“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、45年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 地震の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その六”



 今回も、地震の巻 第三帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる。 歓喜に向かうとは親に向かうことであり、根元に通ずることである。 世をすて、外分的、肉体的諸欲をすてた生活でなければ、天国に通じ得ぬと考えるのは誤りである。 何故ならば、地上人に於ける肉体は、逆に霊の守護をなす重大な役目をもっているからである。 地上人が、その時の社会的、物質的生活をはなれて、霊的生活にのみ入ると云うのは大いなる誤りであって、社会生活の中に行ずることが、天国への歩みであることを知らねばならない。 天国をうごかす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。 地獄は天国あるが故であり、暗黒は光明あるが故である。 因が果にうつり、呼が吸となりゆく道程に於て、歓喜は更に歓喜を生ず。 その一方が反抗すればするだけ他方が活動し、また、強力に制しようとする。 呼が強くなれば吸も強くなり吸が長くなれば呼もまた長くなる。 故に地獄的なものも天国的なものも同様に、神の呼吸に属し、神の脈うつ一面の現われであることを知らねばならない。 天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団がある。 何故ならば、天国の如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって、それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の整調が行なわれるからである。 この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜でなく、憎は憎でなく、また地獄は地獄でない。 地獄は本来ないのである。 また、この平衡の上におかれた場合は、善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、そこでは、天国も天国ではない。 只ひたすらなる大歓喜が弥栄ゆるのみである。

 冒頭の文。
“神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる”

 これは“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”、それは文中の“神が生み、神より出て”であるし、さらに先回取り上げた
“これが、大歓喜そのものであって、神は、この 
ローレンツ力 に弥栄し給えるが故に、最外部の ○ の外にも弥栄し給うことを知覚し得るのである。 始めなき始めの ローレンツ力 の真中の真空にいますが故に、終りなき終りの○ の外の無にいまし、中間に位する力の 渦巻き 左回転 の中に生命し給うのである”
これの“神は、この 
ローレンツ力 に弥栄し給える”そして“故に、最外部の ○ の外にも弥栄し給う”と同義であり、“創造”の“主(ヌシ)”に対する被造物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)はローレンツ力 によるものであり、その仕組みと、先回の“一切万象”と“創造”の“主(ヌシ)”と被造物は、フラクタル(fractal)(自己相似性、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)であるということ=“神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる”、これを強調して述べている文言である。 
 なお以前にも述べたことがあるが、“地上人”の低い認識の上でのフラクタル(fractal)は外側(外国と幽界)の事象にしか見出していないものであり、心(靈)そのものが神とフラクタル(fractal)であるということを付け加えておく。

 次の文。
“歓喜に向かうとは親に向かうことであり、根元に通ずることである”

 これも“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”、これに対する被造物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のことを述べており、“創造”の“主(ヌシ)”をお前たち“地上人”が“観察と認識”するならば“親”“根元”であり、ことに“根元に通ずる”は、神と認識を共有する、それは進化した動物である人間の心(靈)は先のフラクタル(fractal)、神に近くなるものであるし、そしてそれは智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の強化の意味合いをも、含んでいる。 またこれこそが“日月神示”表記の“天詞様”の意味合いである。

 次の文。
“世をすて、外分的、肉体的諸欲をすてた生活でなければ、天国に通じ得ぬと考えるのは誤りである。 何故ならば、地上人に於ける肉体は、逆に霊の守護をなす重大な役目をもっているからである。 地上人が、その時の社会的、物質的生活をはなれて、霊的生活にのみ入ると云うのは大いなる誤りであって、社会生活の中に行ずることが、天国への歩みであることを知らねばならない”

 文中の
“世をすて、外分的、肉体的諸欲をすてた生活”
“地上人が、その時の社会的、物質的生活をはなれて、霊的生活にのみ入ると云うのは大いなる誤り”
“社会生活の中に行ずることが、天国への歩みである”
一部の既成宗教にあるように聖職者は独身でなければならない、これを貫き通してたった今は同性愛者がはびこっている、こういったことが現状であるようだが同性愛は日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の劣化につながるので進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の逆光であることを述べておく。
それで、先に述べた通り、心(靈)が神とフラクタル(fractal)であるからこそ、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、という心(靈)の動き、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して神に近付いたとしても、“上”から“下”の心(靈)の動きは消失しない、ただ一番低い本能にしても、情動や功名心も、自我も、智性(神性)があってこそのそれになり、智性(神性)無き心の本能や情動や(低い)功名心や自我の肥大、これらの行使所以の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をする者は、“日月神示”表記の“ケダモノ”“獣”であり、低い心(靈)を自分で律することをしなければ神に認められないことは○○○大先生の著書を読むと理解できるものであるし、この智性(神性)ゆえの心(靈)の動きを“社会生活の中に行ずることが、天国への歩み”この“行ずる”と称されており、自分たちがこの事象を“天国”にするには、自分の低い心(靈)を智性(神性)で律することをする、そういった肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)となるのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す心(靈)の器である肉体において先の本能や情動や(低い)功名心や自我の肥大を律して諌めていくならそれは智性(神性)の行使に繋がり、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は高い存在と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)するから自分も進化し、自分に憑いている悪霊も諌められ(“本津宮”(もとつみや)へ帰れ=本来の自分の在りようを鑑みよ=自省(胸の磁性“十”)せよ)(また肉体が形代(かたしろ)と同義である)、自分の霊的成長を見守っている“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)も同時に感応の影響を受けて進化するからこそ“何故ならば、地上人に於ける肉体は、逆に霊の守護をなす重大な役目をもっている”と称されている。 またこれは第二帖の“神霊なき地上人はなく、地上人とはなれた神霊は、存在しない”、これを詳細に説明している文言でもある。

 次の文。
“天国をうごかす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。 地獄は天国あるが故であり、暗黒は光明あるが故である。 因が果にうつり、呼が吸となりゆく道程に於て、歓喜は更に歓喜を生ず。 その一方が反抗すればするだけ他方が活動し、また、強力に制しようとする。 呼が強くなれば吸も強くなり吸が長くなれば呼もまた長くなる。 故に地獄的なものも天国的なものも同様に、神の呼吸に属し、神の脈うつ一面の現われであることを知らねばならない”

 文中の“天国”と“地獄”、“光明”と“暗黒”、これは個の心(靈)が“観察と認識”して“分類”と“形式”とした結果であるが、それは相対的なものであるのだ、の意を
“天国をうごかす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。 地獄は天国あるが故であり、暗黒は光明あるが故である”
と称されている。 
 さらにそれは“一切万象”の内にある、先の“神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる”ものだからこそ“因が果にうつり、呼が吸となりゆく道程に於て”と述べられ、その関係性について“一方が反抗すればするだけ他方が活動し、また、強力に制しようとする”と称されているが、これを“呼が吸となりゆく道程”と称し、これが“一切万象”の進化、“弥栄”であり、結果として“歓喜は更に歓喜を生ず”、これを説明した言い回しが
“呼が強くなれば吸も強くなり吸が長くなれば呼もまた長くなる”、
これ自体が“神の呼吸に属し、神の脈うつ一面の現われである”、“一切万象”、全体、“生命”事象の実相、当然のことながら個の心(靈)である自分を含めて、こういったものであるのだ、それを“知らねばならない”、お前たちの知らないことだが今後=アセンション後に向けて理解しておかねばならない必須の概念なのだ、ということである。

 次の文。
“天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団がある。 何故ならば、天国の如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって、それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の整調が行なわれるからである。 この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜でなく、憎は憎でなく、また地獄は地獄でない。 地獄は本来ないのである。 また、この平衡の上におかれた場合は、善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、そこでは、天国も天国ではない。 只ひたすらなる大歓喜が弥栄ゆるのみである”
 
 冒頭の“天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団がある”これは、第二帖の“天界も無限段階、地界も無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している”と意味合いは同じ。
そこにおいて“何故ならば、天国の如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって”、これは先の“天国をうごかす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。 地獄は天国あるが故であり、暗黒は光明あるが故である”これにより“因が果にうつり、呼が吸となりゆく道程に於て、歓喜は更に歓喜を生ず”となり“一方が反抗すればするだけ他方が活動し、また、強力に制しようとする”それ故のことでもあり、“その二”で取りあげた“個の弥栄は、全体の弥栄である。個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、その結合は益々強固となるのが神律である”、これと併せて考えると理解しやすい。
 そして“如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって、それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の整調が行なわれるからである”、これに続く“この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜でなく、憎は憎でなく、また地獄は地獄でない。 地獄は本来ないのである”、この文中の“平衡”、“悪”“偽”“醜”と“観察と認識”している個の心(靈)自体が、“悪”“偽”“醜”それそのものではない、あくまでも“観察と認識”において、“一切万象”を“分類”と“形式”した上のことであり、それはまた第二帖の
“善霊は善霊のみ、悪霊は悪霊のみ、中間霊は中間霊のみの世界に住み、善霊は善霊のみの、悪霊は悪霊のみのことを考え、且つ行為することになる。そして、それは、その時の各々にとっては、その時の真実であり…以下略…”
ではあるが、今取り上げた第二帖の文言にも記されている通り、“一切万象”それ自体は“歓喜である”し、この文言では
“この平衡の上におかれた場合は、善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、そこでは、天国も天国ではない。 只ひたすらなる大歓喜が弥栄ゆるのみである”、
“一切万象”、全体、“生命”事象の実相、自分を含め、すべて神の内、先の“神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる”でもあり、“観察と認識”においての“分類”と“形式”は認識しうるが、一切が神、すべてが神、自分を含めて何もかもが神、それを“平衡の上におかれた場合”、こういった認識を持ち、すべてが“只ひたすらなる大歓喜が弥栄ゆるのみ”、またこれは第一帖の
“われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。 一定不変の神もなければ、宇宙もない。 常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく。 過去もなければ、現在もなく、未来もない。 只存在するものが生れに生れつつある。 生もなければ死もない。 善も思わず真も考えず美も思わない。 只自分自身のみの行為はない。 只生れゆき栄えゆくのみである”
これと併せて読むと理解しやすい筈である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 地震の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その五”



 今回も、地震の巻 第三帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

されば、 
ローレンツ力と ○ の中の ローレンツ力 の中なる ローレンツ力と ○ の ローレンツ力 の中なる一切万象、万物中の最も空にして無なるものの実態である。 これが、大歓喜そのものであって、神は、この ローレンツ力 に弥栄し給えるが故に、最外部の ○ の外にも弥栄し給うことを知覚し得るのである。 始めなき始めの ローレンツ力 の真中の真空にいますが故に、終りなき終りの○ の外の無にいまし、中間に位する力の 渦巻き 左回転 の中に生命し給うのである。 一物の中の ローレンツ力 なるが故に一物であり、万象万物であることを知覚しなければならない。 生前の様相であり、呼吸するが故に死後の呼吸とつづき、様相として弥栄ゆるのである。 

 冒頭の“されば”は先回の“円通する”にかかり、これに続く
“ 
ローレンツ力と ○ の中の ローレンツ力 の中なる ローレンツ力と ○ の ローレンツ力 の中なる一切万象”
これは第二帖“その三”の
“ 
ローレンツ力 については一なるも、○ に於ては二となり三となり得るところに、永遠の生命が歓喜する”
この解釈が理解できているなら、文言中の“一切万象”=一切の事象、全体、“生命”事象の実相、これの霊的成長度という視点においての“上”から“下”、もうひとつ“分類”と“形式”としてのマクロからミクロ、極大から極小と“観察と認識”しうるもの、さらに第二帖の表記の
“極内世界と極外世界とが映像され、その間に中間世界がまた映像される”
この“極内世界、中間世界、極外世界”これら一切が“の中の”と“の中なる”という表記において、同じく第二帖の表記の“無限段階”であると読み取れる。 ちなみに“無限段階”の表記は以下の文言に登場する。
“天界も無限段階、地界も無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している”
 そして“上”から“下”、マクロからミクロ、“極内世界、中間世界、極外世界”、これら自体が“無限段階”の“一切万象”であり、その“分類”“形式”にかかわらず“一切万象”は必ず電荷を有しているからこそ“上”からの振動を取り込むローレンツ力 
ローレンツ力 があり、その仕組みそのものが生命と言いうるし、また、相対的に“上”の振動をローレンツ力で取り込むこと事態が生命であると言いうる。
そしてその仕組み自体、ローレンツ力により“上”からの振動を取り込んで“一切万象”がなり立つのであるからこそ、それは、相似象、フラクタル(fractal)(自己相似性、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)であるということを、“ 
ローレンツ力と ○ の中のローレンツ力   の中なるローレンツ力と ○   のローレンツ力  の中なる”ローレンツ力ローレンツ力  と霊=○、荷電粒子の場(フィールド)であると、この文言で述べていると気付くことが出来得る。

 これに続く
“万物中の最も空にして無なるものの実態である”
これは先の仕組みを指す文言であり、お前たち“地上人”の段階における“観察と認識”では“最も空にして無なるもの”としか認識しえない、しかしその仕組み自体が“一切万象”における生命の仕組みの“実態”であるという言い回し。

 これに続く
“これが、大歓喜そのものであって、神は、この 
ローレンツ力 に弥栄し給えるが故に、最外部の ○ の外にも弥栄し給うことを知覚し得るのである”
ローレンツ力で取り込む振動、人間は電磁波を利用して情報を送ったり受け取ったりする仕組みを利用する段階に至ったが、そんな小さな事象ではなく、このことは“一切万象”に共通であり、神の思惑は“上”から“下”に反映するという文言が“神は、この
ローレンツ力   に弥栄し給える”であるし、それがまた神自体における“観察と認識”という行為になるという意味合いが“故に、最外部の ○ の外にも弥栄し給うことを知覚し得る”であり、さらにこれ自体が“大歓喜”神は愛(炁)であり歓びであるということを指す。
 少々余談になるが、生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の到達点は“大歓喜”であり、さらに“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”事態が“創造”の“主(ヌシ)”にとっての“大歓喜”であり、その“創造”における被造物も一切の事象において“うれしうれし”“大歓喜”になるのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の最終段階と言いうるものである。

 これに続く
“始めなき始めの 
ローレンツ力 の真中の真空にいますが故に、終りなき終りの○ の外の無にいまし、中間に位する力の 渦巻き 左回転 の中に生命し給うのである”
これは“地上人”の“観察と認識”における時間の経過を指す文言であり、さらに、“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”の始め=“始めなき始め”、これと“一切万象”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の到達点である“大歓喜”=“終りなき終り”、その進化の様相というか“地上人”的な“観察と認識”で観るならば“ 
渦巻き 左回転 ”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みの日足(ひたり)回転であるし、この日足(ひたり)回転そのものが神の思惑を取り込むことと、“上”である神の思惑を“下”である取り込んだ生命に、“上”である神が反映することに相当する、これを生命(生きる使命=存在理由)の進化の仕組みであるローレンツ力、この中に神の思惑があるの意を“始めなき始めの ローレンツ力 の真中の真空にいますが故”と称され、これに続く“○ の外の無にいまし、中間に位する力の渦巻き 左回転   の中に生命し給う”、この文中の“○”は霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、生命であり、生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が日足(ひたり)回転“渦巻き 左回転  ”であり、その中に神の思惑、神の“観察と認識”が行為する、の意が“中間に位する力の 渦巻き 左回転 の中に生命し給う”と称されている。

 これに続く
“一物の中の 
ローレンツ力 なるが故に一物であり、万象万物であることを知覚しなければならない”
これは個の心(靈)が“観察と認識”して“分類”“形式”とした“一物”、それは先の“無限段階”の度の段階においても“一物”であり、それはローレンツ力による振動の取り込み、その仕組み、これを“万象万物であることを知覚しなければならない”と、“地上人”向けの言い回しがされているものである。

 これに続く
“生前の様相であり、呼吸するが故に死後の呼吸とつづき、様相として弥栄ゆるのである”
この文言は“地上人”の“生前”と“死後”についてではあるが、そこに“様相”が観察され得るのは“生前”と“死後”の間に“上”からの振動を取り込んで進化(霊的成長、神格化に向かうこと)している=“様相として弥栄ゆる”のだ、そしてそれはお前たちより“下”に息吹いてもいる=“呼吸するが故に死後の呼吸とつづき”であり、こういったことが“無限段階”における“上”から“下”までの進化の仕組みであり、さらに進化の仕組みの“様相”であり、そこに神の思惑は反映し、“上”から“下”までの“一切万象”、全体、“生命”事象の実相、これら一切と、さらにお前たち“地上人”の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)にも反映しているのだ、と述べられている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 地震の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その四”



 今回も、地震の巻 第三帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

愛は愛に属する総てを愛とし、善となさんとするが故に悪を生じ、憎を生じ、真は真に属する総てを真とし美となさんとする故に偽を生じ、醜を生ずるのである。 悪あればこそ、善は善として使命し、醜あればこそ、美は美として生命するのである。 悪は悪として悪を思い、御用の悪をなし、醜は醜として醜を思い、御用の醜を果たす。 共に神の御旨の中に真実として生きるのである。 真実が益々単にして益々充実し、円通する。 

 まず冒頭の文。
“愛は愛に属する総てを愛とし、善となさんとするが故に悪を生じ、憎を生じ、真は真に属する総てを真とし美となさんとする故に偽を生じ、醜を生ずるのである”

 「小さな宇宙人 アミ」シリーズ、そして○○○大先生の著書やブログの読者は“愛は愛に属する総てを愛とし”の意味合いはすぐ理解できるはず。 
それは、愛(炁)の顕現には霊的成長度の高低という要因があり、霊的成長度の低い心(靈)は自分のためだけにしか愛(炁)を行使しえないものであり、その程度の低さは自分の存続のため他者を殺して食する肉食獣を観るとよく理解できる。 また“日月神示”の表記の“われよし”“獣、ケモノ、ケダモノ”も、単に人間としての知恵や知識が加わっただけで肉食獣同様に自分のためにしか愛(炁)を行使しえない、程度の低い愛(炁)しか発現していない霊的成長度の低い心(靈)を指すものである。 またこの程度の低い愛(炁)の行使事態が“憎を生じ”ているし、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化の元であると言いうる。 
しかしそれも程度の低い愛(炁)の顕現であるがゆえに“愛に属する総てを愛とし”という言い回しをされており、これに続く“総てを愛とし、善となさんとする”の意は、その“愛”の顕現と行使において“善”を指標にすると、先の肉食獣のように程度の低いものはそれについていけない、“善”ゆえの“愛”の顕現と行使が出来得ないので“故に悪を生じ、憎を生じ”ていくものである。
 これに続く“真”についても“真は真に属する総てを真とし美となさんとする故に偽を生じ、醜を生ずる”と述べられており、それは程度の低い愛(炁)の顕現と行使には“真”を観ることが出来ない、“美”と見受けられない、それは不誠実であり自分にとって都合の良いものであるからであり、またそれは形骸の“美”の概念、“美”は行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)で示すものだと○○○大先生は著書で述べているし、これに相対して形骸の“美”は外側だけを取り繕う(ディスプレイ(動物の発情行動))からであるが、それも進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の低い段階で、先の“愛に属する総てを愛”には違いない。
よって、程度の低いものにとっての“真”と“美”の認識も低いものであり、それは自分たちにとって都合の良い“真”、そして程度の低い“美”たることである。
このことを理解しやすいのが第二帖の最後の文言“そして、それは、その時の各々にとっては、その時の真実であり、歓喜である”、この“その時の各々”、これは高いものも低いものもという意味合いを持ち、自分たちが“観察と認識”しうる“真”と“美”にも、霊的成長度の高低による程度の差があるものであり、低い認識の“真”と“美”は“上”から観たなら“偽”“醜”となるのだの意。

 次の文。
“悪あればこそ、善は善として使命し、醜あればこそ、美は美として生命するのである”

 個の心(靈)は霊的成長度が低ければ程度の低い“愛”の行使を“悪”としてこの事象に示し、同様に霊的成長度の低いものの認識の“美”は“上”から観たら“醜”であると認識され得る。
しかしこれらが解った、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して心(靈)が育つ過程において“善”も“美”もその認識は高いものになっていく、その過程をこの文言で説かれており、ある程度心(靈)が育ち自らの“悪”を“悪”と認識したならば、そこで自分がどう在るべきか鑑みる、そして高い“善”の行使に至るものであり、同様に形骸の“美”を求めつくしていきその結果が“醜”と理解しそこには価値が無いことを認識したならば、何が“ほんとう”の“美”なのかを思い、それを行動に活かすようになっていく、これらが霊的成長の過程であると言いうるし、この文言はそれを示しているものである。

 これに続く次の文。
“悪は悪として悪を思い、御用の悪をなし、醜は醜として醜を思い、御用の醜を果たす。 共に神の御旨の中に真実として生きるのである”

 文言中の“御用の悪”と“御用の醜”は程度の低い“愛”の行使ゆえの“悪”と“醜”をよく認識する、認識したならばそれより“上”、“善”と“ほんとう”の“美”を求め、顕現しようとするの意。 
またそれは先に引用した第二帖の“それは、その時の各々にとっては、その時の真実であり、歓喜である”に相当するから“悪は悪として悪を思い”と“醜は醜として醜を思い”であり、これは先の“善”と“美”を理解していくために、程度の低い“愛”の行使ゆえの“悪”“醜”をよく解らねばならない、これがこの場合の“御用”である。
そしてそれは第二帖の文言と意味が同じ“その時の各々にとっては、その時の真実”であるからこそ“共に神の御旨の中に真実として生きるのである”と称されている。
それは“悪”も“醜”も、先の“憎”と“偽”、こう“観察と認識”され得る何か、それは程度の高い低いにかかわらず、一切の事象、全体、“生命”事象の実相、これに含まれているものである。
そして、自分、個の心(靈)、一切の事象、全体、“生命”事象の実相、これらそのものが神であるからこそ“悪”も“醜”も、先の“憎”と“偽”も、個の心(靈)の成長の過程において必須。
そして、個の心(靈)の成長そのものが“その二”で取りあげた“個の弥栄は、全体の弥栄である”でもあるからこそ、この過程、低い認識から高い認識に移行するためにも、“悪”も“醜”も、先の“憎”と“偽”という“御用”が必要であり、これらもが神の一部であるという意味合いも含む。

 そしてそれは今回取り上げている最後の文言に続いている。
“真実が益々単にして益々充実し、円通する”

 第二帖の“その時の各々にとっては、その時の真実”、これは霊的成長度の高低における“真実”の相違という言い方もできるし、そこに程度の差も観察しうるものであるが、個の心(靈)が何を求めるべきか、であり、個の心(靈)には霊的成長度の高低があるからこそ、“上”から“下”への観方によっては“愛”も“善”も“真”も“美”も、“悪”と“憎”と“偽”と“醜”となり得る、それを“真実が益々単にして”の“単”(ひとえ、単純なもの)と示されているが、それも霊的成長度の高低において“真実”を求める過程であり、個の心(靈)が育ち先の“個の弥栄は、全体の弥栄”となっていく過程に必須であるし、それを“真実が益々単にして”この霊的成長度の低い過程を経て“益々充実”、“全体の弥栄”となり、それはさらに“円通する”と称され、円通は、真理があまねく行き渡っているさま、の意である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 地震の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その三”



 今回も、地震の巻 第三帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

更に、極内世界と極外世界とが映像され、その間に中間世界がまた映像される。 極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界である。 極内は極外に通じて 
渦巻き 左回転 を為す。 すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない。 かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる。 これによりて、新しく総てが生れ出る。 太陽は、神の生み給えるものであるが、逆に、太陽から神が、更に新しく生れ給うのである。  渦巻き 左回転 は絶えずくりかえされ、更に新しき総ては、神の中に歓喜として孕(はら)み、生れ出て、更に大完成に向って進みゆく。 親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出ずるのであることを知らねばならない。 されば、その用に於ては千変万化である。 千変万化なるが故に、一である。 一なるが故に、永遠である。 

 冒頭の文。
“更に、極内世界と極外世界とが映像され、その間に中間世界がまた映像される。 極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界である”

 文中の“映像され”“映像される”は、事象として顕現しそれを個の心(靈)が“観察と認識”するの意。
そして個の心(靈)である“地上人”向けのこの文言は、“極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界”これらを通じて、お前たち自身が永遠の存在であり、先回取り上げた“個の弥栄は、全体の弥栄である”なのだからこそ、お前たちは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくべきなのだ、進化するものなのだ、これはお前たちが存在する理由と根拠であり、一切の存在は“弥栄”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するものなのだ、それがまた、個の心(靈)の存在の理由でもあるのだ、ということである。

 次の文。
“極内は極外に通じて 
渦巻き 左回転 を為す。 すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない”
 
 “善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転である“ 
渦巻き 左回転 ”、これは先の“極内世界は生前、極外世界は死後”この時間の進行において、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を“為す”のだの意。 これに続く“すべて一にして”、これに近い表記はこの後に登場するが(“千変万化なるが故に、一である。 一なるが故に、永遠である”)、その意は、“生命”事象の実相、これは先回の表記の“全体”であっても一つであるし、それを個の心(靈)が“観察と認識”して“個性”“分類”“形式”としている、そのことを“すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない”と称されている。

 次の文。
“かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる”

 冒頭の“かくして”は、結果を示す表記、こうして、とか、このようにして、とかの意味合いであり、“かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる”の意味合いは、先の“極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界である”にかかっており、この“極内”“中間”“極外”を通じて、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、が“上”から“下”へ注がれ、それを電荷を持った何か、それは個の心(靈)であろうが生きている間の肉体であろうが、電荷がある故にローレンツ力
ローレンツ力 が発現しているので“上”からの振動を止めつつ(これに関しては第二帖 “その三”の解釈を参照のこと)、さらに自らの“下”のエネルギーを条帛(じょうはく)のように上昇させつつ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して、智性(神性)の発現とその行使をしていくのが先の日足(ひたり)回転“渦巻き 左回転  ”の意味合いでもあるし、個の心(靈)に対しての“上”は“大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる”と称されているものである。

 次の文。
“これによりて、新しく総てが生れ出る。 太陽は、神の生み給えるものであるが、逆に、太陽から神が、更に新しく生れ給うのである。  
渦巻き 左回転 は絶えずくりかえされ、更に新しき総ては、神の中に歓喜として孕(はら)み、生れ出て、更に大完成に向って進みゆく。 親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出ずるのであることを知らねばならない。 されば、その用に於ては千変万化である。 千変万化なるが故に、一である。 一なるが故に、永遠である”

 冒頭の“これによりて、新しく総てが生れ出る”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意により、一切の存在なり事象なりが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)=“弥栄”してそれを個の心(靈)が“観察と認識”して“個性”“分類”“形式”とするのだの意、であるし、このこと事態が“生命”事象の実相、の存在理由たることでもある。 
 これに続く“太陽は、神の生み給えるものであるが”、これは先の“かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる”と同義。
これに続く“逆に、太陽から神が、更に新しく生れ給うのである”の意は“上”からの振動の取り込みにより個の心(靈)も事象も進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して神に近付く、ことにこの文言自体は“地上人”に向けられているものであるから、お前たちの存在の意義は、独り神(ひとりがみ、日取り神)になる、そのための存在なのだ、ということを示している。
 これに続く“
渦巻き 左回転  は絶えずくりかえされ、更に新しき総ては、神の中に歓喜として孕(はら)み、生れ出て、更に大完成に向って進みゆく。 親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出ずるのであることを知らねばならない。 されば、その用に於ては千変万化である。 千変万化なるが故に、一である。 一なるが故に、永遠である”
先に説明した“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転、日足(ひたり)回転“
渦巻き 左回転  ”、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のテンプレートと言いうるものであり、“下”のエネルギーが条帛(じょうはく)のように日足(ひたり)回転で“上”に向かい智性(神性)となる、それが神格化である、それが“絶えずくりかえされ、更に新しき総ては、神の中に歓喜として孕(はら)み、生れ出て、更に大完成に向って進みゆく”、一切の生命も一切の事象もこの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のテンプレートにより“新しき総ては”“生れ出て、更に大完成に向って進みゆく”ものであり、個の心(靈)である“地上人”は、“大完成に向って進みゆく”…には程遠いと思うが、先の“個の弥栄は、全体の弥栄である”ということをよく知っておくべきであり、またそこには“神の中に歓喜として孕(はら)み”、“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”そのものが“歓喜として”“孕(はら)み”(子を宿すの意)に相当することであることを知れ、それを強調する文言がこれに続く“親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出ずるのであることを知らねばならない”であることを読み取るべきである。
 これに続く“されば、その用に於ては千変万化である。 千変万化なるが故に、一である。 一なるが故に、永遠である”、これは先に述べた“個性”“分類”“形式”を“千変万化”と称し、しかしながらそれも“全体”であるが故に“一である”と言われ、“全体”“生命”事象の実相、は、“永遠”であるということを認識の狭い“地上人”向けに説明されているものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 地震の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その二”



 今回も、地震の巻 第三帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

個の弥栄は、全体の弥栄である。 個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。 個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、その結合は益々強固となるのが神律である。 霊界と物質界は、かくの如き関係におかれている。 其処にこそ、大生命があり、大歓喜が生れ、栄えゆくのである。 

 文中の“個”は個々の心(靈)の意、“全体”は、個の心(靈)である自分をも含めた一切の事象、それは“生命”事象の実相、であり、今回取り上げている文言は個の心(靈)が“生命”事象の実相、を、“観察と認識”している、そして個の心(靈)も全体の一部である、それは観察しうる事象、自分と自分以外の一切が神である、ということを前提に説かれているものであり、このことを踏まえて読まなければ意味が通じない。
 
 冒頭の文。
“個の弥栄は、全体の弥栄である”

 個の心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)=“弥栄”は、一切の事象の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でもあるということ。

 次の文。
“個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する”

 個の心(靈)は“弥栄”して“個性”を顕現し、それを他者から観れば“分類”と“形式”と認識され得るものであるが、これ自体が新たな“個性”“分類”“形式”、これらが多種多様となり、そのこと事態を“全体は益々その次を弥栄する”と称されている。

 次の文。
“個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、その結合は益々強固となるのが神律である”

 先の“個性”“分類”“形式”、これは“個と全体”と認識され得ることでもあり“愛と真”と認識され得ることでもある。 そして“との差が益々明らかになれば”とは、“個性”“分類”“形式”が多種多様となりはっきりと“差”を認識すればするほどその関係や関連付けもそれぞれのこの心(靈)の中の認識においてはっきりしてくる(より“個性”“分類”“形式”として“観察と認識”する)ものであるが、それを“結合は益々強固となる”と称され、この“差”と“結合”を認識すること事態、“創造”であり、事象の“創造”というのはこういうものなのだ、そしてこれが神の取り決め、“創造”における“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、なので“神律”と明快な命名がされている。

 次の文。
“霊界と物質界は、かくの如き関係におかれている。 其処にこそ、大生命があり、大歓喜が生れ、栄えゆくのである”

 “霊界と物質界”も“全体”を“分類”“形式”と認識したものであるし、それぞれの“弥栄”、先の“個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する”ならば、その“関係”も“全体は益々その次を弥栄”となり得る。
また“分類”“形式”“個性”がはっきり示されれば、それぞれの個の心(靈)の認識によりそうなっていくならば、先の“神律”“結合は益々強固となる”と認識され得るものであり、この認識事態が、私見ながら“神性”であり、この認識そのものは、一切の生命、“上”であろうが“下”であろうが、“創造”の“主(ヌシ)”であろうが人間だろうが悪魔であろうが、一切の“生命”に共通する行為であるし、その認識の中に“大歓喜が生れ、栄えゆく”、この事を踏まえてこの解釈を読んでいらっしゃる方は、以下の文言をよく読み解いてほしいものである。

“其処にこそ(認識の中にこそ)、
大生命(“生命”事象の実相)があり、
大歓喜が生れ、栄えゆく(“神性”)のである”

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 地震の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その一”


 
 今回から、地震の巻 第三帖の解釈に入ることとする。 第三帖の原文は以下の通り。

愛の影には真があり、真の影には愛がはたらく。 地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する。 地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない。 地上人は常に霊界により弥栄する。 弥栄は順序、法則、形式によりて成る。 故に、順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出て呼吸するものはあり得ない。 個の弥栄は、全体の弥栄である。 個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。 個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、その結合は益々強固となるのが神律である。 霊界と物質界は、かくの如き関係におかれている。 其処にこそ、大生命があり、大歓喜が生れ、栄えゆくのである。 更に、極内世界と極外世界とが映像され、その間に中間世界がまた映像される。 極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界である。 極内は極外に通じて 
渦巻き 左回転 を為す。すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない。 かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる。 これによりて、新しく総てが生れ出る。 太陽は、神の生み給えるものであるが、逆に、太陽から神が、更に新しく生れ給うのである。  渦巻き 左回転 は絶えずくりかえされ、更に新しき総ては、神の中に歓喜として孕(はら)み、生れ出て、更に大完成に向って進みゆく。 親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出ずるのであることを知らねばならない。 されば、その用に於ては千変万化である。 千変万化なるが故に、一である。一なるが故に、永遠である。愛は愛に属する総てを愛とし、善となさんとするが故に悪を生じ、憎を生じ、真は真に属する総てを真とし美となさんとする故に偽を生じ、醜を生ずるのである。 悪あればこそ、善は善として使命し、醜あればこそ、美は美として生命するのである。 悪は悪として悪を思い、御用の悪をなし、醜は醜として醜を思い、御用の醜を果たす。共に神の御旨の中に真実として生きるのである。 真実が益々単にして益々充実し、円通する。されば、ローレンツ力と ○   の中の ローレンツ力 の中なる ローレンツ力と ○ の ローレンツ力 の中なる一切万象、万物中の最も空にして無なるものの実態である。 これが、大歓喜そのものであって、神は、この ローレンツ力 に弥栄し給えるが故に、最外部の ○ の外にも弥栄し給うことを知覚し得るのである。 始めなき始めの ローレンツ力 の真中の真空にいますが故に、終りなき終りの○ の外の無にいまし、中間に位する力の 渦巻き 左回転 の中に生命し給うのである。 一物の中の ローレンツ力 なるが故に一物であり、万象万物であることを知覚しなければならない。 生前の様相であり、呼吸するが故に死後の呼吸とつづき、様相として弥栄ゆるのである。 神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる。 歓喜に向かうとは親に向かうことであり、根元に通ずることである。 世をすて、外分的、肉体的諸欲をすてた生活でなければ、天国に通じ得ぬと考えるのは誤りである。 何故ならば、地上人に於ける肉体は、逆に霊の守護をなす重大な役目をもっているからである。 地上人が、その時の社会的、物質的生活をはなれて、霊的生活にのみ入ると云うのは大いなる誤りであって、社会生活の中に行ずることが、天国への歩みであることを知らねばならない。 天国をうごかす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。 地獄は天国あるが故であり、暗黒は光明あるが故である。 因が果にうつり、呼が吸となりゆく道程に於て、歓喜は更に歓喜を生ず。 その一方が反抗すればするだけ他方が活動し、また、強力に制しようとする。呼が強くなれば吸も強くなり吸が長くなれば呼もまた長くなる。 故に地獄的なものも天国的なものも同様に、神の呼吸に属し、神の脈うつ一面の現われであることを知らねばならない。 天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団がある。 何故ならば、天国の如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって、それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の整調が行なわれるからである。 この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜でなく、憎は憎でなく、また地獄は地獄でない。 地獄は本来ないのである。 また、この平衡の上におかれた場合は、善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、そこでは、天国も天国ではない。只ひたすらなる大歓喜が弥栄ゆるのみである。

 今回解釈するのは
“愛の影には真があり、真の影には愛がはたらく。 地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する。 地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない。 地上人は常に霊界により弥栄する。 弥栄は順序、法則、形式によりて成る。 故に、順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出て呼吸するものはあり得ない”
ここまでとする。

 冒頭の文。
“愛の影には真があり、真の影には愛がはたらく”

 “影”という表記が二回登場するが、これは映し出された形、の意である。 そして“愛”の表記に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)解釈をする人がいそうだが、愛(炁)の顕現には霊的成長度の高低において程度の差があるものであり、“日月神示”表記の“ケダモノ”に近い人間、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動き中止の人間は自分に対する愛(炁)しか行使しえないのであり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すればするほど、先の程度の低い愛(炁)から“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”になって、他者、一切の事象、そして自分、に対する高い愛(炁)を顕現しようとするし、自分に対しては自分自身の霊的成長を望むからこそ“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“という表記を○○○大先生は使っているし、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が“下”(低い心(靈))である人間を育てようとする際も、その人間の成長の段階に応じた“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を行使するし、これがまたS会=紫光会の交霊会でよく言われた“神は乗り越えられない試練は与えない”、この文言の裏にあること。
 こういった霊的成長度の高低における“愛”の顕現、低い“愛”には“真”は感じられないが=“観察と認識”しえないが、高い“愛”、高くなればなるほどそこには“真”を観てとれるようになるというのが“愛の影には真があり”。
そして“愛”と“真”が個々の心(靈)の霊的成長の指標となる、どういった形で示すか、どう顕現するか、それを鑑みる、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)で鑑みるならばそれはまっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)への“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)となっていく、その意が“真の影には愛がはたらく”であると解する。

次の文。
“地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する。 地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない”

 “地上人”と“霊人”、これは第二帖で説かれた“分類”と“形式”であり、この文言そのものはその両者が無ければならない、互いに相関しているものである。
その意が“地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない”であり、“存在せず”は他者から認識しえないの意、“呼吸しない”は息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)しえない、の意、そして互いの関係として“地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する”と述べられている。

 次の文。
“地上人は常に霊界により弥栄する。 弥栄は順序、法則、形式によりて成る。 故に、順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出て呼吸するものはあり得ない”

 これも先の“地上人”と“霊人”の相関を述べており、その両者があってこその“弥栄”、霊的成長、神に近付くことそのもの、であるの意。 そして“弥栄”は、個々の心(靈)の“観察と認識”において“順序、法則、形式によりて成る”、そういうものであると認識され得るの意であり、これはまた進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)と言え、ローム太霊の言葉の“法(のり)”であるとも言いうるし、これに準じる、これに沿った存在の在り方、それが“弥栄”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であるの意が“順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出て呼吸するものはあり得ない”であり、この“呼吸”は先にも解釈したが息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)のことである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



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☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
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その他 お知らせ (3)



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


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自分だけ幸福になりたい…
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低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
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(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
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