“日月神示” 地震の巻 第五帖 Kellyさん的解釈 “その二”
今回も、地震の巻 第五帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。
本質的には、善と真は有であり、悪と偽は影である。 故に、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。 影なるが故に悪は善に、偽は真に働き得ない。 悪の働きかけ得る真は、真実の真ではない。 悪は総てを自らつくり得、生み得るものと信じている。 善は総てが神から流れ来たり、自らは何ものをも、つくり得ぬものと信じている。 故に、悪には本来の力はなく、影にすぎない。 善は無限の力をうけるが故に、益々弥栄する。
今回取り上げた文言は、第一帖の“二義的”ということの意味が理解できていないと読み解けない(二義的 根本的でない 主眼の意義でないの意)。
それと、先回取り上げた第五帖の文言では、自分たちを含めた“一切万象”“全体”、それは“生命”事象の実相、であることを述べていたが。それを個々の心(靈)が“観察と認識”して“形式”“分類”としている、それが“二義的”である“善”と“悪”、“真”と“偽”であり、今回取り上げている文言では“有”と“影”という言い表わし方をしている。
これは個々の心(靈)の中における認識の問題ということと、もう一つ、“善”と“悪”、“真”と“偽”という“分類”と“形式”は“地上人”と“霊人”、いわゆる個の心(靈)を他者である個の心(靈)が“観察と認識”した際に観られ得る、認識とするものであるが、これを進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性、地震の巻の表記の“弥栄”を自分=個の心(靈)が理解し、進化の指標とせよ、という意味合いである。
これらのことを踏まえ本文の解釈に入る。
“本質的には、善と真は有であり、悪と偽は影である。 故に、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。 影なるが故に悪は善に、偽は真に働き得ない。 悪の働きかけ得る真は、真実の真ではない”
これは“二義的”なことではない、“本質的”という表記が使われていることに気付くべきであり、有るものとその影、影は、そこに有るものに“本質的”には“働き得ない”と言われているし、“本質的”に“有”と認識しうる対象は“善”“真”であるのだ、という言い回しである。
次の文。
“悪は総てを自らつくり得、生み得るものと信じている。 善は総てが神から流れ来たり、自らは何ものをも、つくり得ぬものと信じている”
冒頭の“悪は”“総てを自らつくり得、生み得る”“ものと信じている”、この“影”である“悪”を人格化させたような言い回しは、個の心(靈)の中に“分類”と“形式”として存在しうる“悪”であり、さらにそれは自我の特性を言っていると解する。
それは、自我という心(靈)の発現だけでは人間は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)しえないものであり、自我より“上”の心(靈)、自我を諌める“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”と智性(神性)と“力”としての知恵の行使の意味合いの智慧と創造、という要素が無ければならず、この要素が無いならば“悪は総てを自らつくり得、生み得るものと信じている”、これは“信じている”というよりも、思い込んでいる、という表記が妥当であると思えるが、これくらいのことは文章を読んで“ほんとう”を察する能力をお前たちが身に付けよ、という“上”の配慮(試し)だと解する。
少々蛇足だったが、これに続く“善は総てが神から流れ来たり、自らは何ものをも、つくり得ぬものと信じている”、これも個の心(靈)の中にある“善”、これは神が存在しうるが故の理(ことわり)であるという認識を個々の心(靈)が持っているからこう思うのだ、という言い回しであり、その認識自体に対して、実はそうではなく、“上”からの振動を取り込み進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すること事態が“善(神格化の方向性と智性の受信)”であるが、“善”事態は神が決めた理(ことわり)ということではなく、“善”を認識した個の心(靈)が“創造”し構築して顕現していくものなのだ、という意味合いの文言であると解する。
これに続く次の文。
“故に、悪には本来の力はなく、影にすぎない”
これは先の“本質的”そして“有”である“善”に相対した言い回し、“悪”には“本来の力はなく”、と称されているが、これは“悪”が“弥栄”し得ない、進化に結び付かない、“大歓喜”ではない、の意味合い。
これに続く次の文。
“善は無限の力をうけるが故に、益々弥栄する”
“善”は先に解した通り神の存在そのものではない、神の理(ことわり)でもない、神は振動を送り贈る(ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”)、それを“無限の”(“無限段階”の)(“弥栄”のための)“力”、これを“うけるが故”、これによってこの心(靈)の中の“善”は“益々弥栄”、益々進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するのだ、の意である。
今回はこれくらいにしときまんねん。