“日月神示” 地震の巻 第九帖 Kellyさん的解釈 “その四”
今回も、地震の巻 第九帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。
地上人のもつ想念の本は霊人そのものであり、霊人のもつ想念の本は神であり、神のもつ想念の本は大歓喜である。 故に、地上人は霊人によって総ての行為の本をなし、霊人は神により、神は大歓喜によりて総ての行為の本とする。 故に、地上人そのもののみの行為なるものはない。 何れも、神よりの内流による歓喜の現われであることを知らねばならぬ。
この文言は、“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”と、“地上人”と“霊人”と“神”という、それぞれを構成する振動の違い、“上”と“下”のことを述べている。
まず、“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”を示した文は“何れも、神よりの内流による歓喜の現われである”であり、これにより“神”→“霊人”→“地上人”という段階が構成され、これ事態が“創造”の“主(ヌシ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、そして、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”、の意味するところである。

少々余談になるが“地上人”(平均的地球人)の科学、知識と知恵の段階では電磁波の振動(振動数(Hz)と波長(長波から宇宙線に至るまで))に高低がある程度のことしか理解できていないものであるし、その粒子の立体的な運動や粒子の回転にまでは、想像が及んでいない、気が付いていない、それは“上”からの通信を受けていない=“上”と感応していない感がある。
話を戻し、当然のことながら“創造”の“主(ヌシ)”の息吹は超高振動であり、その振動の低振動化が生命と事象の“創造”になっているものであるし、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、これが第一帖の冒頭の表記の“われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある”の意味するところでもある。
この超高振動の低振動化による“創造”は、重複するが個々の生命、個の心(靈)となり、

そして個の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”を為して“弥栄”して“大歓喜”に近付く、これが個の心(靈)である生命(生きる使命=存在理由)であると換言出来得る。
今述べた“大歓喜”に近付くためには、個の心(靈)が“上”からの影響を受ける、その“上”“下”の構成が先に述べた“神”→“霊人”→“地上人”という段階であり、それぞれにおける“上”の息吹自体が、“下”に思惑を伝えるためなのであり、度々述べている“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)、これによる“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)を、常に生命(生きる使命=存在理由)である個の心(靈)は行っているものである。
それだからこそ、まず“地上人”と“霊人”の関係として“地上人のもつ想念”これは“想念の本は霊人そのもの”と称され、その“想念”は行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の元なので“地上人は霊人によって総ての行為の本をなし”と称されており、同じように“霊人”と“神”の関係として“霊人のもつ想念”これを“想念の本は神”そして“霊人は神により、神は大歓喜によりて総ての行為の本とする”と称され、さらに“神”、この字の意味合いは示す偏(へん)と“呂”、これは、頭と腹のエネルギーの回転を示す表記であり、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれており、これ事態が神は巨大人の構造をもつ、という意味合いを含んでおり、その“上”が“大歓喜”、不適切かもしれないが(確たる自信が無いということ、そこまでのことを口にするまでこれを書いている○○○大先生の心(靈)は育っていない、その資質を自分で認めていない)、これに当たるのは“創造”の“主(ヌシ)”の息吹であると思う。
この“上”“下”の関係があり、それはまた“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)という振動の法則性があるが故に“地上人”、平均的地球人の霊的成長度では、神の思惑と感応し得ない、いきなり理解できるはずもない、しかしいずれは理解して自分の認識(悟り、幸取=さとり)とする、それだからこそ“地上人”と“神”の間に“霊人”という段階があると言いうる。
また段階を経ての感応があるため“生前”“地上人”“死後”という“分類”と“形式”、輪廻転生があり個の心(靈)は育っていくものである。
この進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)において、どんなに“下”の霊的成長度の個の心(靈)であったとしても、どんなに下等な生物であったとしても、それは、“創造”の“主(ヌシ)”の息吹によるものであることが指摘でき、だからこそ“地上人”においては“何れも、神よりの内流による歓喜の現われであることを知らねばならぬ”のであり、お前たち“地上人”の神に対する認識の稚拙さを知れ、“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”に対する認識の無さを思い知れ、である。
前後するが“故に、地上人そのもののみの行為なるものはない”というのは、常に個の心(靈)はその“上”と感応して通信を受け、自分の心(靈)も動くが“上”の影響を受けているものであり、“上”と自分の心(靈)の動きにより息吹して行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)する、またその息吹そのものは事象の“創造”に繋がるものであることを知れ、ということである。
今回はこれくらいにしときまんねん。