“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 風の巻 第九帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、風の巻 第九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

土地分け盗りばかりか、天まで分け盗って自分のものと、威張ってゐるが、人民の物一つもないのぢゃ。 大引上げにならんうちに捧げた臣民 結構ぞ。 
宮の跡は S となるぞ。ナルトとなるぞ。 天の言答(一八十)は開いてあるぞ。 地の言答(一八十)、人民 開かなならんぞ、人民の心次第で何時でも開けるのざぞ。 泥の海になると、人民思ふところまで一時は落ち込むのぢゃぞ、覚悟はよいか。 神国には神国の宝、神国の臣民の手で、元の所へ納めなならんのざ。 タマなくなってゐると申してあらうがな。 何事も時節到来致してゐるのざぞ、真理(ふじ)晴れるばかりの御代となってゐるのぢゃぞ。 
人民 神に仕へて下さらんと神のまことの力出ないぞ、持ちつ持たれつと申してあらうがな、神まつらずに何事も出来んぞ、まつらいでするのが我よしぞ、天狗の鼻ざぞ。 まつらいでは真暗ぞ、真暗の道で、道開けんぞ。 神は光ぞと申してあらうが、てん詞(し)様よくなれば、皆よくなるのざぞ。 てん詞(し)様よくならんうちは、誰によらん、よくなりはせんぞ、この位のことなぜにわからんのぢゃ、よくなったと見えたら、それは悪の守護となったのぢゃ。
神がかりよくないぞ、やめて下されよ、迷ふ臣民出来るぞ。 程々にせよと申してあらうが。皆々心の鏡掃除すれば、それぞれに神かかるのぢゃ。 肉体心で知る事は皆粕(カス)ばかり、迷ひの種ばかりぢゃぞ、この道理判りたであらうがな、くどう申さすでないぞ。
二月の十六日、ひつ九の
ローレンツ力と ○   。

 冒頭の文。
“土地分け盗りばかりか、天まで分け盗って自分のものと、威張ってゐるが、人民の物一つもないのぢゃ。 大引上げにならんうちに捧げた臣民 結構ぞ”

 これは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の認識をたしなめた言い回し。 こういった霊的成長度の低い人間は利用できるものは何でも利用して自分の利益とする、それを“土地分け盗りばかりか、天まで分け盗って自分のものと、威張ってゐる”と称され、“土地分け盗り”というのは縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)でもあり、具体的には不動産などこれに相当するし、ことにこの文の“天まで分け盗って”というのは、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち、それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)の行いを指摘しており、人間の在り方と霊的成長を説かねばならぬはずの宗教、宗教の開祖に“上”、文中の“天”、これが感応して教えを垂れた、これも“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の采配であり、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものが神の思惑であるがゆえのことだが、程度の低い人間はその文言を自分たちの都合に合わせ利用して、形骸の権威を示し金を儲け、教えそのものを捻じ曲げているものである。
 だが、人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のために一切の事象は存在している。
それはこの文の“土地”“天”、これは人間の認識の“下”の物(物質)であろうが天の教えであろうが、すべて自分たちの進化のためにあることを認識し、自分たち、すべての生命の進化のために使うべきでもあるし、進化した人間はすべての存在の幸福を願うものであるが、“自分のものと、威張ってゐるが、人民の物一つもない”、霊的成長度の低い人間が利用して自分の利益にする“土地”“天”ではなく、すべての存在のためにあることを認識(悟り、幸取=さとり)とせよ、自分が観察している事象すべてが自分たちの進化のためにあることを理解せよ、で、あるし、それに相対し、自分たちの利益のために何でも利用するのは、てんで低い心(靈)であることが判るものである。 
よって“大引上げにならんうちに捧げた臣民 結構”、文中の“大引上げ”は、霊的に“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”より高い者だけより分ける、いわゆるアセンションのことで、“捧げた”は、先に述べた“土地”“天”、これが自分たちの進化のためにあることを認識したならば、一切の執着を捨て去ることが出来、執着そのものが自我の肥大によることなのだ、それは自分の中の低い心(靈)の動きであり、醜い心(靈)なのだ、ということを自分で判るので、言われていることである。

 次の文。
“宮の跡は S となるぞ。ナルトとなるぞ。 天の言答(一八十)は開いてあるぞ。 地の言答(一八十)、人民 開かなならんぞ、人民の心次第で何時でも開けるのざぞ。 泥の海になると、人民思ふところまで一時は落ち込むのぢゃぞ、覚悟はよいか。 神国には神国の宝、神国の臣民の手で、元の所へ納めなならんのざ。 タマなくなってゐると申してあらうがな。 何事も時節到来致してゐるのざぞ、真理(ふじ)晴れるばかりの御代となってゐるのぢゃぞ”

 冒頭の“宮の跡は S となるぞ。ナルトとなるぞ”、この“S”の表記は“日月神示”内で、雨の巻 第九帖とこの風の巻 第九帖にしか登場しない。 この“S”を考えると、“宮”は宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”、“呂”は、頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている、なので、やはり人間が進化した様であり、その“跡”が“S”“ナルト”に“なるぞ”、たった今はそうではないのだ、の意味合いであり、“ナルト”の言霊は、
“ナ”の行は、生命の殖え栄ひ進展の意含む
“ル”はチカラの止まり 物の流れ 走る を表す音根 この音根を綴る言霊こそ悉にその終わり又は止まりを示す あるいは霊流凝
“ト”は、止まると云う心
なので、進化した生命(“ナ”)が“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めて(“ト”)、自らの心(靈)となして(“霊流凝”)、その上で事象を“創造”する(“ル”)の意であり、“S”にその意があることを鑑みて思いついたのは、これは“乙”を反対から観た表記であると思える。
 ちなみに“乙”については○○○大先生が未刊行の著書の<7>で、
乚部(いんぶ)は“乙”で草木が屈曲しながら芽を出すことの象形、それが文字の旁(つくり)の位置に置かれたとき“乙”は乚部(いんぶ)になる。
この“乙”は、向かって左から右に筆を動かし、右から左下に動いて、再び左から右に動いて最後は上にはねる。
左→右、そして右から左下、そして左から右…そしてはねる。これは左往右往して現象化して左往右往する形で、はねるのは“上”に向かう意。
それは、右往左往して“天の御目”を自分の心(靈)の中に持つということであり、これ自体が人の思惑の顕現であり、良い形の事象の“創造”を示す。
と意味を述べた。
 乚部(いんぶ)は人の思惑の顕現であり、この乚部自体は人間目線の表記、それに対し“創造”の“主(ヌシ)”は人間の対面に位置しているから左右が逆になる、よって“S”の表記は、“創造”の“主(ヌシ)”が人間に、人間自体の思惑を顕現させようとする、それ自体が被造物である人間にとっての“神宝(かんだから)”の意味合いであると解釈する。
 それでよい機会であったので、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、人という字を構成するその部首の意味を画像にしたので以下に貼っておく。


人(丿部と乚部)の解字 


 これに続く“天の言答(一八十)は開いてあるぞ。 地の言答(一八十)、人民 開かなならんぞ、人民の心次第で何時でも開けるのざぞ”の“言答(一八十)”、この“言”は事象への発振、発信、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、“答”は自らの息吹による事象の“創造”、現実と自分が観察していることは、すべて自分の心(靈)の動きによることであるの意。 それで“(一八十)”は、“一”=智性=1番目のオーラ、“八”は丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、それと“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、いわゆる極性、“十”は胸の磁性“十”、自我より“上”の“慈悲”と“慈愛”の心(靈)、これも先の“ナルト”と同様、進化した心(靈)を指し示す表記であり、よって“天”=“上”に相対して、お前たちもそうなれよ、の意味合いで“地の言答(一八十)、人民 開かなならん”それは自分の心(靈)の在り方によること、自分の心(靈)の中の“上”と“下”を見出す作業が自省(胸の磁性“十”)の一つでもあるが、それによることなので“人民の心次第で何時でも開ける”と称されている。
 これに続く“泥の海になると、人民思ふところまで一時は落ち込むのぢゃぞ、覚悟はよいか”の“泥の海”は、たった今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による腐った事象のことでもあろうが、“泥”は“石”(帯電するミネラル)が固まっていないさまであり、“石”(帯電するミネラル)が固まって“上”からの振動と感応して智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を獲得していくのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であることからすれば、今の人間は“泥の海”状態であり、その霊的成長度の息吹による事象の“創造”は“人民思ふところまで一時は落ち込むのぢゃ”、落ちるところまで落ちるの意味合いであり、これに続く“神国には神国の宝、神国の臣民の手で、元の所へ納めなならんのざ”の“神国”は智性(神性)を獲得した“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)であり、先の“ナルト”“一八十”と同義であると思え、その智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持った心(靈)ならば、“神国の宝、神国の臣民の手で、元の所へ納めなならん”、この文中の“元”は、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、この“元”でもあるし、“元”の字そのものが肉体を示す“二”と時間の進行を示す儿部(じんぶ、にんにょう)で構成されているものであるので、今後=アセンション後の時期が到来するまでに“元の所へ納めなならん”=ある程度の進化を果たしておけ、それは“神国の臣民の手で”、進化した心(靈)によって、という意味合いである。
 これに続く“タマなくなってゐると申してあらうがな。 何事も時節到来致してゐるのざぞ、真理(ふじ)晴れるばかりの御代となってゐるのぢゃぞ”の“タマ”は
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、まこと神のマ(真固止)
なので、“タマなくなってゐると申してあらう”は、お前たちは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を見出していない、進化に沿って時間の進行を歩んでいない、これは“タ”ではないし、神の思惑の顕現が生命(生きる使命=存在理由)であり、それがこの世界(現界)における、肉体と心(靈)を持って顕現している人間(有形生命)であり、生命(生きる使命=存在理由)だからこそ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿って生きるべき、それが“マ”なのだが、この二つの意味合いから外れているのだ、だが霊的成長度の高低における区分け=“何事も時節到来致してゐる”ので、程度の低い人間、“タマ”から外れている人間は次の段階に移行しない、だから“タマ”の意味をよく認識して“真理(ふじ)晴れるばかりの御代となってゐるのぢゃ”に間に合うようにしろよ、と言われているし、これはたった今が“真理(ふじ)晴れる”ではない、真、真実=真固止、“ほんとう”のこと、に対する認識は低く、人対人でも誠がない、不誠実、であるから言われていることである。

 次の文。
“人民 神に仕へて下さらんと神のまことの力出ないぞ、持ちつ持たれつと申してあらうがな、神まつらずに何事も出来んぞ、まつらいでするのが我よしぞ、天狗の鼻ざぞ。 まつらいでは真暗ぞ、真暗の道で、道開けんぞ。 神は光ぞと申してあらうが、てん詞(し)様よくなれば、皆よくなるのざぞ。 てん詞(し)様よくならんうちは、誰によらん、よくなりはせんぞ、この位のことなぜにわからんのぢゃ、よくなったと見えたら、それは悪の守護となったのぢゃ”

 この文自体は“上”との感応を述べている、それは“神に仕へて下さらんと神のまことの力出ない”、“上”と感応していないからたった今の事象は“神のまことの力”で“創造”されていないので、“上”との感応と人間が人間に対し誠実にふるまう、いわゆる“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の感応ではなく、常に“上”と感応せよ、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応する自分の心(靈)の“下”を自戒せよ、であり、ここまでの意味合いが“持ちつ持たれつと申してあらうがな”=人間たい人間の誠実さ、“神まつらずに何事も出来んぞ”=“上”と感応していない事象の“創造”はではダメ、“まつらいでするのが我よしぞ”=“上”と感応していないのは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であると称され、その程度の低い心(靈)の慢心、低い功名心と自尊心傲慢な心(靈)になるので“天狗の鼻ざぞ。 まつらいでは真暗ぞ、真暗の道で、道開けんぞ”と称されているものである。 
これに続く“神は光ぞと申してあらうが、てん詞(し)様よくなれば、皆よくなるのざぞ。 てん詞(し)様よくならんうちは、誰によらん、よくなりはせんぞ、この位のことなぜにわからんのぢゃ、よくなったと見えたら、それは悪の守護となったのぢゃ”、これに 関しては、上つ巻 第二帖 “神のやり方は日の光、臣民ばかりでなく、草木も喜ぶやり方ぞ、日の光は神のこころ、稜威ぞ”、それと、地つ巻 第九帖 “神の光を着よ、み光をいただけよ、食べよ、神ほど結構なものないぞ、今の臣民 日をいただかぬから病になるのざぞ、神の子は日の子と申してあらうがな”を合わせて読むと理解しやすい、高い振動、高波長の振動を受ける、感じるならばそれは、光として認識しうるものであり、“上”からの振動の高い部分と感応するのが“てん詞(し)様”であり、それは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを述べている地つ巻 第九帖の“神の光を着よ、み光をいただけよ、食べよ”でもあるが、たった今の現状、霊的成長度の低い人間が大半のこの世界では、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応が盛んであり、“下”の思惑が顕現して醜い事象になっている、それは先の“泥の海になると、人民思ふところまで一時は落ち込むのぢゃ”でもあるし、大半の人間が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の価値観と幸福感しか持っていないので、その基準で“よくなったと見えたら”、これは“それは悪の守護となった”と称されてるものである。

 次の文。
“神がかりよくないぞ、やめて下されよ、迷ふ臣民出来るぞ。程々にせよと申してあらうが。 皆々心の鏡掃除すれば、それぞれに神かかるのぢゃ。 肉体心で知る事は皆粕(カス)ばかり、迷ひの種ばかりぢゃぞ、この道理判りたであらうがな、くどう申さすでないぞ”

 この文の前半“神がかりよくないぞ、やめて下されよ、迷ふ臣民出来るぞ。程々にせよと申してあらうが”は、現地球人のほとんどが自我の確立=固定化で、智性(神性)無き心であり、進化の過程が腹中心、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン、なので、霊媒体質に近いことを示している。
例えば、インチキ霊能力者や低級な霊能力者、あるいはチャネラーなどは、低い存在に憑依され、低い存在は人をだますので“神”を名のったりするし、こういった存在に心を乗っ取られることが多い。
また上記以外の人間でも自分にとって都合の良い考え方しかしないから悪魔のささやき=“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応をしているものである。 それを“迷ふ臣民出来るぞ。程々にせよ”と称され、これに対する比喩として、“皆々心の鏡掃除すれば、それぞれに神かかる”=自らが自らの低い心(靈)を諌める(“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”)、それは自分で自分をよく観察する=“鏡”、要は“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”“自分を観察する自分の確立”であるが、これ自体が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性であるから“上”が感応する、それが“心の鏡掃除すれば、それぞれに神かかる”の意味合い。
 これに続く“肉体心で知る事は皆粕(カス)ばかり、迷ひの種ばかりぢゃぞ、この道理判りたであらうがな、くどう申さすでないぞ”の“肉体心”は、現地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)を示し、それは自我以下の心(靈)が中心、本能、情動、功名心、自我、しか心が動いていないに等しい、いわゆる目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)でもあるが、それは“皆粕(カス)ばかり、迷ひの種ばかり”、いい加減進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性と“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出せよ、が“この道理判りたであらうがな、くどう申さすでない”である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

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