FC2ブログ

“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、46年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

Kellyさんが“日月神示”地震の巻の解釈を終えてから…感じた事。“その二十四”



 今回は第十四帖から“神律”を感じさせる文言を取り上げて解釈する。

 第十四帖には“状態の変化”という表記が幾度か登場する。 これは何を指す表記なのか、その結論から言えば“状態の変化”は“直接内流”の取り込みの変容に関わることであると言いうる。
 それだからこそ、一切の個の心(靈)、“創造”の“主(ヌシ)”から“創造”の“主(ヌシ)”以下の一切の個々の生命が“状態の変化”をなすものと“観察と認識”しうるものであり、それは重複するが“直接内流”の取り込みの変容に関わることであると言いうる。 

 また“状態の変化”という表記を使っていない第一帖の冒頭の以下の文言において、その意味と意義を指す述べ方をしているものである。
“われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。 一定不変の神もなければ、宇宙もない。 常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく。 過去もなければ、現在もなく、未来もない。 只存在するものが生れに生れつつある”

 この“生まれつづけている”“存在するものがうまれつつある”、そして“常に弥栄えつつ”であるがゆえに、個の心(靈)に“映像”され得る事象、そして“創造”の“主(ヌシ)”と“創造”の“主(ヌシ)”以下の一切の個の心(靈)、それ自体も“状態の変化”をしていくものである。
 これが“歓喜”であり、先の“弥栄えつつ”であり、それをまた個の心(靈)が言葉で分類したならば、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり“二義的”(根本とは相違する、根本から派生した何か)な事柄、であるといえるものでもある。

 また、“地上人”が知り得ない“霊界”と“霊人”の事情として、第十四帖の冒頭で
“霊界には、時間がない。 故に、霊人は時間ということを知らない。 其処には、霊的事物の連続とその弥栄があり、歓喜によって生命している。 即ち、時間はないが状態の変化はある。 故に、霊人たちは時間の考えはなく、永遠の概念をもっている。 この永遠とは、時間的なものは意味せず、永遠なる状態を意味するのである。 永遠と云うことは、時間より考えるものではなく、状態より考えるべきである”
こう述べられており、それはたった今の“地上人”が“霊界”と“霊人”に対して無知であるから
“霊界には、時間がない。 故に、霊人は時間ということを知らない。 其処には、霊的事物の連続とその弥栄があり、歓喜によって生命している”
これと
“霊人たちは時間の考えはなく、永遠の概念をもっている。 この永遠とは、時間的なものは意味せず、永遠なる状態を意味するのである”、
この“霊人”自体の“永遠”という認識について述べ、これに相対してお前たち“地上人”が考えなければならないこととして“永遠と云うことは、時間より考えるものではなく、状態より考えるべき”と述べられているものである。
それは例えば“地上人”の“永遠”の認識は、物質と時間の進行というものが主体になっているからこそ、永遠不滅、などと思うが、もともと“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、は、先の第一帖の“生まれつづけている”“存在するものがうまれつつある”であるから滅することなど無い。 しかしながら“地上人”の狭い認識の中においては、何かの終わり、みたいな認識があるものであるが、それは単に“地上人”の狭い認識にすぎず、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、には、終わりなどないのであり、その解り易い一例が“地上人”の認識の死であったりもする。 
しかし“死”も“状態の変化”の一端であり、またそれは一切の生命が“永遠”であることを知らないから、滅するとか終わりとか、それに相対する不滅とかの概念をもつのだろうが、恐らく進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした世界においては、この言葉すら大して意味をなさなくなるのではないか、その概念すら消失するのではないか、という私見をもつ。

  これに続く次の文では、“上”の思惑が“地上人”に届く様、その際に、“地上人”が受け取る“上”の思惑それそのものの“状態の変化”を説いている。
“故に、霊人が地上人に接し、地上人に語る時は、地上的固有的な一切をはなれて、状態とその変化による霊的なものによって語るのである。 しかし、この霊人の語る所を地上人がうけ入れる時は、対応の理により、それが固有的地上的なものと映像されてくるのである。 また、地上人に感応して語る時は、その霊媒の思念を霊人の思念として語るが故に、固有的表現となり、地上人にも十分に理解しうるのである”

 これは第十二帖の以下の文言の解釈を合わせて読むと理解しやすい。
“霊人が地上人に語る時は、その想念が同一線上に融和するが為である。 霊人が地上人に来る時は、その人の知る総てを知ることとなるのであるが、その語るのは霊人自身でなくて、霊人と和合して体的の自分に語るので、自分と自分が談話しているのである。 霊人は現実界と直接には接し得ない。 また地上人は霊界と直接には接し得ないのが原則である。 しかし、それぞれの仲介を通じていっても、直接行なうのと同様の結果となるのである。 為に地上人は直接なし得るものと考えるのである”
これに関しては、 変圧”の過程をいくつもいくつも重ねていく、それを“それぞれの仲介を通じ”と称され、結果としては“創造”の“主(ヌシ)”→自分と感応し得ない高い“霊人”→自分と感応しうる“霊人”→そして“地上人”である自分、という過程があるということを述べた。
 それを第十四帖のこの文言では“霊人が地上人に接し、地上人に語る時は、地上的固有的な一切をはなれて、状態とその変化による霊的なものによって語る”、この際の“状態”とは霊的成長度の高低であり“語る”とは“霊人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、それを“地上人”が受け取るのは感応であるが、その際“対応の理により、それが固有的地上的なものと映像されてくる”、いわゆる“地上人”にも理解しうるが、それは“固有的地上的なものと映像されてくる”という“状態の変化”がある、これを一言で言ってしまえば“創造”の“主(ヌシ)”の息吹が“変圧”の過程を経て“地上人”に伝わる、と称してもよいと思える。

 次の文。
“多くの地上人は、霊人を知らない。 霊人には、地上世界に顕現する総てのものの霊体が存在すると云うことを中々理解しないし、霊人は反対に、霊界を物質的に表現した物質地上世界のあることを中々に理解しない。 但し、死後の霊人は、相当に長い間 地上世界のことを記憶しているものである。 地上人が、何故 霊界のことを理解し難いかと言うと、それは、地上的物質的感覚と、地上的光明の世界のみが、常にその対象となっているからである。 例えば霊人とは、地上人の心に通じ、或いは、心そのものであると考えるためである。 つまり、霊人は、心であるから、目も、鼻も、口もなく、また、手足などもない、と考えるからである。 所が実際は、霊人そのものが手をもつが故に地上人に手があり、指をもっているが故に、地上人に指が生ずることを知らなければならない。 しかも、霊人は、地上人より遥かに精巧にできていることは、それを構成するものが精巧であることによって立証されるであろう。 霊人は、地上人にまして一段と光明の世界にあり、一段とすぐれた霊体を有している。 霊界に於ける事物は総て霊界における太陽と、太陰とによりて生れてくる。 それは、地上に於ける場合と同じである。 太陽と、太陰との交叉により生ずる歓喜によって、その生れたるものは更に一層の光輝を放ち、弥栄となる”

 これは“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、が、“創造”の“主(ヌシ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による“創造”であるがゆえに、フラクタル(fractal)(自己相似性、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)であるが、その場(フィールド)の段階、個の心(靈)においては霊的成長度の高低、“直接内流”の取り込みの段階、その相違がまた“状態の変化”であるがゆえに、“霊界”と“霊人”、これに相対する“地上界”と“地上人”には相違があることを示した文言であり、重複するが、これも“創造”の“主(ヌシ)”の息吹の“状態の変化”と言いうることである。

 次の文も“霊界”と“霊人”の場(フィールド)に対する認識が、そして“地上界”と“地上人”のそれとは違うことを述べている。
“また、霊界には物質世界の如く空間はない。 このことを地上人は中々に理解しないのである。 霊界に於ける場所の変化は、その内分の変化に他ならない。 霊界に距離はない。 空間もない。 只、あるものはその状態の変化のみである。 故に、離れるとか、分れるとか云うことは、内分が遠くはなれていて、同一線上にないことを物語る”

 文中の“内分”の表記、これも“状態の変化”であり、ことにこの表記の場合は“直接内流”の取り込み具合と感応の程度、その段階の高低、を、示す表記であり、同様に“同一線上”というのも“直接内流”の取り込みと感応が同程度の個の心(靈)同士、であることが読み取れる。


 次の文は、“状態の変化”が要因の“同気同一線上”のことが述べられている。
“物質的約束に於ける同一場所にあっても、その内分が違っている場合は、その相違の度に、正比較、正比例して、遠ざかっているのである。 故に、地上的には、同一場所に、同一時間内に存在する幾つかの、幾十、幾百、幾千万かの世界、及びあらゆる集団も、内分の相違によって、感覚の対象とならないから、無いのと同様であることを知り得るのである”

 “地上人”においても、“内分の相違によって、感覚の対象とならないから、無いのと同様”である。 なぜこれが述べられているのかについては、第十四帖解釈“その五”において、以下のように述べた通りである。

“地上人”同士は心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)でそれぞれの思惑を理解することもできず、互いの心(靈)の動きを理解することもできない、それを“内分の相違によって、感覚の対象とならない”と称され、これに続く“無いのと同様であることを知り得る”と述べられている理由と根拠は、“地上人”が霊的成長度の高低が解らない、それは個の心(靈)の“内分”に理解が無い、それを“観察と認識”する資質もない、といえる。
それは、霊的成長度の高低における区分け、今後=アセンション後においての区分け、これは“内分”によるものであるが、これの理解が足らない、さらに“内分”の理解が足らないからこそ移行しうる心(靈)の資質も解るわけがない、ということまで示唆している文言である。


今回はこれくらいにしときまんねん。


Top

HOME

tuyukusanotuyu




 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
FC2ブログへようこそ!


Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
(クリックで拡大)

2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
(クリックで拡大)


発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
(クリックで拡大) 

お近くの書店にない場合は
たま出版のサイトでお買い求めください。

発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
(クリックで拡大)

お近くの書店に無いときは
たま出版のサイトでお買い求めください。

この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




初めての方は、
・・・その後の事と・・・これからの事。
からお読みください。

それぞれのカテゴリーをクリックすると
古い順に、記事が閲覧できます。

        

☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (107)
Kellyさんがこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)に伝えたい事 (24)
Kellyさんと○○○大先生との会話 (7)
Kellyさんとチョ~極上ラブラブ中高年夫婦はんとの会話 (6)
Kellyさんとチョ~ベッピンはんのA野はんとの会話 (7)
Kellyさんと∪・ω・∪ ▼・。・▼ ▼・。・▽ U・。・U U。・ェ・。U たちとの会話 (34)
Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
Kellyさんとややメタボ内科医のYっちゃん先生との会話 (7)
Kellyさんと和風のベッピンはんのSはんとの会話 (2)
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話 (12)
KellyさんとNominyan ∥*σ_σ*∥&Senyapoo λ*゜ο゜*λ との会話 (6)
☆ Kellyさん的“日月神示”解釈 (603)
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (46)
“日月神示” 上つ巻 (42)
“日月神示” 下つ巻 (38)
“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
“日月神示” 地つ巻 (36)
“日月神示” 日月の巻 (68)
“日月神示” 日の出の巻 (23)
“日月神示” 磐戸の巻 (21)
“日月神示” キの巻 (17)
“日月神示” 水の巻 (36)
“日月神示” 松の巻 (30)
“日月神示” 夜明けの巻 (26)
“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (11)
“日月神示” 荒の巻 (27)
“日月神示” 地震の巻 (93)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (136)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



fxwill.com


2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。



自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




飢餓救済のホームページ

JWord クリック募金

名前:
メール:
件名:
本文:

QRコード