“日月神示” 地震の巻 第十帖 Kellyさん的解釈 “その二”
今回も、地震の巻 第十帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。
生前と死後は同一線上におかれているが同一ではない。 地上には、物質的形式があり、霊界には霊的形式がある。 その形式は歓喜の交叉し、発する処によって自ら成るものである。 形式なくしては合一なく、力なく、形式あるが故にものが総てに合一し、弥栄し、力し、大弥栄するのである。 形式の中に和することは、その個々が、差別されているからである。 差別し、区分せられることは、その各々に、各々が共通する内質をもつからである。 共通性なきものは、差別し、区分することができない。 霊界と現実界との関係はかかるものであるが故に、常に相応し、力し、力を生じ、また常に、相通じて力を生みゆく。 これは、平面的頭脳では、中々に理解しがたいのであるが、この根本原理を体得、理解し得たならば、神、幽、現、三界に通じ、永遠に弥栄する大歓喜に住するのである。
今回の文言も先回同様、“地上人”の“観察と認識”という立場を前提に述べられている。
冒頭の文。
“生前と死後は同一線上におかれているが同一ではない”
まず“生前と死後は同一線上におかれている”というのは、お前たち“地上人”から観るならば“生前”であろうが“死後”であろうが、肉体を持たない霊ぐらいの認識しかないだろうが、そうではなく、輪廻転生、“地上人”が“死後”に移行して、平均的地球人の霊的成長度においては自省(胸の磁性“十”)の“行”をまっとうして心(靈)が育ち、そして“上”の許可を得たならば“生前の霊人”という過程に入っていき、さらに心(靈)が育ち、その後、“地上人”となる。 この“死後”の直後と“地上人”となり得る“生前の霊人”を比較するならば、心(靈)の育ち具合には程度の差がある。 よって“同一ではない”と称されている。
次の文。
“地上には、物質的形式があり、霊界には霊的形式がある。 その形式は歓喜の交叉し、発する処によって自ら成るものである”
これも“地上人”という立場において“地上”と“霊界”に対し“観察と認識”をして“形式”と認識しうるのであるということが述べられているが、“その形式”と観察しうる理由と根拠は、個々の心(靈)そのものに神に近付くという意味合いの“歓喜”があり、“歓喜”所以の“弥栄”を“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)としているからこそ、“地上”と“霊界”という個の心(靈)が位置する場(フィールド)を認識しうる。
また“地上”と“霊界”という場(フィールド)の違い、いわゆる“形式”は、一切の生命は神に近付く、個の心(靈)においては霊的成長を“道”(時間の進行)と“理(ミチ)”(法則性)に沿って、果たしていくものであるからこそ、個々の心(靈)の霊的成長の段階においてそこに位置するのであるから、“その形式は歓喜の交叉し、発する処によって自ら成る”と称され、これはそこに場(フィールド)が在るという意味合いではなく、個の心(靈)の中に現津(あきつ)、観察され得る事象として、地震の巻の表記を引用するなら“映像される”、心(靈)の中に事象は映っていると述べられており、これはこのブログ内で使った表記「霊的成長度の高低における事象の遭遇」に当たるものでもある。
次の文。
“形式なくしては合一なく、力なく、形式あるが故にものが総てに合一し、弥栄し、力し、大弥栄するのである。 形式の中に和することは、その個々が、差別されているからである。 差別し、区分せられることは、その各々に、各々が共通する内質をもつからである”
この文は文末の“各々が共通する内質をもつ”ということに対しての理解が無いと意味が読み解けない。
“共通する内質”というのは先の“歓喜”、神に近付くことそのものであり、その遠近、神から遠いか近いのか、その段階の差が霊的成長度であり、“個々が、差別されている”と“差別し、区分せられる”と称され、それは個の心(靈)を含んだ“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、には、この段階の差があるものである。
その差を個の心(靈)が認識するからこそお前たちは育つのだ、“弥栄”するのだ、そして神に近付くのだ、その前提として、神と自分の差を見出すのだ、また“形式”、先の“地上”と“霊界”という場(フィールド)の違いをお前たちが認識し、認識したうえで自分はどう育つべきか、を考えるならそれは、“その一”で取りあげた以下の文言どおりになる。
“霊、力、体の三つがよりよく調和する処に真実が生れ、生命する。 これは根元からの存在であり用であるが、動き弥栄する道程に於て、復霊、復力、復体の

これに対し以下のように解釈した。
“霊、力、体”これは、“霊”=心(靈)、“体”=肉体(月(ツキ))、物質、そして“善”と“悪”、これは“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”と解し、その“霊”と“体”そして“善”と“悪”、この相関関係において生じる“力”、これについて述べられているものであるし、この相関関係と“力”があって“三つがよりよく調和する処に”と前置きされたうえで“真実が生れ、生命する”と述べられ、逆から読めば“真実”と“生命”は、“霊”と“体”そして“善”と“悪”、この相関において派生する“力”、この“調和”が無ければ“真実”と“生命”ではない、ということである。
上記引用文内の“力”、それは“真実が生れ、生命する”と称されているが、そのために個の心(靈)各々が行う作業として“形式”=“地上”と“霊界”を認識して“形式あるが故にものが総てに合一”ということを思い、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)すること事態が“弥栄し、力し、大弥栄”であり、文言中の“大弥栄”は、さらなる成長と解するし、それがあってこそ“その一”の“復霊、復力、復体”ということにもなり得るのだ、ということを読み取るべきである。
次の文。
“共通性なきものは、差別し、区分することができない。 霊界と現実界との関係はかかるものであるが故に、常に相応し、力し、力を生じ、また常に、相通じて力を生みゆく”
冒頭の“共通性なきもの…以下略…”は先の文言の補足であり“霊界と現実界との関係はかかるものである”に関しても、“霊界”と“現実界”=“地上人”が現実と認識している“地上”、ということであり、“霊界と現実界との関係はかかるものであるが故に、常に相応し、力し、力を生じ、また常に、相通じて力を生みゆく”、これも個の心(靈)が認識しうる“差別”“区別”、これに“形式の中に和すること”において“故に、常に相応し、力し、力を生じ、また常に、相通じて力を生みゆく”と称されているものである。
次の文。
“これは、平面的頭脳では、中々に理解しがたいのであるが、この根本原理を体得、理解し得たならば、神、幽、現、三界に通じ、永遠に弥栄する大歓喜に住するのである”
この“平面的頭脳”はかなり揶揄(やゆ)した表記であり、お前たち“地上人”、平均的地球人の霊的成長度の心(靈)では、“その一”で取りあげたように“死後”も“生前”も“知得”してないから“中々に理解しがたいのである”、こういう言われ方をされており、これすら解らないからこそ、霊的成長度の高低とか、神に近付く意の“歓喜”とか“弥栄”とか、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、に、“各々が共通する内質”があるのだ、ということを“根本原理”と称して説明されているものである。
このことを理解したならば個の心(靈)である自分は“神、幽、現、三界に通じ”、すべての場(フィールド)に自分の在り方を見出す、それは神に近付くことであり霊的成長であることを理解する、その理解があるならば、個の心(靈)である自分は“永遠”の存在であり、自分自身そのものが神の一部であることも認識(悟り、幸取=さとり)していくからこそ“永遠に弥栄する大歓喜に住する”と称されているものであるが、“地上人”の霊的成長度では“平面的頭脳”でしかないことをよく知っておけよ、ということでもある。
今回はこれくらいにしときまんねん。