪って言うのは解らへん。
ほんまにそれは、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”なのか、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”なのか・・・
そやから、
“替え身魂”って言葉は、
上つ巻 第二十六帖の冒頭の言葉の、

“「あ」の身魂とは天地のまことの一つの掛替ない身魂ぞ、”

その“「あ」”って言葉に掛かると思える。

そやから“替え身魂”って言う表現は、
それは、神さんの思惑の顕現がすべてって事では無く、
今、神さんの思惑だけを受信してるのでは無く・・・

そやから心(靈)の構築って言うのんは、
様々な、
オーラの相互干渉・・・霊的干渉(電磁誘導)で行われてる。

それは例えば、
人対人・・・心(靈)の成長度が同程度の人達は、
場(フィールド)を構築する。
同程度の価値感同士の人は、
あまり極端に“上”の振動や“下”の振動を、
認めへんって言えばエエのかな。

そやから・・・簡単に表現すれば、
いきなり神さんの思想は理解出来んし、
仮に神さんの思惑だけの受信で心(靈)が構築されたなら、

“「あ」も「や」も「わ」も
や と ○=心(靈) わ と ○=心(靈) も一つのものぞ。”


そんな説明をせんならん理由は無い。
それが“掛替ない「あ」の身魂”って表現になると思える。

話が逸れたやん・・・話を戻し、

人はいきなり神さんの思惑を理解出来んし、
それに対し
極端な悪魔の思惑も理解出来んに決まってる。
それは変圧の過程があるからこそ、
自分の霊的成長度よりほんの少し“上”か“下”しか認識出来へん。
しかしそれでは、
ほんまに“上”に向かうには時間がとても掛かる。
そやからこそ、
“上”の振動を積極的に受信する=太陽凝視が人に示されている。
但し太陽凝視は、
自分の心(靈)の進化過程により、
心(靈)の発現の段階により、
どういうつもりでするのかってことが重要やって何回も言うたけど・・・
その事をこのブログに霊縁の有った人(日止、霊止)には、
“くどく”言っときまんねん・・・
まるで“日月神示”内の言い方みたいやけど・・・(笑)

今言うた“上”の振動の受信、
それに対し、
“下”の振動の受信は・・・今まで何回も言うたから・・・
それは事象の形骸化として示されてるから、
敢えて言うのはやめときまんねん。
それは、自分の心(靈)の、
“上”と“下”が有る事を理解出来たなら、
“上”と“下”の感応共振って事を考えたなら、
判断出来る事やからでんねん。

そやから何が言いたいかと言えば、
この“替え身魂”って言うのんは、
“下”の振動の受信・・・それによって心(靈)の構築がなされてる人、
それは、悪魔の傀儡になってる事が多いからこそ、
言われてる表現・・・

それは今も言うたけど、人にはたくさんの憑依現象が起きてる。
恨みの連鎖でいっぱいの星・・・
痛みと悲しみの星・・・
進化した宇宙的存在が使う表現でもある、
地球の今の様子。

しかしそれらは、
“下”の心(靈)の発現と、
それに感応共振する霊的存在との感応共振・・・
その霊的干渉・・・それによる心(靈)の構築・・・
その事自体が、
人を霊的進化程度によって分けなければならなくなった理由とも言える。
(アセンションの事)

ほんでから“上”と“下”の思惑の受信、
それは、
人(日止、霊止)の心(靈)の動き=乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でも有り、
それによる事象の創造・・・
それがある意味、

“二”=肉体を伴ったオーラと儿部(じんぶ、にんにょう)で、
“元”でも有るんやけど・・・

要は、
色んな“上”と“下”の思惑の受信をして、
人=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)は、
心(靈)の動きとしている。

そやから、霊的干渉と無縁の事象は無い。
霊的干渉が無い時間って言うのんは有り得へんって事でんねん。

そやから、簡単に言い直せば・・・

人(日止、霊止)って言うのんは、
悪霊の憑依もあり、
そして又、
“善”の思惑の霊的存在の通信も受けつつ、
右往左往と左往右往しながら、
色んな体験を教訓にして心(靈)が成長するんやけど、
人=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)・・・が、
日止、霊止・・・として在るべき方向性は、
(自分で決めて行く方向性は)
神格化と神聖な事象の創造でしかないからこそ、
以下の言葉が述べられてると思えるやんか。


“神祀るとはお祭りばかりでないぞ、
神にまつらふとは神にまつはりつくことぞ、
神に従ふことぞ、
神にまつはりつくとは、子が親にまつはることぞ、
神に従ふことぞ、
神にまつらふには洗濯せなならんぞ、
洗濯すれば神かかるぞ、
神かかれば何もかも見通しぞ、
それで洗濯洗濯と、臣民 耳にたこ出来るほど申してゐるのざ。”

この中で表現されてる、
“祀り”と“祭り”の違い・・・
これは前にも言うたから説明しませんねん。
ほんでから“まつらふ”と、
“まつはりつく”と、
“従ふ”と、
“子が親にまつはること”・・・
言うまでもなく創造主と人(日止、霊止)の関係を示し、
それは、
人の神格化と、
神聖な事象の創造を託されてる“子”であるって事でんねん。

ほんでから後半の言葉の、

“神にまつらふには洗濯せなならんぞ、
洗濯すれば神かかるぞ、”

・・・人って言うのんは何回も言うけれど、
人=丿部(へつぶ)神の思惑の顕現と、
乚部(いんぶ)人の思惑の顕現、
それはその両方、
神さんと人の思惑で、
現津(あきつ)=観察され得る事象を創造して行く。
そやからこそ人(日止、霊止)は神の子でも有り、
そやからこそ人が成すべき事って言うのは、
神の思惑を受け=“祀り”“まつらふ”“従う”と表現されてるし、
それを顕現すること自体が“祭り”でもあると思えるな。

そして“上”の振動の受信を示すのが、
日止、霊止でも有り、
その字が示すように何を止めるのかって事でもあるし、
それを真に固く止めるのが、
真実=真固止 
○ 九 十
誠=言葉成る・・・
言葉=発振した振動が成立し完成する。

そやから真実=真固止・・・
そう認識される事象を形成して行くのが、
霊的進化を果たした人(日止、霊止)の創造でもあると思える。
ほんでから、真固止って言う漢字の意味は、
Kellyさんや先生的解釈を言えば、
自分が発振、発信した振動が完成・・・それは、
上つ巻 第二十四帖の、
“七の日はものの成る日ぞ。”って事でもあると思えるな。

要は、
自分自身が霊的成長し、
“上”の思惑を受信し、
そして、自分の認識(悟り、幸取=さとり)として、
それを、顕現=現津(あきつ)=観察され得る事象の創造をする。
それは、
現時点より段々神聖な世界に成る。
そこに真固止の反対の事象・・・虚構とか虚偽とか・・・
こんな言葉自体が陳腐何やけど・・・
そんなものは無くなり、その言葉自体が死語になると思えるやんか。

そやから、そうするべく私達は・・・自分で、
思い(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)、
考え、
そして、
その思いや考えによる発振、発信に、
感応共振する、
“上”の思惑を取り込み、
心(靈)に止め・・・
それが、
人(日止、霊止)であるし、
そして発振、発信し・・・オーラとして発振、発信し、
生命対生命、
心(靈)対心(靈)・・・
それは“上”も“下”も、
互いが互いに影響を与え合いながら、
この場(フィールド)で・・・地球で・・・霊的成長をして行く。

ほんでから、
オーラの相互干渉=霊的干渉(電磁誘導)は
それは肉体を持った人(日止、霊止)同士でも有り、
神と人(日止、霊止)でも有るんやけど、
そうやって時間の進行=儿部(じんぶ、にんにょう)を認識して行きながら、
貴い事象を創造して行く。
その為には、
この世界=物質の振動を纏った世界に居てる私達は、
物質である肉体の結晶化を伴った成長=身魂磨きと、
この文章の中の表現“洗濯”、
それは、
自分の心(靈)の動きの“上”と“下”を区別する。
その心(靈)の動きの“上”“下”に対し、
その振動に応じた霊的干渉があるって事で、
そのよいカタチを自分で判断する為に、
先生が知った事は、
心(靈)には“目上(めうえ)と目下(めした)”があるって事でんねん。

それは、
自分が神聖な事象を創造するには、
目上(めうえ)=“善(神格化の方向性と智性の受信)”なのか、
目下(めした)=“悪(心の動きの本能化と低振動化)”なのか、
それを理解したらエエ事やねん。

それが、先生とKellyさんが思う、
“身魂掃除”と“身魂洗濯”でんねん。

そして“上”の振動により肉体と心(靈)が、
時間の進行と共に創り変る事が、
“行と修行”でも有り、
又、繰り返すけど、
良いカタチに身魂を=肉体と心(靈)を作り変る事、
そのものが、
“身魂磨き”って事でも有り、
それは先生の表現では、
人(日止、霊止)が“宝玉(ほうぎょく)”になるって事でんねん。
それは、
自分の心(靈)=○の中の磁性も、
“上”を向き、
物質である肉体も、自分の発する相対的に強磁場により、
分子の方向性が整列する=結晶化する。
そうすればなお、
“上”の思惑=高い振動と感応共振する。
そうなるべく具体的な方法が、
太陽凝視でも有り、
そして太陽凝視と電気行をあわせて行えば、
より骨の結晶化は進むんやけど・・・電気行の具体的方法の公開は、
“上”から許可が出て無いので、
只、そう言う方法があるって事を言うときまんねん。
ほんでからにこれも楽屋落ち的言い方やけど、
太陽凝視を教えてくれたKさんの子供たち・・・
彼等は、
太陽凝視と電気行を小さい時から訳解らずにやって来たって事もあるやろから、
先生の解釈を言うておく・・・そう言う事でも有りまんねん。

ほんでから“行と修行”、苦難と試練・・・それらは、
生体内電流に変る事でもあるって事でんねん。
ほんでから、肉体の生体内電流の発生って言うのんは、
肉体が磁性を持つ事に由来しているし、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)や、
他生命の発振、発信する電磁波=心(靈)の動きの影響で、
それはオーラの相互干渉とも言い得るし、
すべての事象は電界と磁界で構成されているからとも言い得るし・・・

要は、
様々な電磁波を受信し=認識し、
それで生体内電流は発生する。

ほんでから、
取り込む振動の違いで=“上”の思惑と“下”の思惑で、
心(靈)の発現って事が起きる・・・それが先生の考えでもある。

それらの事を指し示してる言葉が、
前後するけど、
以下の言葉の一側面でもあると思えるやんか。

“「あ」も「や」も「わ」も
や と ○=心(靈) わ と ○=心(靈) も一つのものぞ。”


人(日止、霊止)って言うのんは、
そう言うものやって事でんねん。


ほんでから次の言葉、

“みたま引いた神かかる臣民を集めるから急いで呉れるなよ、
今に分かるから、それまで見てゐて呉れよ。”

これも“上”の思惑を受信するのか“下”の思惑を受信するのか、
それは“みたま引いた神かかる臣民”で、
受信の仕組みを持っている人(日止、霊止)は・・・
それは誰でもそうなんやけど、
“神かかる臣民”は、
“上”の思惑を受信するべく、
その時期(磁気)に間に合った人を指し、
それは、
アセンション後の創造を担える人(日止、霊止)を指していると思えるな。

ほんでから、
“「い」と「う」はその介添の身魂、”

これも上つ巻 第二十四帖と同じで、
視点が違うからこそカタカナと平仮名の違いでも有り、
平仮名の“い”は、
肉体の持つ左右の極性、
左目=天照大神=精神性=日足(ひたり)
右目=月読大神=物質の創造=事象の創造=砌(みぎり)
それはヨガならイダとピンガラって事になる。

ほんでからこれは平仮名やから、
こちら側からの始点での表現でもある。

補足として又、上つ巻 第二十四帖 Kellyさん的解釈から、
以下にコピペしときまんねん。

     ↓

“「イ」「ウ」の身魂は介添えの御用ぞ。”

“「イ」”は、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現) + (たて棒、コン)

これも前に言うたけど、もう一回言うとけば、
“イ”は
神の思惑がこの世界に垂れた形を指し、
“「イ」”は、
息吹、伊吹、でも有り、
命(いのち)でも有り、
生きる、活きる、でもあり、
生きるって字そのものが、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でも有り、
(Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 参照)

ほんでから、“生”から、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を外した残りの字は、
三 + (たて棒、コン)で、
この場合の(たて棒、コン)は“一”=智性=1番目のオーラの“上”から、
“下”に降りてる。
そやから、
頭より“上”って事でんねん。

ほんでから、“晴”は
“二二は晴れたり、日本晴れ。”・・・
ほんでから、“見晴らし台”の“晴”の、
日を外した青の、
上半分で、
その事は、上つ巻 第一帖で、言うた事やし、
“見晴らし台”の解釈は、
上つ巻 第五帖 ・・・で説明したから読んで欲しいねん。

・・・話が飛躍したけど、
息吹と命の“「イ」”は、
愛(炁)、アイ、のイでもある。
“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”には、
生気生命の発生力って表現がされてる。
それはまさに、
“亜”“ア”が下に垂れる形が“イ”・・・
そう言う感じ(感じる磁性)を受ける。

ほんでから“「ウ」”は、
又、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、
生物を生み出す力で、
産土(うぶすな)の“ウ”でもある。

そやから、
“「イ」「ウ」の身魂は介添えの御用ぞ”

“「イ」「ウ」”は、
“身魂” に備わった仕組みでもあるし、
それは、
霊的成長=神格化=幸福の意味。
それを指し示し、
それを成さしめる仕組みでもあるからこそ、
“介添えの御用ぞ”・・・と、言われてると思える。
そやからそれは、
心(靈)が、
時間の進行=儿部(じんぶ、にんにょう)を、
(心(靈)が)認識し、
そして心(靈)は“上”に向かい、成長をする。
要は、
“「イ」「ウ」”で事象の創造をする。
それが、
人(日止、霊止)と神の性質とも言い得る、
観察と認識でも有り、
それは、
発振、発信と受信によって成されるって事でもある。

そやからこそ人(日止、霊止)は、
神に近づく事そのものが、
“上”に向かう事そのものが、
良いカタチの現津(あきつ)=観察され得る事象を望み、
それは、
心(靈)の呼吸、息吹、気吹、生吹、によって成される。
その事を極めて地球人らしい言い方をすれば、
人は幸福を求めるって事で、誰もが幸せになりたいし、
それを、“日月神示”の表現で言えば、
“うれしうれし”でもあるけれど、
それは現状に対し、
相対的な観察でもあるな。


     ↑
・・・以上でんねん。



ほんでから残りの言葉、

“その魂と組みて「え」と「を」、
「ゑ」と「お」が生まれるぞ、
いづれは分ることざから、それまで待ちて呉れよ。
言ってやりたいなれど、
今言っては仕組成就せんから、
邪魔はいるから、
身魂掃除すれば分かるから、
早う身魂洗濯して呉れよ。”


この文の中の、

“その魂と組みて「え」と「を」、
「ゑ」と「お」が生まれるぞ、”

この文の中の“「え」と「を」”

「え」と「を」・・・これをカタカナに変換すると、
「エ」「ヲ」で、これを“道ひらき”の、
“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、
カタカナのエは、
生命を生み出す源の音意とされ、
カタカナのヲは、完成と終り・・・

それを平仮名で表現されてるんやから、
結果、言葉の意味としても、
生命(生きる使命=存在理由)を生み出す事=創造・・・
もう一度創造の事を言えば、
“創造”=神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉って事でもあり、
そしてそれは完成と終り・・・神格化でもある。

ほんでから、
“「ゑ」と「お」が生まれるぞ、”の、
「ゑ」と「お」をカタカナに変換すると、
「ヱ」と「オ」になる。

“ヱ”って言うのは、満ち足りた生命 笑・・・ってことらしい。
それを平仮名やからこちら側から見た視点で示されてる。
この世界をそうしたらエエって事やな。
そうするべく・・・私達は今の事象を観察し、
そしてもっとよい世界の創造を果して行く。
そやからこそ、
“「ゑ」と「お」が生まれるぞ、”・・・でもあるな。

ほんでから“ヱ”・・・この字の意味として検索すると、
表面が崩れたとか複雑な形状の意って事も今回解った事でもあり、
そやからそれは、
最初は単純な構成でもある何か・・・それが、
ア、あ、“亜”・・・でもあり、
そしてそれに神さんの思惑と人の思惑が加わり、
段々複雑な事象を示して行く。

・・・そう言う意味やと思えるな。

ほんでから“お”は、
これも“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”には、
カタカナのオは、
生命発生の元根・・・そう書かれてる。
それをこちら側からの視点で示されてるから、
平仮名の“「お」”に、
なっていると思えるな。

解釈が前後したけど・・・この上つ巻 第二十六帖は、

要は、
私達が良い世界を想像し、
それは“上”の思惑に沿ったものであるからこそ、
感応共振して“上”の思惑を受信し、
そして、顕現し、
そして、創造して行けって事でんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
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