“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 雨の巻 第七帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、雨の巻 第七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の心の判りた臣民から助ける御用にかかりて呉れよ、助ける御用とは清めの御用で御座るぞ、天地よく見て悟りて呉れよ。
三四五(みよいづ)の御用は出来上がりてしまはんと御用してゐる臣民にはさっぱり判らんのであるぞ、つかわれてゐるから判らんのであるぞ、出来上がりてから これは何んとした結構な事でありたかとビックリするのざぞ。
アメのひつ九のか三とはアメの一二の神で御座るぞ、アメの
ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用  ローレンツ力と ○   (つきひ)の神で御座るぞ、元神で御座るぞ、ムの神ぞ、ウの神ぞ、元のままの肉体持ちて御座る御神様ぞ、つちのひつ九のおん神様ぞ、つちの ローレンツ力と ○ ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用 (ひつき)の御神様と今度は御一体となりなされて、今度の仕組 見事成就なされるので御座るぞ、判りたか、九二つちの神 大切申せとくどう知らしてあろがな、今迄の臣民人民、九二の御先祖の神おろそかにしてゐるぞと申して知らしてあらう、神は千に返るぞ、九二つちつくること何んなに難儀な事か人民には判るまいなれど、今度さらつの世にするには人民もその型の型の型位の難儀せなならんのざぞ。 それでよう堪(こば)れん臣民 沢山にあるのざぞ、元の神の思ひの何万分の一かの思ひせんならんのざぞ、今度 世変りたら、臣民 此の世の神となるのざぞ。
国の洗濯はまだまだ楽であるが、ミタマの洗濯 中々に難しいぞ、人民 可哀想なから延ばしに延ばして御座るのざぞ、幾ら言ひ聞かしても後戻り許りぢゃ、言ひ聞かして改心出来ねば改心する様致すより もう手ない様になってゐるのざ。何時どんな事あっても神は知らんぞ、上から下までも誰によらん今迄の様な我儘させんぞ、役員 馬鹿にならなならんぞ、大のつく阿呆になれよ、 
さかさまの大 雨の巻第七帖 のつく阿呆にあやまって呉れるなよ、阿呆でないと今度の誠の御用なかなかざぞ。 命捨てて命に生きる時と申してあろがな、非常の利巧な臣民人民アフンで御座るぞ、今にキリキリ舞するのが目に見へんのか。 何時も変らぬ松心でおれと申して御座ろがな、建替へ致したら世界は一たん寂しくなるぞ、神が物申して居る内に改心せなならんぞ、後悔間に合はんと申してあろがな。
十一月二十三日、ひつ九のかミ。

 冒頭の文。
“神の心の判りた臣民から助ける御用にかかりて呉れよ、助ける御用とは清めの御用で御座るぞ、天地よく見て悟りて呉れよ。三四五(みよいづ)の御用は出来上がりてしまはんと御用してゐる臣民にはさっぱり判らんのであるぞ、つかわれてゐるから判らんのであるぞ、出来上がりてから これは何んとした結構な事でありたかとビックリするのざぞ”

 まず述べておきたいこととして“神の心の判りた臣民”という言われ方に何を感じ(感じる磁性)るのか、である。
 これはいわゆる相対的な言い回しであり、たった今ほとんどの人間が“神の心”に対して何も判っていない、人間と神の関係について理解が足らないから、自らがその霊的成長度における事象の観察=“天地よく見て悟りて呉れ”をしても、自分はどう在るべきか、どう行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)すべきか、が、判らない、その“判りた臣民”ではない心(靈)は低いのであり、またそれは大概の人間が“役員づら”に刷り込まれた薄っぺらく甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)神の概念しか持ちえないからこそ、あえてこういう言われ方をされているのだと気付くべき。

 これに続く
“助ける御用にかかりて呉れよ、助ける御用とは清めの御用で御座るぞ、天地よく見て悟りて呉れよ”
この“助ける”に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)解釈や、賽銭と引き換えに御利益や天の僥倖をもらうなどの思いを持つ人が多いだろうが、そうではなく、神と人間の関係をしっかり理解した人(自省(胸の磁性“十”)して霊的成長をした人)ならば、今後=アセンション後に移行する際の資質を人に伝えることが出来得る、霊的成長とは何か、を伝えることが出来得る、それは結果としてアセンションに伴う醜い事象に巻き込まれない人を増やす結果になるから“助ける御用”であり、またそれは恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちたたった今の事象、その悪しき状態からの逸脱という結果に成りうるので“清めの御用で御座る”と称されていると思え、それが“神の心の判りた臣民”の“御用”であるといい得る。

 これに続く
“三四五(みよいづ)の御用は出来上がりてしまはんと御用してゐる臣民にはさっぱり判らんのであるぞ、つかわれてゐるから判らんのであるぞ、出来上がりてから これは何んとした結構な事でありたかとビックリするのざぞ”
この“三四五(みよいづ)”は幾たびか登場している表記で“三”は“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラ、“四”は息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、“五”は糸巻の象形文字で、進化した生命の神経が密になっている様を指す、要は進化を果たした心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”が“三四五(みよいづ)の御用”であるし、そこには“一”=智性=1番目のオーラ、これによる“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応があってこそ“三”の表記が当てはまるものである。
 そしてそれは“出来上がりてしまはんと御用してゐる臣民にはさっぱり判らん”、これは“一”=智性=1番目のオーラがしっかり発現し強化されたうえで、“上”と感応してその上でさまざまな事象を観る、事象の成り立ちを観る、事象の成り立ちは自分たちの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によるものであることを悟る、そして育った自分の心(靈)を観る、自分の心(靈)の動きを観る、これをして初めて判るものであるの意であるし、“つかわれてゐるから判らんのであるぞ、出来上がりてから これは何んとした結構な事でありたかとビックリするのざぞ”の“つかわれてゐる”は“上”の憑依と感応により行動をする、行動は、現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現だが、その思惑は、“上”の通信を受けながら、であるので、自分の思惑だけではなく、常に“上”と感応する人間は、“善(神格化の方向性と智性の受信)”を成していく。
 その状態において、自分は“上”ではない、神そのものではない、通信を受けて事象に“上”の思惑を顕現しているからこそ“つかわれてゐる”のであり、自分が“上”と同等の霊的成長度に至ったならば

“出来上がりてから これは何んとした結構な事でありたかとビックリするのざぞ”
これは“上”の思惑の周到さ、“上”が“下”(低い心(靈))を育てる心(靈)を育てるための心の動き、そして実際の感応、その感応により遭遇させる現津(あきつ)、観察され得る事象、そこにおいて、その“下”である人間を慮る(おもんぱかる)気持ち、“慈悲”と“慈愛”、などを実感する、の意味合いであると思える。

 次の文。
“アメのひつ九のか三とはアメの一二の神で御座るぞ、アメの 
ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用ローレンツ力と ○  (つきひ)の神で御座るぞ、元神で御座るぞ、ムの神ぞ、ウの神ぞ、元のままの肉体持ちて御座る御神様ぞ、つちのひつ九のおん神様ぞ、つちのローレンツ力と ○ ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用 (ひつき)の御神様と今度は御一体となりなされて、今度の仕組 見事成就なされるので御座るぞ、判りたか”

 文中の“アメのひつ九のか三”は、
“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす
“メ”は、ムシ出された生命の芽 吾が心は目 その目に止まりてすべてのものはそれ現津するにあれ(“観察と認識”のこと)
“ひつ九”は、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことと、○ 九 十の“九”、生命の最終段階の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、これは目上(めうえ)の脳の進化、“一”=智性=1番目のオーラの発振、発信部位、この二つの意味合いを含んだ言い回し、そして丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”、智性、1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で構成されているのが“九”でもある。
“か三”は、神、神格化、そして“一二三”のオーラを含んだ言いまわし。
次の“アメの一二の神”は、
“アメ”は先に述べたので割愛、
“一二の神”は、“一”=智性=1番目のオーラが発現した肉体(月(ツキ))(“二”)、これは神格化である、あるいは神格化のステップであるの意。
次の“アメの 
ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用ローレンツ力と ○  (つきひ)の神”は、
が肉体(月(ツキ))、〇とローレンツ力
ローレンツ力 は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の具体的な仕組み、それは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意をローレンツ力ローレンツ力 で止め(“日止、霊止”の表記の意味合い)、肉体(左右のコンデンサー、人間は進化した左右相称動物)に溜め、それを回転させて心(靈)を構成するの意、これに前述した“アメ”の意が加味されるので、天意を受け、止め(“日止、霊止”の意)、結果として天意を顕現し、事象を“創造”する進化しうる肉体を持った心(靈)と解することが出来得る。
 これに続く“元神で御座るぞ”の“元”は、“二”は肉体(月(ツキ))、儿部(じんぶ、にんにょう)は時間の進行(人があるく様を象る)、これは肉体(月(ツキ))を伴った進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であるの意。
 次の“ムの神ぞ、ウの神ぞ、元のままの肉体持ちて御座る御神様ぞ”は、
“ム”は、生命は自ら多岐に分かれ、ムシ出すチカラこもれる(篭る)ヒ(靈)のチカラを…中略…次々に異なれる生命生まれ出る理(ことわり)
“ウ”は、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するもの
なので、生命の多様性と、生命が進化したならさらに新たな次の生命が生まれるの意、そして“元のままの肉体持ちて御座る御神様”“つちのひつ九のおん神様ぞ”は、肉体を持ち進化を果たすべく“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをしていく人間のことを指し、文中の“つちのひつ九”の“つち”に関しては、ひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記で人間目線の表記だが、その意は、
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意
“チ”は、まず“タ”の行が、命が現れ立つ、建く高く成長する音義の意があり、“チ”はチカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意)
なので、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを止めて集約し(“ツ”)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たして事象の“創造”をする(“チ”)、これそのものが“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、そして“ひつ九”、太陽凝視を行い生命の最終段階になる、それは前述した“○ 九 十”の“九”=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”、智性、1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であるとの解釈が成り立つ。
 これに続く
“つちの
ローレンツ力と ○ ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用(ひつき)の御神様と今度は御一体となりなされて、今度の仕組 見事成就なされるので御座るぞ、判りたか”
“つち”に関しては前述したので割愛、“
ローレンツ力と ○ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用(ひつき)の御神様”は、先の“アメの ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用 ローレンツ力と ○ (つきひ)の神”と、表記が違うが、その意は先に述べたことと重複するが“アメの ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用ローレンツ力と ○  (つきひ)の神”は、天意を顕現し、事象を“創造”する進化しうる肉体を持った心(靈)、これに対し“つちのローレンツ力と ○  ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用 (ひつき)の御神様”は、天意を集約させ(“つち”)、それを肉体(月(ツキ))のローレンツ力ローレンツ力 で止めさせ、肉体(月(ツキ))に顕現させ得る意志を持つ“上”と解することが出来、その“上”と一体になる、しっかり感応して通信を受け自らの認識(悟り、幸取=さとり)とすること事態を“今度は御一体となりなされて、今度の仕組 見事成就なされるので御座るぞ、判りたか”、これが“今度の仕組”=今後、アセンション後の事象、あるいはそれに移行する際のおける霊的成長の仕組みであると解することが出来る。

 ここまでのことを承知した上で(“今度の仕組 見事成就なされるので御座るぞ、判りたか”)、次のように述べられている。
“九二つちの神 大切申せとくどう知らしてあろがな、今迄の臣民人民、九二の御先祖の神おろそかにしてゐるぞと申して知らしてあらう、神は千に返るぞ、九二つちつくること何んなに難儀な事か人民には判るまいなれど、今度さらつの世にするには人民もその型の型の型位の難儀せなならんのざぞ。 それでよう堪(こば)れん臣民 沢山にあるのざぞ、元の神の思ひの何万分の一かの思ひせんならんのざぞ、今度 世変りたら、臣民 此の世の神となるのざぞ”

 文中の“九二つちの神”“九二の御先祖”“九二つちつくること”の“九二”は、前述したが“九”は“○ 九 十”の“九”、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”、智性、1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、生命(生きる使命=存在理由)の最終段階、の意、そして“二”は肉体(月(ツキ))の意、“つち”は、天意を集約して止め進化して事象の“創造”をする意。
 これを踏まえていれば“九二つちの神 大切申せとくどう知らしてあろがな、今迄の臣民人民、九二の御先祖の神おろそかにしてゐるぞと申して知らしてあらう”、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のことを全く理解していない、解っていない、進化した“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)=“九二の御先祖の神”のことも解っていない、換言すれば生命の存在意義が、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であることを全く理解していない、の意を述べていることが判るものである。
 これに続く“神は千に返るぞ”、これは神格化の必須要綱、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と胸の磁性“十”、これが合わさった表記が“千”であり、生命の神格化=“神は”“返るぞ”、生命の存在の意義を果たすこと、それが“千”で表されている。
 これに続く
“九二つちつくること何んなに難儀な事か人民には判るまいなれど、今度さらつの世にするには人民もその型の型の型位の難儀せなならんのざぞ。 それでよう堪(こば)れん臣民 沢山にあるのざぞ、元の神の思ひの何万分の一かの思ひせんならんのざぞ、今度 世変りたら、臣民 此の世の神となるのざぞ”
この“九二つちつくる”は肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)の進化そのものであり、大概の人間にはそれが解っていないから“何んなに難儀な事か人民には判るまい”であり、これに続く“今度さらつの世にするには人民もその型の型の型位の難儀せなならんのざぞ”の“さらつ”は、“さら”が、 全く新しいこと、まだ全然使っていないこと、あるいはその様子、ひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記の“つ”は、
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意
なので、進化した生命が新しい事象を創るの意であることが出来るのだが、それを“人民もその型の型の型位の難儀せなならん”、“日月神示”では“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、心(靈)の在り方として“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、いわゆる自省(胸の磁性“十”)の“行”、これを“その型の型の型位”と称され、いわゆる次の事象に移行する際の最低の条件、最低の必須要綱として、という言い回しである。
 ちなみに“さらつ”の言霊は、
“サ”の行は、栄え発展する生命の音根
“ラ”は、生命発生の初音(ウネ) 物の根の意
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意
である。
 これに続く“それでよう堪(こば)れん臣民 沢山にあるのざぞ、元の神の思ひの何万分の一かの思ひせんならんのざぞ”、これは先の“その型の型の型位の難儀せなならん”にかかる言い回し。
これに続く“今度 世変りたら、臣民 此の世の神となるのざぞ”、進化した生命は、次の事象を“創造”する、天意を“つち”とし、“九二”とするのでそれは現人神ともいえ、“天詞様”でもあり、要は“一”=智性=1番目のオーラが大きくなり、天意と感応する、これが生命の最終の段階、“○ 九 十”の“九”である。

 次の文。
“国の洗濯はまだまだ楽であるが、ミタマの洗濯 中々に難しいぞ、人民 可哀想なから延ばしに延ばして御座るのざぞ、幾ら言ひ聞かしても後戻り許りぢゃ、言ひ聞かして改心出来ねば改心する様致すより もう手ない様になってゐるのざ。 何時どんな事あっても神は知らんぞ、上から下までも誰によらん今迄の様な我儘させんぞ、役員 馬鹿にならなならんぞ、大のつく阿呆になれよ、
さかさまの大 雨の巻第七帖 のつく阿呆にあやまって呉れるなよ、阿呆でないと今度の誠の御用なかなかざぞ。 命捨てて命に生きる時と申してあろがな、非常の利巧な臣民人民アフンで御座るぞ、今にキリキリ舞するのが目に見へんのか。 何時も変らぬ松心でおれと申して御座ろがな、建替へ致したら世界は一たん寂しくなるぞ、神が物申して居る内に改心せなならんぞ、後悔間に合はんと申してあろがな”

 冒頭の“国の洗濯はまだまだ楽”、これは国土のことと思え、それに相対し“ミタマの洗濯 中々に難しい”、人間はなかなか変わらない、低い人間ほど変わらない、“上”が何を伝え進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を望んだとしても、伝わりにくい、程度の低い人間ほど認識(悟り、幸取=さとり)が変わらない、程度の低い価値観や既成概念で“日月神示”を読む、あるいは利用する、などの意味合いを“幾ら言ひ聞かしても後戻り許りぢゃ”と称されているが、“上”は認識(悟り、幸取=さとり)の変容を待ち望んでいる=“人民 可哀想なから延ばしに延ばして御座る”とも言われ、しかし、時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、が迫っているからこそ
“言ひ聞かして改心出来ねば改心する様致すより もう手ない様になってゐるのざ。 何時どんな事あっても神は知らんぞ、上から下までも誰によらん今迄の様な我儘させんぞ”
とも言われている。
 ちなみに文中の“ミタマ”の言霊は、
“ミ”は生命の幹 その現実
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根
本来、生命(生きる使命=存在理由)=肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)は、この“ミタマ”の意の通りでなければならないが、それを“洗濯”と称するまでに穢れきっており、生きることの意味、生命の意義、など、考えたことも無い人間ばかりになっているので、“ミタマの洗濯 中々に難しい”と称されているのだと気付くべき。
 これに続く、
“役員 馬鹿にならなならんぞ、大のつく阿呆になれよ、 
さかさまの大 雨の巻第七帖 のつく阿呆にあやまって呉れるなよ、阿呆でないと今度の誠の御用なかなかざぞ”
この“大のつく阿呆になれ”そして“ 
さかさまの大 雨の巻第七帖 のつく阿呆にあやまって呉れるな”、さかさまの大である“ さかさまの大 雨の巻第七帖 ”、これと同様の表記は第五帖の“王(おー)の世がさかさまのおー雨の巻第五帖 (さかさまのおー)の世になって居るのを今度は元に戻すのである”があり、このさかさまの“さかさまの大 雨の巻第七帖  ”も、“大”の本来の意味合い、人間が手足を伸ばした様、あるいはこれを書いている○○○大先生的な解釈なら、胸の磁性“十”と、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記と解することが出来るが、その真逆の意であり、これを踏まえて“大のつく阿呆になれ”を観るならば、この言い方では意味が伝わりにくいが人間本来の姿、それは前述した生命の本来の在り方、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すべく存在が生命、よって生命の存在の意義を全うせよ、それが真の使命、であるの意と解することが出来、それに対し“  さかさまの大 雨の巻第七帖 のつく阿呆にあやまって呉れるな”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を見失っている、あるいは進化に対して認識がない程度の低い存在&人間に対し、“あやまって呉れるな”であり、文中の“阿呆”は、恭順になれ、の意であると解し、その意において“阿呆でないと今度の誠の御用なかなかざぞ”、これを読むならば、何に対し恭順であるべきか、“上”か“下”か、の意味合いであることが理解できる。

 これに続く次の文。
“命捨てて命に生きる時と申してあろがな、非常の利巧な臣民人民アフンで御座るぞ、今にキリキリ舞するのが目に見へんのか。 何時も変らぬ松心でおれと申して御座ろがな、建替へ致したら世界は一たん寂しくなるぞ、神が物申して居る内に改心せなならんぞ、後悔間に合はんと申してあろがな”

 生命の本来の在り方、その存在の意義を全うすることは先の“難儀”であり、命がけであるからこそ“命捨てて”と称され、その時がもう近いので“命に生きる時”、生命の意義、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を意識してまっとうせよ、それが次の事象であるの意だが、たった今、“利巧”に生きている“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対し、“非常の利巧な臣民人民アフンで御座るぞ、今にキリキリ舞するのが目に見へんのか”と言われている。
 ちなみに“アフン”の言霊は、
“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす
“フ”は、ヒにより生まれし生命を更に太り栄えせしむる理(ことわり) 呼吸力、気吹(いぶき、息吹)、光線界が原素界へと進む
“ン”は、終わり、終焉、終わっている、最終段階、あるいは、これ以上先に進まないの意
なので、“ア”“フ”がこれ以上先に進まない、と解することが出来る。
 これに続く“何時も変らぬ松心でおれと申して御座ろがな、建替へ致したら世界は一たん寂しくなるぞ、神が物申して居る内に改心せなならんぞ、後悔間に合はんと申してあろがな”
この“何時も変らぬ松心”の“松”は松の巻の〇つ(これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈))の意、要は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指せの意であり、“建替へ致したら世界は一たん寂しくなる”、これはたった今の地球の人口からすればごく少数、そしてこれまでの価値観や幸福感や一般常識や既成概念は通用しなくなるの意であるし、“神が物申して居る内に改心せなならんぞ、後悔間に合はんと申してあろがな”“上”が人間の進化のため、こういった形で文言を残す、これは“日月神示”に限らず様々なものがあるが、これに留意し、意味を読み取り、真摯に受け止め、自分の在り方を観て自省(胸の磁性“十”)し、自らの認識(悟り、幸取=さとり)の糧として、たった今の自分をよく観よ、“自分を観察する自分の確立”をせよ、の意味合いである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
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