○○○大先生、今年二回目の伊吹山に、遠足気分で行き、その日に撮った写真。
この時期の伊吹山は、
夏に比べ・・・花も少ないし、見栄えのするものもあまり無い。
・・・そやけど先生は、この時期の伊吹山の方が好きらしく、
それは、秋の伊吹山は、
とても落ち着いた気分になるかららしい。
ほんでからこの時期は天候も読みやすいし、観光客も少なくなる。
多分・・・そう言う事も理由の一つやろな。
伊吹山ドライブウェイを少し上ると、沢山、ツリフネ草が咲いてまんねん。
先生の好きな花の一つでんねん。
朝日の順光で生々しいくらいでんねん。
ツユ虫の仲間も写ってまんねん。
例によって、西遊歩道から登りまんねん。
琵琶湖方面でんねん。
西遊歩道で撮った写真でんねん。 
初公開、先生愛用のけったいな三脚でんねん。(ベ○ボー トレッカー)
変わりもんはけったいな三脚を使いまんねん。
自分以外にこのメーカーの三脚を使っている人を見たのは、
今まで一回しか無いらしいって事でんねん。
三本の足も、センターポールも、
それぞれ自由に動き、色んなセッティングが出来まんねん。
ほんでから、足は水が入らん構造になってて、
足が泥とかで汚れたら雑巾で拭くだけでよいって言う、
すぐれもんでんねん。
リンドウが咲き出して・・・ちょっと時期が早かったようで、
まだ少なかったようでんねん。
以下の写真は、
伊吹山から名古屋への帰り道にある津屋って場所で撮った写真でんねん。
ここも先生のお気に入りでんねん。
ほんでから、こんな事でも一部で名を知られてるところでんねん。
オオイヌタデでんねん。
彼岸花が沢山咲きまんねん。
盛りには・・・ちょっと早かったようでんねん。
マルバルコウソウが咲いてまんねん。
なんか・・・用事でっか?
ゲンノショウコでんねん。
クズの花でんねん。
クズとススキでんねん。
露草でんねん。
ツリガネニンジンでんねん。
アキノウナギツカミでんねん。
ここにも、ツリフネ草の群落が有りまんねん。
先生のお気に入りの撮影スポットでんねん。(大袈裟でんねん)
“日月神示”上つ巻 第三十一帖 Kellyさん的解釈
今回も上つ巻 第三十一帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、
今度の御用は結構な御用ぞ、
いくら金積んでも、
因縁ない臣民にはさせんぞ。
今に御用させて呉れと金持って来るが、
一一神に聞いて始末せよ。
汚れた金 御用にならんから、一厘も受取ることならんぞ。
汚れた金 邪魔になるから、
まことのもの集めるから、
何も心配するなよ。
心配 気の毒ぞよ。
何も神がするから慾出すなよ、
あと暫くぞよ、
日々に分かりて来るから、
素直な臣民うれしうれしで暮さすから。
・・・そやけど・・・上つ巻も後半に入り、
だんだん纏めの様な文章になってる感じ(感じる磁性)やな。
まず、冒頭の言葉、
“今度の御用は結構な御用ぞ、”
霊的成長により、
分けられる事=アセンションと認識される事、
それを通り越し、
その後のより高い場(フィールド)に移行する心(靈)は、
肉体を持っているとか、持っていないとかに関わらず、
“上”の心(靈)の発現が出来ていないと、
神聖な場(フィールド)の構築は出来ないし、
それは神の計画でもあるし、
“上”の思惑の顕現でもある。
そやから、そこに移行する・・・高い心(靈)の発現をする為に、
その為に私達は、
今、
失敗の事象を観察して進化程度の低い心(靈)を認識している。
ほんでから、
自分達の心(靈)の構成って事も、
進化程度の低い段階から、
“上”に向かっていくって事を思い知らされてる。
それは、
ニュースを見ても自分達の心(靈)の動きを観ても、
それは自省(胸の磁性“十”)の“行”・・・
・・・自分達の在り方を考えさせられる事が多いんやけど・・・
程度の低い心(靈)の発現の人=相対的に動物に近い人・・・
人の動物化って言う事も前のブログで先生と話をしたんやけど、
我欲・・・自我の確立=固定化の霊的進化過程、
物欲・・・そして、本能を満たす低級な欲を達成したいための金儲け・・・
美食、風俗、性の乱れ、
ほんでから、下等動物から動物への進化、
性の発現・・・♂と♀・・・
それが人(日止、霊止)なら、男と女。
思い(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)の違いと、
行動の違いになり・・・それが男と女であり、
男って言う字は、田=四つの場(フィールド)、心、靈、の、
四つの場(フィールド)=大脳の新皮質・・・
一言で言えば思想の構築をするって事であり、
それを事象に示すから、
“力”が“田”の“下”にある。
女は、
丿部(へつぶ)と乚部(いんぶ)と“一”と丿部(へつぶ)で、
構成された字で、
それは思想=認識・・・
“一”=智性=1番目のオーラを、
次の世代に繋いで行く=子を産み、
その役割って事で、
しかしそれ自体をダメにする同性愛・・・
そんな人がたくさんになる事・・・
そして、低級な功名心・・・
目立ちたいとか、ひけらかしたいとか、
外側だけ綺麗に美しくなりたいとか・・・美容、美白、エステ、サプリメント・・・
そして、ファッションやブランド・・・
ディスプレイ・・・動物の発情行動・・・動物霊の習性。
そこに心(靈)の動きの“美”ってもんは、
感じ(感じる磁性)られへん・・・
そして・・・
Happy・・・幸せになりましょうとか、
感謝しましょうとか、そういう事を言うてる人も多なって来たんやけど、
結果それは、低い功名心=自己満足で、
その言葉自体に酔ってるだけで、
大体その言葉の裏にも商売の思惑があり・・・全部がそうやって事では無いけど、
それ自体も自己奉仕者の行動って思える。
そんなセミナーなんかは金が絡み、
それを運営している人の低い功名心があり、
そんな事に時間を費やしてる内に=自省(胸の磁性“十”)しないうちに、
時期(アセンション)は、やってくる。
そやからそんな事自体が増えてくる事、
そのものが、
人の霊的進化を望まない存在の思惑であり、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の顕現であり、
それに携わる人は、自分が、
悪魔の傀儡って自覚が無い。
今は・・・そんな事ばかりが目立つ・・・
列挙すれば・・・きりが無い。
重複するけど、
そこには進化程度の低い価値感がある。
そしてそこには、通貨としての金・・・それに対する思い・・・
動物霊の思い・・・人のように金を使い、
自分たちの欲望を満たしたい思い・・・
それが目立つからこそ、
そう言う人が大半の星やからこそ、
この星は経済が人を殺してる。
そして・・・その事を問題にする人は少ない・・・
そやから通貨としての金の無い世界・・・段々そうなって行くんやろけど・・・
そこに到達するまでには、
私たち自身が、
“上”の心(靈)の発現と、
それによる他者への考え・・・
それは、奉仕は必ず自分に帰ってくる。
因果、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”・・・
そしてそれは良い振動なら良い結果になるって事を知る。
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の発振、発信は、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の結果にしか、
そう言う事象にしかならへんって事でんねん。
そやから・・・
通貨としての金は、段々意味が無くなって行き、
もうすぐ経済は意味の無いものになり、
最後には、通貨としての金そのものが無くなり、
その上での認識(悟り、幸取=さとり)・・・そこに到達した人の認識は、
“金”の本当の意味・・・
“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子が持つ磁性、
それによるローレンツ力の強化、
それが段々、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)と感応共振し、
それ自体が自分の心(靈)の発現と霊的生長って事になり、
そして“力”の顕現って事になり、事象を形成して行く。
それは、言い換えれば、
神の思惑を理解し、
自分なりの正しい(“上”と“下”の法則性=正しい)基準、
それゆえの発振、発信=行動=事象の創造をするようになる。
そやからそれは、
“天の御目”の獲得って事になって行く。
そやからこそ以下の言葉、
“いくら金積んでも、
因縁ない臣民にはさせんぞ。”
“因縁ない臣民”=“上”の心(靈)の発現を少しした人と、
自省(胸の磁性“十”)の“行”を体験した人・・・
それは“慈悲”と“慈愛”、
アミの本から引用すれば、愛(炁)の度数、
そう言う人で無いと神聖な事象の創造・・・
神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉は、
出来へんって事でんねん。
そやから、自己奉仕者の心(靈)・・・
本能、情動、功名心、自我、・・・それが中心の心(靈)・・・
それだけの心(靈)の発現の段階の人は、
次の世界の構築をする資格が無い。
そういう事を指す言葉やな。
そして、そう言う人達=自己奉仕者も、
もう起き始めてる色んな現象に遭遇し、
危機感を感じ、
そして、
自分達の価値感で何でも思い通りにしたいと思うからこそ、
次の世界に移行したいと思うからこそ、
あがき、求め・・・そやからこそ、
インチキ宗教とか、形骸のアセンションセミナーとか、
インチキ霊感商法とか、低級な霊能力者とか、
そんなものばかりが持て囃される・・・
そやからこそ次の言葉、
“今に御用させて呉れと金持って来るが、
一一神に聞いて始末せよ。
汚れた金 御用にならんから、一厘も受取ることならんぞ。
汚れた金 邪魔になるから、
まことのもの集めるから、
何も心配するなよ。
心配 気の毒ぞよ。
何も神がするから慾出すなよ、”
・・・通貨としての金では、
この世界は良い方向に行かへん事は一目瞭然なんやけど、
その事に対する認識(悟り、幸取=さとり)の無さ・・・
それそのものが進化程度の低い心(靈)の発現を指すって事なんやけど、
あまりにもそう言う人が多いからこそ、こういう言い方をされ・・・
ほんでからそれは、
“上”の思惑に任せておけって事でんねん。
人が生きていく為に必要な物、
衣食住に必要な物、
それは“上”から保障されてるんやけど、
低い心(靈)の発現の人は奪い合うから・・・通貨としての金で奪い合うから、
無くなり、不自由し・・・その事自体が教訓になるんやけど・・・
そして、
奉仕・・・自分のエネルギーを贖う(あがなう)事をしないからこそ、
何も与えられへん。
“上”の存在はもっと与えたい・・・そやけどその資格を持ってへんのが、
平均的地球人の霊的進化過程って事でんねん。
そして、
自分の霊的成長に必要な事象、
どんな困難も苦難も、
自分は永遠の存在なんやって事を理解したら、
それらはすべて、
試練で・・・テストで・・・
自分の心(靈)の在り方が試され、
それは、
“上”の心(靈)の発現で、自分の霊的成長で、
結果としてそれは、
神格化への道程であり、
“個”の意識=独り神になる進化過程である事。
そやから今後=アセンション後、
地球自体が相対的にそう言う進化の場(フィールド)になるから、
次の言葉、
“あと暫くぞよ、”
そしてそれは・・・“日月神示”内の表現の“元の世”、
肉体=“二”
“世”=事象の観察・・・心(靈)が感じ(感じる磁性)て行く事そのもの、
儿部(じんぶ、にんにょう)=時間の進行を体験して行かんと、
自分の認識(悟り、幸取=さとり)にならへんから、
次の言葉、
“日々に分かりて来るから、
素直な臣民うれしうれしで暮さすから。”
・・・そう言われ、
“素直な臣民”・・・この言葉、
形骸の価値感=“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の心(靈)の発振、発信に、
振り回されるなよって事やと思いまんねん。
自分の心(靈)の在り方を見失うな!・・・って事やと思いまんねん。
今回はこれくらいにしときまんねん。
“日月神示”上つ巻 第三十帖 Kellyさん的解釈
今回も、上つ巻 第三十帖を解釈しまんねん。
短いけれど・・・重要な事を簡潔に言っている感じ(感じる磁性)やな。
原文は以下の通り、
富士を開いたら
まだ開くところあるのざ、
鳴戸へ行くことあるのざから
このこと役員だけ心得て置いて呉れよ。
七月一の日、ひつくのか三。
冒頭の、
“富士を開いたら
まだ開くところあるのざ、”
“富士”・・・そして“二二”
この言葉は今までも何回も出てきているし、
Kellyさん的に何回も解釈した。
その纏めとして、
上つ巻 第二十一帖 Kellyさん的解釈から、コピペしときまんねん。
↓
“富士は神の山”
これは、
“二二”=左右の極性に、
“神の山”=“上”の思惑を受信した脳を指す言葉、
それは天意を受けた人の認識(悟り、幸取=さとり)を指し示す・・・
↑
以上でんねん。
ほんでから“日月神示”の文章にこれからも何回も出てくる言葉、
そう言う意味での“富士”・・・
今までの上つ巻の中でも、
第四帖 “富士みはらし台ぞ、”
第五帖 “富士を開くとは心に神を満たすことぞ。”
“神の山はみな富士(二二)といふのぞ。”
他にもあったかもしれへんけど・・・
“富士”と“二二”・・・何回も言うた事やから敢えて説明しまへんけど、
それに付いては、
“太陽凝視 富士”
或は、
“太陽凝視 二二”で、ググったらエエねん。
要は、
“富士”は、宀(うかんむり)=頭、
(これに付いてもその根拠を前に説明してるけど、
これも、“太陽凝視 宀(うかんむり)”で、ググったらエエねん。)
宀(うかんむり)の下の“一”=智性=1番目のオーラと、
口=吸収=受信と、
田=四つの場(フィールド)=思い(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)。
そして“鳴戸へ行くことあるのざから”・・・
そしてそれは、
“まだ開くところあるのざ、”・・・
この言い方は、まだ開いて無いって事でんねん。
この文章の中の“鳴戸”
これは淡路島の鳴門とは違い、大体、字も違う。
淡路島の鳴門は鳴る門、
それに対し、上つ巻 第三十帖の表現は
“鳴る”と、
“戸”=“一”=智性=1番目のオーラ+尸(しかばね、かばね)
そやから“戸”は、
霊的成長を果たした人(日止、霊止)の肉体の顕現を指す言葉でんねん。
纏めれば、
“上”の振動を時間の進行で獲得し、
それを自分の心(靈)に加味した思惑=霊的成長を果たした人(日止、霊止)の思惑、
それが“富士”で、
そうなる為の仕組みが、
肉体の左右の極性である“二二”で、
それは、
砌(みぎり)と日足(ひたり)、
砌(みぎり)回転と日足(ひたり)回転、
右往左往と左往右往、
イダとピンガラ、
・・・色んな言い方が出来るし、
それぞれが霊的成長の仕組みを表現してる。
そして、
“上”の思惑を受信し認識し行動=発振、発信するのは、
それは大脳の新皮質でもあり、
“上”の思惑を受信して思う事を指し、
それは智性=神性の顕現であり、
それは下降して、
“鳴戸”=智性を獲得した肉体の発振、発信になり・・・
そうならんとアカンって事でもある。
そやから前にも言うたけど、
想像は、
“創造”=神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉になるって事で、
そやからそれは、
“鳴る”って事でんねん。
それは、簡単に言うたなら、
思惑の顕現=事象を形成する為に、発振、発信をする・・・
事象の観察は、今、大体、
(地球人の平均的霊的成長度に於いて)
物質を中心に観察してる段階やけど、
その低い振動=物質の振動・・・と認識され得る振動としてって事で、
ちょっと解り難い言い回しやから言うて置くけど、
物質を観察し感じ(感じる磁性)ているのも、
心(靈)が場(フィールド)であり、
心(靈)=○が、○ 九 十(“日月神示”内の表現でのまこと)の○が、
荷電粒子で構成されてるからであり、
物質を観察し認識する事そのものが、
神経が生体内電流により脳に情報を伝え、
それを心(靈)が感じ(感じる磁性)、物質であると認識される。
そやから、
感覚って言うのんはすべて生体内電流に変換され、
物質の認識って言うのも、それは電磁波の受信であるって事でんねん。
そやから物質と物質以外の振動の何か・・・
例えば心(靈)の動きとか、
霊とか、UFOとか、心霊現象とか・・・それを認識するのも、
心(靈)が感じ(感じる磁性)ている認識(悟り、幸取=さとり)であり、
“上”の心(靈)の発現をして行くと=段々霊的成長すると、
解ってくる=その振動を受信して理解するようになる。
そやからそれは、
低い心(靈)の発現の人ほど低い振動しか認識出来へんって事でも有り
それは、
物がすべてとか、金がすべてとか、人を物のように扱うとか、
自分は死んだら人生は終りとか・・・そう言う発想になり、
それは、“日月神示”の表現なら、
“われよし”やろし、
“自己奉仕者”
“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”・・・
本能、情動、功名心、自我、・・・それが中心の心(靈)でも有り、
例えば今の政治家や、自分の欲の為に犯罪を犯す人や・・・
それ以外にも、
物質以外の事が理解出来へん頭の悪い物理学者なんかもそうやな。
それは、
霊なんて有り得へんとか宇宙人とかはいないとか、
それは相対的に“上”の心(靈)を意識して無い事と同義でも有り、
神の認識も自分の心(靈)に無く、言葉だけを知っているに過ぎず、
それも自分に、
“上”の心(靈)が発現していないからでもあり、
そう言う認識の人そのものが、
てんで心(靈)の発現が低く、まだ動物の認識(悟り、幸取=さとり)に近い。
動物やからこそ、動物の進化過程に近いからこそ物しかわからず、
心(靈)を意識する事が無いとも言い得る。
その事自体が自分にも他者に対しても人は物質だけやと思い込む事になる。
ほんでから後先考えんから=生きている間だけがすべてやと思い込んでるから、
そう言う人達の執る行動は無責任・・・
自分がイヤになったらすぐに仕事を放り出す・・・
上唇の薄い誰かみたいなもんやな。
(他者への愛(炁)の発現が相対的に少ない人相)
・・・余談やった。
話を戻し、
“富士”“鳴戸”で、神聖な事象の“創造”
神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉をして行く。
そう言う世界を構築し、
それは、
“国”=(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”で構成される場(フィールド)を、
自分達が創る。
それには“身魂掃除”“身魂洗濯”=自分の心(靈)の動きの、
“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を見出し、
そして“身魂磨き”=肉体と心(靈)の進化、心(靈)と体の結晶化、
人(日止、霊止)が“宝玉(ほうぎょく)”になる・・・そうなると、
“上”の思惑と感応共振する。
人(日止、霊止)は、
そうなって行かんならんって事で、
その人達=アセンション後の世界を構築する人達に対し、
“このこと役員だけ心得て置いて呉れよ。”
・・・って、言われてる。
今回はこれくらいにしときまんねん。
○○○大先生、毎年恒例の御嶽山日帰り登山に行き、帰宅してから、 (ヘ;_ _)ヘ パタ!!・・・コケテマッタ・・・・ゞ(_△_ )ゞ ヒクヒク・・・・・・ってなったんやけど、その日に撮った写真。
先生は大体この時期に、御嶽山に日帰りで登りまんねん。
登山コースは、
田の原(七合目)→王滝頂上(2936m)→剣ケ峯(3067m)→二の池→王滝頂上→田の原でんねん。
そやけど、ジジイになった先生は年々体力が無くなり、今回は、剣ケ峯まで三時間半掛かりましてん。
(若い頃は三時間掛からんかったそうでんねん。)
田の原から見た御嶽山山頂、向かって左の白っぽい建物が王滝頂上小屋でんねん。
向って右の建物は、黒沢登山道の小屋でんねん。
ここから登りまんねん。
登りだしてすぐ、遥拝所が有りまんねん。
少し登ってから、田の原方向を見た写真でんねん。
天候が良く、富士山を見ることが出来ましてん。
(午後からは見えんようになったんやけど・・・)
ここまで、1時間50分掛かりましてん。
王滝頂上の神社でんねん。
王滝頂上から剣ケ峯を目指しまんねん。
剣ケ峯の神社でんねん。
一の池・・・御嶽山の火口跡でんねん。
二の池、日本最高標高の火口湖(2905m)でんねん。
その奥に賽の河原と乗鞍も写ってまんねん。
一の池と二の池・・・位置関係を撮った写真でんねん。
以下、剣ケ峯山頂で撮った写真でんねん。
初公開、先生の写真でんねん。
ちょうど山頂でセルフタイマーを使い自分の写真を撮ってた人が居たから、
チョ〜おせっかいの先生は、”シャッター押してあげますがね!”って申し出て、
その引き換えに自分の写真を何年ぶりかに撮って貰いましてん。
そやけど・・・ 二三日晴天が続いたから、
太陽凝視の影響で、
顔、真っ黒でんねん。
二の池に向かう途中にある案内でんねん。
以下、二の池周辺の写真でんねん。
二の池の残雪でんねん。
二の池から剣ケ峯を見た写真でんねん。
二の池から賽の河原に向かう道でんねん。
いつもは賽の河原のほうにも行くんやけど、
この日は天気がとても良かったので、
時間を費やして賽の河原に行くより、二の池で太陽凝視をする事を選択しましてん。
そやけど時間の都合で、一時間くらいしか太陽凝視出来へんかったようでんねん。
岩桔梗でんねん。
オンタデでんねん。
下山して、遥拝所からの写真でんねん。
太陽の向きが変ってるし空の色も変ってまんねん。
ふもとにある、新滝へ向かう道に咲いていた釣舩草でんねん。
そやけど、写した時間が夕方で、
釣舩草は一日しか咲いて無い花でもうしおれかけてまんねん。
近々伊吹山に行った時によい写真が撮れると思いまんねん。
























