“日月神示” 地震の巻 第十三帖 Kellyさん的解釈 “その三”
今回も、地震の巻 第十三帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。
何故ならば、かかる下級霊と相通じ、感応し合う内的波調をもつ地上人は、それと同一線上にある空想家であり、極めて狭い世界のカラの中にしか住み得ぬ性をもち、他の世界を知らないからである。 それがため、感応してくる下級霊の感応を、全面的に信じ、唯一絶対の大神の御旨なるが如くに独断し、遂には、自身自らが神の代行者なり、と信ずるようになるからである。 所謂(いわゆる)、無き地獄をつくり出すからである。 地獄的下級霊の現われには、多くの奇跡的なものをふくむ。 奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現われであることを知らねばならない。 かかる奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない。 浄化し、改心し得ないものである。
今回取り上げる文言を一読して程度の低い憑依現象やカルト教団などの行いを思い出せるようなら、霊的成長度、程度の低い心(靈)は程度の低い功名心と自尊心由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をする、そしてその裏には本能由来の心(靈)の動き、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の心(靈)の動きがあり、それは程度が低い個の心(靈)である、ということに対しての理解は深いと言いうる。
それはたった今の地球人の霊的成長度、地震の巻の表記なら“地上人”のそれであるが、進化程度が低いからこそ“神の咎め”として文明は崩壊する、そしてそれは右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、その過程であることを○○○大先生は著書で述べている。
しかし“日月神示”はそういった程度の低い霊的成長度の個の心(靈)が育つための文章であり、お前たちのやっていることは程度が低いのだ、間違っているのだ、先回取り上げた文言
“下級霊人自身が


“下級霊人”と感応する心(靈)の動きは“下級”でしかなく、それは目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心であり、“役員づら”が宗教を形骸にしたのもカルト教団のインチキ教祖もこういった“下級”な心(靈)の動きしか持ちえず=霊的成長度がてんで低く、“慈悲”と“慈愛”とか、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”、そして自省(胸の磁性“十”)の心(靈)などがない、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)に関しては動物とほぼ同じ、といいうるからこそ、自分の利益のために宗教を利用したりはては人殺しまでしたりというバカげたことをして、それを神聖化するだの神格化するだのという極めて低劣な考え方を持っているという報道もあったが、こんな人間に対して、神に近付くとか、霊的成長した心(靈)とか、などということを説いてもおそらく全く通じない、それは“力”を示すことが神であり、“力”を示したなら独裁者となり、教祖を名のり自分の本能由来の欲望を満たす、そんな程度の認識しか持ちえないのが、大半の地球人が考えている程度の低い神の認識であることを○○○大先生は最近の“総括編”で述べて指摘している。
こういったことを示唆した文言が、
“かかる下級霊と相通じ、感応し合う内的波調をもつ地上人は、それと同一線上にある空想家であり、極めて狭い世界のカラの中にしか住み得ぬ性をもち、他の世界を知らないからである。 それがため、感応してくる下級霊の感応を、全面的に信じ、唯一絶対の大神の御旨なるが如くに独断し、遂には、自身自らが神の代行者なり、と信ずるようになるからである”
であり、文中の
“下級霊と相通じ、感応し合う内的波調をもつ地上人は、それと同一線上にある空想家であり、極めて狭い世界のカラの中にしか住み得ぬ性をもち”
これは、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)における“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)という法則性を示し、“下級”な心(靈)は“下級”な心(靈)としか感応し得ないし、その“下級”の程度は
“下級霊と相通じ、感応し合う内的波調をもつ地上人は、それと同一線上にある空想家であり、極めて狭い世界のカラの中にしか住み得ぬ性をもち、他の世界を知らないからである。 それがため、感応してくる下級霊の感応を、全面的に信じ、唯一絶対の大神の御旨なるが如くに独断し、遂には、自身自らが神の代行者なり、と信ずるようになる”
と称されており、こういった人間、“下級霊と相通じ、感応し合う内的波調をもつ地上人は、それと同一線上にある空想家”、こういう人間こそ神を言葉でしか知らない、“神の采配”や“神の咎め”、を知り得ない、そして“神の恩恵”に対し、ぼたもち坊ちゃん(ローム太霊講話集316頁)程度の思いしか持たないであろうし、自分が頑張った、神はそれをいつも見ている(天の御目(あめのおめ))、その頑張りにおける“正当な報酬”として、何かを授ける、“神の恩恵”はこういうことでないと得られない、などということは理解しえない、それは、
“下級霊と相通じ、感応し合う内的波調をもつ地上人”
は、神は“力”であるとか、独裁者になってもよいとかと思うからこそ
“下級霊と相通じ…中略…それと同一線上にある空想家”
であり、だからこそ、
“他の世界を知らない”
のであり、“下級霊”と同じ心(靈)をもつから=神に対しての認識が無いからこそ、
“感応してくる下級霊の感応を、全面的に信じ、唯一絶対の大神の御旨なるが如くに独断し、遂には、自身自らが神の代行者なり、と信ずるようになる”
と称され、重複するが、たった今の“役員づら”、そして最近死刑が断行されたカルト教団の代表などはまさにこれに当たり、これを観たなら、それらの批判ではなく、自分の心(靈)の中にもこういった低い心(靈)の動きがあるのだが、それを諌めるのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す人間であることをしっかり自覚しなければならない。
少々余談になったがこれに続く次の文。
“所謂(いわゆる)、無き地獄をつくり出すからである”
ここまでの地震の巻で、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、の“弥栄”ということで言えば“地獄”はないが、この文言では“下級”な心(靈)が、自分の心(靈)の中に“映像”され得る現津(あきつ)、観察され得る事象として“無き地獄をつくり出す”と称されており、これに関してはここまでの地震の巻の以下の文言辺りを読むと理解しやすい。
第二帖
“偽りの生活にあった霊人は、この状態に入った時は、地獄的暗黒に自分自身で向かうのである。 かくすることによって、生存時に於ける、あらゆる行為が清算されるのである。 この状態に入ったならば、悪的なものは益々悪的なものを発揮し、善的なものは善的な力を益々発揮する。 故に、同一の環境には住み得ないのである”
第五帖
“天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因である”
第六帖
“歓喜すればこそ、彼の霊人たちは太陽に背を向け、光を光と感得し得ずして、闇を光と感得していることを知らねばならぬ。 この霊人たちを邪霊と呼び、邪鬼と云い、かかる霊人の住む所を地獄なりと、多くの地上人は呼び、且つ感じ、考えるのである。 しかし、それは本質的には地獄でもなく、邪神、邪霊でもない。 霊界に於ては、思念の相違するものは同一の場所には存在しない。 何故ならば、思念による思念の世界につながる故である”
第七帖
“本来 悪はなく闇はなく、地獄なきことを徹底的に知らねばならない。 これは生前、生後、死後の区別なく、総てに通ずる歓喜である”
次の文。
“地獄的下級霊の現われには、多くの奇跡的なものをふくむ。 奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現われであることを知らねばならない。 かかる奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない。 浄化し、改心し得ないものである”
文中の“奇跡的”あるいは“奇跡”、これは“創造”の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に反したこと、それは甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢であったり、自分にとって都合の良い考えであったり、一切の事象は自分の心(靈)の動きと行いにおける“正当な報酬”ということに認識が無い人間の考えることであり、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、これは自分の個の心(靈)を含めて、すべてが神であり、その“弥栄”には“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)があるが、それを無視した考え、それは先の“下級霊と相通じ、感応し合う内的波調をもつ地上人は、それと同一線上にある空想家であり、極めて狭い世界のカラの中にしか住み得ぬ性をもち”であるからこそ、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)から外れているからこそ
“奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない”
のであり、その“下級”な個の心(靈)は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)が無いから
“浄化し、改心し得ない”
と称されている。 当たり前である。
今回はこれくらいにしときまんねん。