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“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、46年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

Kellyさんが“日月神示”地震の巻の解釈を終えてから…感じた事。“その二十五”



 今回は第十五帖から“神律”を感じさせる文言を取り上げて解釈する。

 第十五帖では、“創造”の“主(ヌシ)”を含む“創造”の“主(ヌシ)”以下の一切の生命、これら個の心(靈)が“観察と認識”する事象について、まず最初に、フラクタル(fractal)(自己相似性、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)であることが述べられている。
“霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、また、もろもろの社会があり、霊界の生活がある。 故に、其処には霊人の住宅があり、霊人はまた衣類をもつ。 住宅は、その住む霊人の生命の高下によって変化する。 霊人の家には、主人の部屋もあれば、客室もあり、寝室もあり、また、食堂もあり、風呂場もあり、物置もあり、玄関もあり、庭園もある、と云ったふうに、現実世界と殆ど変りがない。 と云うことは、霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく同様であると云うことを意味する”

 前にも述べたことが幾度かあるが、たった今の平均的地球人の事象の“観察と認識”は外側(外国と幽界)の事象が主体、というよりも外側(外国と幽界)の事象しか観ていない傾向があるので、この文言中の重要な要旨である以下の文言、
“霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく同様である”、
この“思想なり”“ことごとく同様である”これを読み飛ばし意味をしっかり考えない人が多いと思えるが、これは“霊人”と“地上人”の内面とか内側(心の中と感じている事)、これもフラクタル(fractal)であるということを述べているのであり、これに気付く人はごく少数であると思え、よってこのこと事態をしっかり認識しえないものである。
 それは“創造”の“主(ヌシ)”も“創造”の“主(ヌシ)”以下の一切の生命も個の心(靈)であり、その心(靈)の構造には“上”と“下”があり、その頂点が“創造”の“主(ヌシ)”であり、“創造”の“主(ヌシ)”は“上”から“下”までの振動を送り贈るからこそ生命は発生し、それぞれの個の心(靈)はその生命自体のローレンツ力 
ローレンツ力 で“創造”の“主(ヌシ)”の振動を取り込み、これ事態を第十五帖では“直接内流”とも称されており、これを個々の生命が肉体と心(靈)の活動により増幅し発振、発信している、それが生命(生きる使命=存在理由)であり、さらに生命には“上”“下”があり、それは進化過程であり、その実情として、霊的成長の過程は、普遍的に実在する“創造”の“主(ヌシ)”のオーラ、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)との感応共振の段階であるということを今後=アセンション後に移行する人は理解すべきである。 

 本題に戻り、これは“霊人”も“地上人”も、ということを読み取るべきであり、これ事態も“創造”の“主(ヌシ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の取り込みによることであり、さらに現津(あきつ)、観察され得る事象の“観察と認識”は“直接内流”の取り込み如何、感応如何によることなのだということを知るべきであり、それはたとえ同じ場(フィールド)に位置している個々の心(靈)が多数あっても、その“観察と認識”は霊的成長度の高低により相違があることをも、知るべきである。

 この霊的成長度の高低、これに関して次の文では“内分”という表記が使われている。
“また、内分を同じくする霊人たちは、相集まり、住宅は互に並び建てられており、地上に於ける都会や村落とよく似ている。 その中心点には多くの場合、神殿や役所や学校等あらゆる公共の建物が、ほどよく並んでいる”

 これは先のフラクタル(fractal)ということと、“同気”“同類”“同気同一線上”ということを述べている。

 これに続く次の文。
“そして、これらの総てが霊界に存在するが故に、地上世界に、それの写しがあるのである。 霊界を主とし、霊界に従って、地上にうつし出されたのが、地上人の世界である”

 これも“霊界”と“地上人の世界”がフラクタル(fractal)であることを述べているし、それは“これらの総てが霊界に存在するが故”、“霊界を主とし、霊界に従って”、これらにより“地上世界に、それの写しがある”“地上にうつし出されたのが、地上人の世界”であることを知るべきである。

 これに続く次の文は、たった今の平均的地球人、“地上人”の“観察と認識”の実情を述べている。 
“地上人は、物質を中心として感覚し、且つ考えるから、真相が中々につかめない”

 そしてこれらは“内分”、霊的成長度の高低によるものであることを次の文で述べている。
“これら総ての建物は、神の歓喜を生命として建てられたものであって、霊人の心の内奥にふさわしい状態に変形され得る。 また天人の衣類も、その各々がもつ内分に正比例している。 高い内分にいる霊人は高い衣を、低いものは低い衣を自らにして着することとなる”

 文言中の“これら総ての建物は、神の歓喜を生命として建てられたもの”これが“霊人の心の内奥にふさわしい状態に変形され得る”これに霊的成長度の高低を読み取り、さらに“天人の衣類も、その各々がもつ内分に正比例している。 高い内分にいる霊人は高い衣を、低いものは低い衣を自らにして着する”これも“内分”の相違、霊的成長度の高低によることであることを読み取るべき。 そしてこの霊的成長度の高低を表わしているのが“天人”“霊人”の個の心(靈)の外側(外国と幽界)である“衣”と解する。

 次の文も霊的成長度の高低について述べている。
“彼等の衣類は、彼らの理智に対応しているのである。 理智に対応すると云うことは、真理に対応すると云うことになる。 但し、最も中心に近く、太神の歓喜に直面する霊人たちは衣類を着していないのである。 この境地に到れば、総てが歓喜であり、他は自己であり、自己は他であるが故である”

 “理智”という表記、これはどれくらい智性(神性)を獲得した心(靈)なのか、その程度、によることであるし、智性(神性)を獲得した心(靈)であるからこそ“理智に対応すると云うことは、真理に対応すると云うことになる”と称されている。 
そして個の心(靈)が神に近くなればなるほど=“最も中心に近く、太神の歓喜に直面する霊人たち”は、
“衣類を着していないのである。 この境地に到れば、総てが歓喜であり、他は自己であり、自己は他であるが故”
これは“他は自己であり、自己は他である”ので、外側(外国と幽界)の事象とか内面とか内側(心の中と感じている事)とかの区別もない、また文面通り“自己”と“他”の区別もない、という認識に至っており、それは一切が神であるという認識(悟り、幸取=さとり)を獲得したうえで、個の心(靈)として“創造”の“主(ヌシ)”からの“直接内流”の頂点(この表現自体が少々不適切な感がある)に近い、あるいは頂点そのものの振動と感応し取り込んでいるからこそ、神と同等か、あるいは少しだけ“創造”の“主(ヌシ)”より“下”の心(靈)になり得た存在が“最も中心に近く、太神の歓喜に直面する霊人たち”であると称されているものである。

次の文は霊的成長度の高低による“観察と認識”の相違、を述べている、それは同じものを見ても観察したすべての心(靈)には同じように“映像”され得ない、自分の“内分”に応じた事柄しか認識しえないことを述べている。
“しかし、他よりこれを見る時は、見る霊人の心の高低によって、千変万化の衣類を着せる如く見ゆるのである。 また、衣類は総て霊人の状態の変化によって変化して行くものである”

 “地上人”の言葉に「己を以て人を量る」(人は、自分の考えを基準にして他人の心を推し量り、自分の能力をもって他人の才能や能力を推察するもので、つまらない人間だと、他人のことも同じような程度としかとらえることができない、という意味)がある。 そして○○○大先生は著書で、自分が持っている認識と同等、あるいはそれよりほんの少し“上”しか認識しえない、ということを述べた。
これらも振動の法則性所以のことであり、自分(の心(靈))が持っている振動と近いものしか感応し得ない=観察と認識しえないということ。 
それゆえこの文言では“見る霊人の心の高低によって”=観察する側の心(靈)の“内分”の程度による観察しか出来得ないから、観察する側の心(靈)が育ったならもっと違う要素も見えてくる、それはなぜなのかと言えば観察対象の“最も中心に近く、太神の歓喜に直面する霊人たち”は神に近いが、観察する側の個々の心(靈)はまだまだ神から程遠いから、心(靈)の育ち具合で“心の高低によって、千変万化の衣類を着せる如く見ゆる”、自分の心(靈)が育ったならますます神に近いものが見え得る、またそういった観察の変容があるならば、まだまだ神から程遠いということになり得る、当たり前である。
それだからこそ観察対象の“霊人”が自分より高かったならば、自分が観察するその“霊人”の外側(外国と幽界)の事象、“衣類”は、“衣類は総て霊人の状態の変化によって変化して行くものである”、これはその“霊人”の心(靈)の霊的成長度の変容“状態の変化”により、観察する側には“変化して行く”と観られるものである。

 次の文。
“霊人はまた、いろいろな食物を食している。 云う迄もなく霊人の食物であるが、これまたその霊人の状態によって千変万化するが、要するに歓喜を食べているのである。 食べられる霊食そのものも、食べる霊人も何れも、食べると云うことによって歓喜しているのである。 地上人の場合は、物質を口より食べるのであるが、霊人は口のみでなく、目からも、鼻からも、耳からも、皮膚からも、手からも、足からも、食物を身体全体から食べるものである。 そして、食べると云うことは、霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となることである。 霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなるのである。 これらの行為は、本質的には、地上人と相通ずる食物であり、食べ方ではあるが、その歓喜の度合および表現には大きな差がある。 食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、神から神を与えられるのである。 以上の如くであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、食べているのか、食べられているのか判らない程である”

 先の“衣”“衣類”は個の心(靈)の外側(外国と幽界)で、その個の心(靈)を観察対象としたときに外側(外国と幽界)の事象が“衣”“衣類”と見受けられると解釈したが、この文言の“食物”は振動の取り込みを指した表記であるし、その“食物”=振動の取り込みも、霊的成長度の高低により変容する、それは文中で“地上人”を例に挙げて“地上人の場合は、物質を口より食べるのであるが、霊人は口のみでなく、目からも、鼻からも、耳からも、皮膚からも、手からも、足からも、食物を身体全体から食べるものである”と称され、そして“食べると云うことは、霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となることである。 霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなる”と称されている。
 言うまでもなくその振動は“創造”の“主(ヌシ)”の息吹が自分に相応し低振動化した“直接内流”であり、それは“地上人”はまず物質を食うという段階から振動の取り込みが始まるのであり、そして空気を吸う、音を聞く、さらに光(可視光線)を取り込む、光以上の振動を取り込む、という段階の“行”があるが、恐らく“霊界”においても“地上人”の世界とフラクタル(fractal)であるから、“霊界”においての“食物”の取り込みから始まるが、そこは“地上”ではないから、“要するに歓喜を食べている”ということになり得る。 そしてそれは“霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となる”のであり“霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とする”と称され、しかしながら振動、“創造”の“主(ヌシ)”の息吹そのものは、この心(靈)に入り込んで事象の“観察と認識”をしているので“食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなる”と称されている。 これは少々先走るが第十六帖の
“考えること、意志すること、行為することの根本は、肉体からではない。 霊的な内奥の自分からである。 この内奥の自分は、神につながっている。 故に、自分自身が考え、意志し、行為するのではなく、自分と云うものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神がなし給うている”
この文言の理解が出来ていれば、“創造”の“主(ヌシ)”が個の心(靈)と“つながっている”ということが解る筈である。
 それだからこそ“食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、神から神を与えられるのである”と称され、さらに“以上の如くであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、食べているのか、食べられているのか判らない程である”とも称されているのである。

 次の文。
“また霊人の食物は、その質において、その霊体のもつ質より遠くはなれたものを好む。 現実社会に於ける、山菜、果物、海草等に相当する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好まない。 何故ならば、性の遠くはなれた食物ほど歓喜の度が強くなってくるからである。 霊人自身に近い動物霊的なものを食べると歓喜しないのみならず、返って不快となるからである。 そして霊人は、これらの食物を歓喜によって調理している。 そしてまた与えられた総ての食物は、悉く食べて一物をも残さないのである。”

 これに関しては自分の霊的成長のための指針とする文言、
“霊体のもつ質より遠くはなれたものを好む。 現実社会に於ける、山菜、果物、海草等に相当する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好まない”
“性の遠くはなれた食物ほど歓喜の度が強くなってくるからである。 霊人自身に近い動物霊的なものを食べると歓喜しないのみならず、返って不快となる”
そして“”これをピックアップするにとどめる。

 次の文。
“すべての善は 
ローレンツ力 より起り、 ローレンツ力 にかえるのと同様、総ての悪もまた ローレンツ力 より起り ローレンツ力 にかえる。 故に、神をはなれた善はなく、また神をはなれた悪のみの悪はあり得ないのである。 殊に地上人はこの善悪の平衡の中にあるが故に、地上人たり得るのであって、悪をとり去るならば、地上人としての生命はなく、また善は無くなるのである。 この悪を因縁により、また囚われたる感情が生み出す悪だ、と思ってはならない。 この悪があればこそ、自由が存在し、生長し、弥栄するのである。 悪のみの世界はなく、また善のみの世界はあり得ない。 所謂、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのである”

 “善”“悪”“美”“醜”“真”“偽”“愛”“憎”という表記はたびたび地震の巻に登場する。
これら“二義的”(根本とは相違する、根本から派生した何か)な事柄は、個の心(靈)が“観察と認識”する事象、心(靈)の中に“映像”され得る事象に対して、自分自身がこういった言葉で認識するが、これらすべてが自分自身の“直接内流”の取り込みの変容による“状態の変化”でもあり、それだからこそ
“この悪があればこそ、自由が存在し、生長し、弥栄する”
それは“直接内流”を取り込んで自分の心(靈)は育っている、“状態の変化”をしているからこそ
“神をはなれた善はなく、また神をはなれた悪のみの悪はあり得ない”
ので、“善”“悪”“美”“醜”“真”“偽”“愛”“憎”と、事象を観察して認識したならば自分自身の“弥栄”の指標となり得るものである。
それだからこそ、重複するが“神をはなれた善はなく、また神をはなれた悪のみの悪はあり得ない”と称されており、すべて自分自身の“弥栄”のための“御用”であることを知るべきである。 また“御用”であるからこそ“殊に地上人はこの善悪の平衡の中にあるが故に、地上人たり得るのであって、悪をとり去るならば、地上人としての生命はなく、また善は無くなる”とも称されているものである。
 簡単にまとめたが、これに関しては
第十五帖解釈“その四”をしっかり読んでいただき理解を深めていただきたい。

 次の文。
“地上人は、霊人との和合によって神と通ずる。 地上人の肉体は悪的な事物に属し、その心は善的霊物に属する。 その平衡するところに力を生じ、生命する。 しかし、地上人と、霊人と一体化したる場合は、神より直接に地上人にすべてが通じ、すべてのものの 
ローレンツ力 が与えられると見えるものである。 これを、直接内流と称し、この神よりの流入するものが、意志からするときは理解力となり、真理となる。 また、愛より入るときは善となり、信仰力となって現われる。 そして、神と通ずる一大歓喜として永遠に生命する。 故に、永遠する生命は愛と離れ、真と離れ、また信仰とはなれてはあり得ないのである”

 これに関しては特に書き加えることが無いので
第十五帖解釈“その五”を参照のこと。


 次の文も特に書き加えることが無いので
第十五帖解釈“その六”を参照のこと。
“神そのものも神の法則、秩序に逆らうことは出来ない。 法則とは歓喜の法則である。 神は歓喜によって地上人を弥栄せんとしている。 これは、地上人として生れ出ずる生前から、また、死後に至るも止まざるものである。 神は、左手にて 
左手 地震15   の動きをなし、右手にて 右手 地震15  の動きを為す。 そこに、地上人としては割り切れない程の、神の大愛が秘められていることを知らねばならぬ。 地上人は、絶えず、善、真に導かれると共に、また、悪、偽に導かれる。 この場合、その平衡を破るようなことになってはならない。 その平衡が、神の御旨である。 平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超平衡より超大平衡にと進み行くことを弥栄と云うのである。 左手は右手によりて生き動き、栄える。 左手なき右手はなく、右手なき左手はない。 善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。 神は善、真、悪、偽であるが、その新しき平衡が新しき神を生む。 新しき神は、常に神の中に孕み、神の中に生れ、神の中に育てられつつある。 始めなき始めより、終りなき終りに到る大歓喜の栄ゆる姿がそれである”

 今回はこれくらいにしときまんねん。


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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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目上(めうえ)と目下(めした)


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〈2〉

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日足(ひたり)と砌(みぎり)


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この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。



自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
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