“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、45年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 地震の巻 第十一帖 Kellyさん的解釈 “その六”



 今回も、地震の巻 第十一帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

また前者は曲線的であって消極面を表に出し、後者は直線的であって積極面を表に出している。 また前者は愛に住するが故に、主としてOとUの音が多く発せられ、後者は智に住するが故に主としてEとIの音が多く発せられている。 そして、その何れもがA音によって統一要約する神密極まる表現をなし、またそれを感得し得る能力をもっている。 しかし、これらOU、EI及びAの母音は想念の  
ローレンツ力 をなすものであって、地上人よりすれば、言葉そのものとしては、感得し得ないことを知らねばならないのである。 霊界に於ける音楽もまた同様であって、愛を主とした音楽はO及びUを多分に含み、曲線的であり、真を伝える音楽はI及びEの音が多く、直線的である。 それは、言葉そのものが かかる内質をもっており、各々が霊界に於ける生命の歓喜の表現なるが為である。 またこれら霊人の言葉は、天的の韻律をもっている。 即ち愛を主とするものは、五七七律を、真を主とするものは、三五七律を主としているが、その補助律としては、千変万化である。 言葉の韻律は、地上人が肉体の立体をもっている如く、その完全、弥栄を示すものであって、律の不安定、不完全なものは、正しき力を発揮し得ず、生命力がないのである。

 今回の文言中の“前者”は、先回取り上げた
“歓喜の現われとしての愛に位置している霊人の言葉は、善的内容を多分に蔵している。 故に、柔らかくして連続的であり”
であり、“後者”は
“歓喜の現われとして真に位置する霊人の言葉は、智的内容を多分に蔵している。 故に、清く流れ出でて連続的ではなく、或る種の固さを感じさせる。 そしてそれは月の光と、水の如き清さとを感じさせる”
であり、この“霊人の言葉”は息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、“一二三”のオーラのことである。

 それで冒頭で述べられているように
“前者は曲線的であって消極面を表に出し、後者は直線的であって積極面を表に出している”、
これは“愛”と“真”の違い、というよりも、個の心(靈)がこの二つの要素を“観察と認識”したならば、ということが述べられ、これに続く
“また前者は愛に住するが故に、主としてOとUの音が多く発せられ、後者は智に住するが故に主としてEとIの音が多く発せられている”
このアルファベット表記の“OとU”と“EとI”、これはローマ字表記と同等と解し、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば
“オ”は生命発生の元根と説明されているが、この“オ”に関しては、物質を伴った進化=肉体を持った進化のこと
“ウ”は、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するもの
これが“歓喜の現われとしての愛に位置している霊人の言葉”そして“善的内容を多分に蔵している”、その要素と言え
“エ”は、“上”に向かう事、神格化に向かう事、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味、その道理=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)
“イ”は、生気生命の発生力
これが“歓喜の現われとして真に位置する霊人の言葉”そして“は、智的内容を多分に蔵している”、その要素である。

 これに続く“そして、その何れもがA音によって統一要約する神密極まる表現をなし、またそれを感得し得る能力をもっている”
この“A音によって統一要約する神密極まる表現”の“A”は
“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす
であり、“亜”(人の心(靈)が認識しうる)根元の何か、究極微粒子)であり、これは“創造”の“主(ヌシ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の根元と“観察と認識”しうるものである。
 それで“A音によって統一要約する神密極まる表現”の“A”は“創造”の“主(ヌシ)”の息吹を、個の心(靈)が“亜”(人の心(靈)が認識しうる)根元の何か、究極微粒子)と認識しうる要素とも言いうる。

 これに続く次の文。
“しかし、これらOU、EI及びAの母音は想念の  
ローレンツ力 をなすものであって、地上人よりすれば、言葉そのものとしては、感得し得ないことを知らねばならないのである”

これは、お前たち“地上人”の物質的肉体にとらわれた“観察と認識”では“言葉そのものとしては、感得し得ない”、“霊人の言葉”の息吹を“言葉”として認識できないの意であり、“霊人の言葉”をお前たちの言葉や文言で表現するする資質もない、しっかり認識する資質もない、要は智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が足らない、の意である。
 そしてさらに“想念の  
ローレンツ力 をなすもの”、これはこの前の文言の“これらOU、EI及びAの母音”にかかるが、この“OU、EI及びA”の“母音”とは、やはり“霊人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、この息吹による“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)において、“上”からの振動を自らが取り込む意で“ (それぞれの界(現界、幽界、霊界、神界)における肉体に相当するもののローレンツ力)ローレンツ力をなすもの”と称されているものである。

 これに続く次の文は“霊人の言葉”で構成されていると思える“音楽”について述べられている。
“霊界に於ける音楽もまた同様であって、愛を主とした音楽はO及びUを多分に含み、曲線的であり、真を伝える音楽はI及びEの音が多く、直線的である”

 これに続く次の文は、先の“音楽”をも含めた“言葉”、それは息吹、“一二三”のオーラ、について述べられている。
“それは、言葉そのものが かかる内質をもっており、各々が霊界に於ける生命の歓喜の表現なるが為である”

 この文言中の“かかる内質をもっており”が重要な要旨であり、その“内質”とは、個の心(靈)それぞれが相対する個の心(靈)の息吹から感じ取る“愛”と“真”と解するべきであるし、それはまた“各々が霊界に於ける生命の歓喜の表現なるが為”ということを、“愛”の程度も低く“真”など言葉でしか知らない“地上人”はよく鑑みるべきである。

 これに続く次の文。
“またこれら霊人の言葉は、天的の韻律をもっている。 即ち愛を主とするものは、五七七律を、真を主とするものは、三五七律を主としているが、その補助律としては、千変万化である”

 文中の“愛を主とするものは、五七七律”“真を主とするものは、三五七律”と述べられており、これは言葉の数そのものでもあるだろうが、“五”は、糸巻の象形文字、神経が密になった(羅)生命(生きる使命=存在理由)のことであり、“七”は、“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した人間の思想と行動といえ、“三”は、“一二三”のオーラ。なので、“五七七律”は、それぞれの界、現界、幽界、霊界、神界、において心(靈)に相対する肉体に相当するがあるから、その肉体の神経が密になった様、それは肉体の進化であり、そこに智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)由来の乚部(いんぶ)、人の思惑の顕現を、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性においてなす、の意が、“七七”である。 そして“三五七律”は“一二三”のオーラが、進化した肉体における智性(神性)由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)で発振、発信される様を示すものと解し、このことそのものを“律”と称され、“律”は、のり、おきて、さだめ、いましめ、(規律、律令、戒律のそれ)、あるいは、のっとる(則)、法則にしたがう、の意である。
 それで“愛を主とするものは、五七七律を、真を主とするものは、三五七律”は、“愛”と“真”を感得させうる息吹であり、その根源と言いうるのは先の“OU、EI及びA”の“A”、“亜”(人の心(靈)が認識しうる)根元の何か、究極微粒子)、“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす、であり、これに続く“その補助律としては、千変万化である”とは、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、を、個の心(靈)が“観察と認識”して感じ得る多様性と言いうる。

 これに続く次の文。
“言葉の韻律は、地上人が肉体の立体をもっている如く、その完全、弥栄を示すものであって、律の不安定、不完全なものは、正しき力を発揮し得ず、生命力がないのである”

 冒頭の“言葉の韻律は、地上人が肉体の立体をもっている如く、その完全、弥栄を示す”は、先の“律”による息吹、それが“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、に影響する、その振動が響き渡るさまを“韻律”と称し、それが“完全、弥栄を示す”と称され、さらに“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、は、神そのものと言ってもよいが、神は巨大人の構造を持つが故に“言葉の韻律は、地上人が肉体の立体をもっている如く”と称され、これがまた“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、は、神そのもの、の、“律”であるから“律の不安定、不完全なものは、正しき力を発揮し得ず、生命力がない”といえ、これは“創造”の“主(ヌシ)”も被造物と言いうる個の心(靈)も、換言すれば一切の生命が、この“律”による、あるいは支配されている、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)である、とも言いうるし、これは以前、読者会でテーマにしたことがあるプレアデス人のセムジャーゼが、マイヤーに伝えた文言

「すべての上に立つ唯一の者が、個々の創造物を支配する生と死の力を所有しているのです。それは、すべてを支配する法則を決める創造主なのです。それらの法則は犯すことができず、それ自身永久に正しいものなのです。私たちがそれらの法則を探し求めるときには、自然にそれらを理解できるのです。法則は人に生きる道を示し、その道は精神的な偉大さへの道であり、生命の真の目的を具現化する道なのです」
これを思い起こさせるものでもある。


“すべての上に立つ唯一の者”=“創造”の“主(ヌシ)”
“個々の創造物を支配する生と死の力を所有しているのです。それは、すべてを支配する法則を決める”=“律”
“法則は犯すことができず、それ自身永久に正しい”=“完全、弥栄を示すものであって、律の不安定、不完全なものは、正しき力を発揮し得ず、生命力がない”
“法則は人に生きる道を示し、その道は精神的な偉大さへの道であり、生命の真の目的を具現化する道”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)と“律”があるから進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を認識しうるし、それがまた自分たちをも含めた“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、の“完全、弥栄を示す”

今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 地震の巻 第十一帖 Kellyさん的解釈 “その五”



 今回も、地震の巻 第十一帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

霊人の言葉は歓喜より発するが故に歓喜そのものであり、神の言葉でもあるが、その霊人のおかれている位置によって二つのものに大別し得る。 歓喜の現われとしての愛に位置している霊人の言葉は、善的内容を多分に蔵している。 故に、柔らかくして連続的であり、太陽の (ひかり)と ●(熱)とに譬えることができる。 また、歓喜の現われとして真に位置する霊人の言葉は、智的内容を多分に蔵している。 故に、清く流れ出でて連続的ではなく、或る種の固さを感じさせる。 そしてそれは月の光と、水の如き清さとを感じさせる。 

 今回の文言も、先回取り上げた“言葉そのものが弥栄であり、生命である。 また総てである”ということを念頭においておかねば解釈できえない。

 冒頭の文。
“霊人の言葉は歓喜より発するが故に歓喜そのものであり、神の言葉でもあるが…以下略…”

 お前たち“地上人”の自分自身の心(靈)を偽った、あるいは自分の心(靈)そのままに表現していない、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)そのままではない不誠実な“言葉”ではなく、“霊人”同士においては心(靈)の動きや内包されている情報は、相対すればお互いに理解できるものである、ということを“霊人の言葉は”から読み取り、これに続く“歓喜より発するが故に歓喜そのものであり、神の言葉でもある”は、“霊人”は神に近付くこと、“歓喜”を認識(悟り、幸取=さとり)としているが、これも“地上人”とは大きく異なる点であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が自分たち個の心(靈)の存在の意義であり、“弥栄であり、生命である。 また総てである”ということを(“地上人”のあいまいな認識から観るならば)絶対の認識(悟り、幸取=さとり)としているし、これまで述べている通り“言葉”は息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり“一二三”のオーラであるということを述べている。

 これに続く次の文、先に取り上げた文言と一部重複することをご承知おき願いたい。
“神の言葉でもあるが、その霊人のおかれている位置によって二つのものに大別し得る。 歓喜の現われとしての愛に位置している霊人の言葉は、善的内容を多分に蔵している。 故に、柔らかくして連続的であり、太陽の
ローレンツ力と ○   (ひかり)と ●(熱)とに譬えることができる。 また、歓喜の現われとして真に位置する霊人の言葉は、智的内容を多分に蔵している。 故に、清く流れ出でて連続的ではなく、或る種の固さを感じさせる。 そしてそれは月の光と、水の如き清さとを感じさせる”

 まず“霊人の言葉”息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、“一二三”のオーラは“神の言葉でもある”と前置きされていることに気付くべき。
そして“その霊人のおかれている位置によって二つのものに大別し得る”、これは“歓喜の現われとしての愛”、神に近付くこととしての“歓喜”は、“愛”として“現われ”であり、○○○大先生の著書やブログの熱心な読者は愛(炁)が“亜”が出ずる、泉、であり、ア(“亜”(人の心(靈)が認識しうる)根元の何か、究極微粒子))が、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”、日足(ひたり)から砌(みぎり)に筆を動かすその意は、“思惑の顕現”=現象化、“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”であり、これらすべてを愛(炁)という言葉や文字から感じられることを知っている筈であり、さらに愛の元字である炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の炁が低振動化して空、無、光、となり、それが眞(まこと)の力の奇(奇才の奇、力のあらわれの意)と存在の存、が当てられていることも付け加えておくが、これらの事柄は、“愛”が“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、これらの実在の理由と根拠たることであり、“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”の元であることを示唆しているものであるが、“霊人”の息吹である“言葉”は、“地上人”の不誠実な“言葉”と本質的に違い、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑である“亜”(人の心(靈)が認識しうる)根元の何か、究極微粒子)を含んでいるのだ、の意であるし、その“言葉”息吹を“霊人”同士が理解し、感応するならば、その霊人の霊的成長度の高低においてという範囲があるのだが、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑をも理解していくものであるということを述べている。
 そしてそれは“歓喜の現われとしての愛に位置している霊人の言葉は、善的内容を多分に蔵している”、“善”と“観察と認識”しうる事象は、神格化の方向性と智性の受信、と○○○大先生の定義をあてはめて述べておく。
 これに続く“故に、柔らかくして連続的であり、太陽の
ローレンツ力と ○ (ひかり)と ●(熱)とに譬えることができる”、文中の“太陽の (ひかり)”とは、太陽自体が“創造”の“主(ヌシ)”の振動の仲介者であり、それは“太陽”も霊=○、荷電粒子の場(フィールド)であり、ローレンツ力ローレンツ力 で“創造”の“主(ヌシ)”の振動を取り込んで息吹いているから“ ローレンツ力と ○ (ひかり)”と称され、それを受ける、感応する側は“ローレンツ力と ○ (ひかり)と ●(熱)”として感得するものであり、ことに“●”の表記は、物理に詳しい人ならすぐ理解できると思うが、振動が物質に影響を与える際の熱の発生を示唆しているものである。
 これに続く“また、歓喜の現われとして真に位置する霊人の言葉は、智的内容を多分に蔵している”、これも神に近付くこと、“歓喜”の要因としての“真”、それは“日月神示”でも○ 九 十 

○ 九 十(まこと)の解字 

あるいは“地上人”の不誠実さに対する“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)、そして神道の真固止、また、○○○大先生の概念の“真固止の人間”(“上”の思惑(荷電粒子)を真に固く止める人(日止、霊止))、すべて進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たしていくならこれらの事柄が見受けられるし、そこには“智的内容を多分に蔵し”、これを単なる知識と解釈するのは見当違いで、この“智的内容”とは智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)のことである。
この“智的内容”所以の“真”、これを顕現していくには先の“歓喜の現われとしての愛に位置している霊人の言葉は、善的内容を多分に蔵している”、この“善的要素”があるが故に“真”を顕現するものであるからこそ“神の言葉でもあるが、その霊人のおかれている位置によって二つのものに大別し得る”と述べられているものでもある。
 そしてそれを“観察と認識”した個の心(靈)が感じ(感じる磁性)るのは“愛の位置”の際“善的内容を多分に蔵している。 故に、柔らかくして(“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”)連続的であり”そして“歓喜の現われとして真に位置”の際“智的内容を多分に蔵している。 故に、清く流れ出でて連続的ではなく、或る種の固さ(“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“)を感じさせる。 そしてそれは月の光と、水の如き清さとを感じさせる”と称され、その感じ方の違い、“愛”と“真”の違いを表現した文章である。

今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示” 地震の巻 第十一帖 Kellyさん的解釈 “その四”



 今回も、地震の巻 第十一帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

原因と結果とを一つにし、更に結果より生ずる新しい原因も、新しい結果をも同時に表現し、なお言葉そのものが一つの独立せる行為となり、且つ一つの独立せる生きものとなって現われ、行為し、生命するからである。 言葉そのものが弥栄であり、生命である。 また総てであるということは、地上人には理解できぬであろう。 それは、過去が現在であり、未来もまた現在であり、更に生前も、生後の立場においては生後であり、死後の立場においては死後である。 また一里先も、百里先もまた千万里はなれていても、同一の場所であるのと同様であって理解するに極めて困難である。 だが、地上人に於ても それを知り得る内的な生命をもっているのであるから、理解することは困難であるが不可能ではない。

 今回取り上げる文言は、
“言葉そのものが弥栄であり、生命である。 また総てであるということ…以下略…”
が要旨である。 
 この“言葉そのもの”、これを“生命である”そして“弥栄”なのだ、というのは、“地上人”が使っている言語や会話、これは音の振動とそれに心(靈)の動きが加味されているが、“霊人”の言葉は息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)そのものであり“一二三”のオーラの発振、発信、これとの感応によって意思の疎通や会話が行われる、これを換言すれば、“霊人”対“霊人”の意志の疎通、会話、は、相手である“霊人”の心(靈)の動きそのものが伝わってくるということでもある。
 このことをここまでの第十一帖の文言の解釈で述べてきたが、これを念頭に置いておかねば、今回取り上げている文言の解釈は出来えない。 

 冒頭の文。
“原因と結果とを一つにし、更に結果より生ずる新しい原因も、新しい結果をも同時に表現し、なお言葉そのものが一つの独立せる行為となり、且つ一つの独立せる生きものとなって現われ、行為し、生命するからである”

 文中の“原因と結果”は、心(靈)、あるいは生命(生きる使命=存在理由)がなしていくことの“思惑の顕現”と言いうる。 それは文中の“原因”は何かを為そうとする、これが単に心(靈)の動きを指しているのであり、これに相対することとして心(靈)の動きを事象に対して顕わす、いわゆる行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)すると“結果”となる。
そしてこのこと事態が思惑=日足(ひたり)の極性、であり、顕現、結果=砌(みぎり)の極性(事象への顕現)である。
 この“思惑の顕現”=現象化を“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿って行っているのが生命(生きる使命=存在理由)であり心(靈)であり、行っていく過程においてたくさんの“原因”=思惑と“結果”事象への顕現を自らが観察し、さらに新たな“思惑の顕現”=いわゆる“創造”をしていくことを“原因と結果とを一つにし、更に結果より生ずる新しい原因も、新しい結果をも同時に表現し”と称されている。
 そして“なお言葉そのものが一つの独立せる行為となり、且つ一つの独立せる生きものとなって現われ、行為し、生命する”、この文中の“言葉”を“地上人”の不誠実な言葉と解釈すると全く意味が通じず、これは先に述べた“霊人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)のことを指す表現であり、息吹、“一二三”のオーラ、が、先の“結果”となりその“原因”は心(靈)の動きであり、これらを合わせて現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”となり得るのであるから“言葉そのものが一つの独立せる行為”であり、さらに“且つ一つの独立せる生きものとなって現われ、行為し、生命する”と称されていることを読み取るべきである。
 
 そしてこの文言は先に述べた以下の文言に続いている。
“言葉そのものが弥栄であり、生命である。 また総てであるということは、地上人には理解できぬであろう”

 これに続く次の文は、息吹、“一二三”のオーラの説明である。
“それは、過去が現在であり、未来もまた現在であり、更に生前も、生後の立場においては生後であり、死後の立場においては死後である。 また一里先も、百里先もまた千万里はなれていても、同一の場所であるのと同様であって理解するに極めて困難である”

 個の心(靈)は輪廻転生を繰り返し進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たしていくならば、というのを“生前も、生後の立場においては生後であり、死後の立場においては死後である”と称され、その輪廻転生=“生前”“地上人”“死後”において“霊人”であったり“地上人”であったりするが、それぞれの立場、と、その霊的成長度の段階、と、その場(フィールド)に位置していた時の“原因”と“結果”=“思惑の顕現”、これを自分自身が“観察と認識”する、その情報はすべて個の心(靈)に内包されており、さらにそれは息吹いているものである。
 そしてそれは進化程度が低いと、それぞれの場(フィールド)に位置して、新たな体験をして様々な教訓を得る必要性があるから、過去のことは忘れるような仕組みになっている。 だが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が進めば必ずこれまで輪廻転生、体験してきたこと、すべて思い出す過程に至るし、そこまで至ると心(靈)の中の認識としての時間の進行と物理的な距離は一切関係なくなるので、“また一里先も、百里先もまた千万里はなれていても、同一の場所であるのと同様であって”と称されている。

 次の文。
“だが、地上人に於ても それを知り得る内的な生命をもっているのであるから、理解することは困難であるが不可能ではない”

 文中の“内的な生命をもっている”とは、自分たちが輪廻転生を幾度となく繰り返している個の心(靈)であり、そこにおいてお前たちはまだ未熟だが、お前たちなりの輪廻転生における“思惑の顕現”をしてきている。 
 そして輪廻転生していきながら育っていくのは智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)であるし、たった今の“地上人”でもわずかながら“一”=智性=1番目のオーラを持っているし1番目のオーラを発現して心(靈)の動きとしての智性(神性)をもっているからこそ、“それを知り得る内的な生命をもっているのであるから、理解することは困難であるが不可能ではない”と称され、“それを知り得る”は、自分自身、自分という個の心(靈)が、“言葉そのものが弥栄であり、生命である。 また総てであるということ”を理解し、先の場(フィールド)や時間の進行において、たった今の段階では自分の心(靈)の中の情報をすべて思い出すに至る資格や資質は無いのだが、“一”=智性=1番目のオーラを大きくし神格化していくならば、“それを知り得る”ものであると解する。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 地震の巻 第十一帖 Kellyさん的解釈 “その三”



 今回も、地震の巻 第十一帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

しかし、霊人の言葉は、地上人の言葉に比して、その内蔵するものが極めて深く広いが故に、霊人の一語は地上人の数十語、数百語に価する場合が多く、その霊人が高度の霊人であればあるだけに、その度を増してくるのである。 

 これは先回解釈した“地上人”と“霊人”の感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)における“霊人”の思惑を“地上人”に伝える際のことを“霊人の言葉は、地上人の言葉に比して、その内蔵するものが極めて深く広い”そして“霊人の一語は地上人の数十語、数百語に価する場合が多く、その霊人が高度の霊人であればあるだけに、その度を増してくる”と述べられているのであり、例えばこのブログではローム太霊講話集、“日月神示”の解釈を行っているが、大概の人間、平均的地球人の霊的成長度である“地上人”は、これら“高度な霊人”の思惑である“言葉”の解釈を、てんで低いものにしたり、自分にとって都合の良い解釈をしたり、ひどいものとしては誰にでも分りそうな単語をピックアップして商売に利用して自分の低い功名心を満たしたりもしており、その低い認識ゆえの間違った情報をこの世界に流布しているからこそこのブログでは“役員づら”のことを、形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち、それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、)であると定義づけているものである。 

 少々余談だったが“霊人の言葉は、地上人の言葉に比して、その内蔵するものが極めて深く広い”ということをローム太霊講話集や“日月神示”など“高度な霊人”が霊的成長度の低い“地上人”に対して述べているのは“地上人”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のためであり、そういったつもりで“言葉”に接し、これは“どういうつもり”で述べているのか、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が“地上人”のために“地上人”の言葉としたこの文言、そして文言中の単語の意味合いは、その単語の前後、単語のふくまれている文言全体、何をテーマとして述べているのか、などを読み取り、どういう意味合いなのか、何を伝えようとしているのか、を、真摯に鑑みる必要性があることを知っておかねばならず、ただ流し読んだだけでは“高度な霊人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と感応など出来得ないのだ、ということをこの文言から読み取るべきである。 

 また“その一”で取り上げた
“霊人は、遠くにいても近くにいても、常にお互いに語り得る。 同一線上にいる霊人の言葉は、何れも同一であって共通する。 霊人の言葉は、霊人の想念のままに流れ出るのであるから、そのままにして通ずる”
という、“霊人”同士の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の感応とは違い、“地上人”と“霊人”の感応は、先回述べたように条件付けが必須、さらに“地上人”は“地上人”が使っている“言葉”でしか解釈しえない、それは“霊人”同士の息吹の感応とは違い、深い認識に至らない、“霊人”同士の“会話”は“霊人”同士の息吹を理解し認識(悟り、幸取=さとり)とするのであるということをたった今程度の低い“地上人”は知っておかねばならないし、先回取り上げたように“霊人の言葉と地上人の言葉とは本質的には同様であるが”とは、会話、意思の疎通、communication、の手段として“同様である”と称されているのみであり、“その表現は相違している”というのは、先に述べたように“地上人”同士の会話は程度が低く、思惑も真意も伝わらず間違ったことを伝えたり低い心(靈)が台頭したり…ということを先回述べたが、こんな会話で認識(悟り、幸取=さとり)の共有とか真意を伝えるとかにはなり得ない、という自分たち“地上人”の低さも知っておくべきである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 地震の巻 第十一帖 Kellyさん的解釈 “その二”



 今回も、地震の巻 第十一帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

霊人の言葉と地上人の言葉とは本質的には同様であるが、その表現は相違している。 故に、霊人と地上人と会話する時は、霊人が地上人の想念の中に入るか、地上人が霊人の想念に和するか、その何れかでなくてはならない。 

 冒頭の文。
“霊人の言葉と地上人の言葉とは本質的には同様であるが、その表現は相違している”

 文中の“霊人の言葉”は先回述べた通り思惑であり息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり振動であり“一二三”のオーラの発振、発信である。 よって“霊人”同士の会話は先回の“ 霊人の言葉は、霊人の想念のままに流れ出るのであるから、そのままにして通ずる”ということになる。 これに相対し“地上人の言葉”は、肉体を持った者同士の単なる会話にすぎない、それは真意が伝わっていないこともあるし、会話に、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、という心(靈)の動きが反映していたり、ディスプレイ(動物の発情行動)の心(靈)の動きも反映したり、保身のための言葉であったり、さらに言葉の選択を間違えている、言葉の使い方が稚拙、ということも多々ある。 
 それは“地上人”同士の会話は、“地上人”であるが故に自分の思惑が低いので、間違ったことを伝えたり大げさに話したり嘘をついたりという、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きが台頭しているし、“言葉”を使って自分の思惑を伝えることすらうまくできておらず、あるいは何かを伝える際、正鵠に表現するということもできていないが、“霊人”同士の会話はそうではないのだということを知るべきであり、また“地上人”の心(靈)の動きは自我の強化、自我の確立=固定化の段階であるからこそ、不正確な表現をしたり間違った伝え方をしたりしているのだと思い知るべきである。 それだからこそ“その表現は相違している”と称されているものである。

 これに続く次の文。
“故に、霊人と地上人と会話する時は、霊人が地上人の想念の中に入るか、地上人が霊人の想念に和するか、その何れかでなくてはならない”

 一言で言えばこの文は感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を述べているのであり“霊人と地上人と会話する時は、霊人が地上人の想念の中に入る”とは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)や“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)が通信を送っているのであり、“地上人が霊人の想念に和する”とは、感応するために“地上人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)か“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)に同調する、そうでなければ“霊人”の思惑を知る、理解するということは出来得ない、ということを述べている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 地震の巻 第十一帖 Kellyさん的解釈 “その一”


 
 今回から、地震の巻 第十一帖の解釈に入ることとする。 第十一帖の原文は以下の通り。

霊人は、遠くにいても近くにいても、常にお互いに語り得る。 同一線上にいる霊人の言葉は、何れも同一であって共通する。 霊人の言葉は、霊人の想念のままに流れ出るのであるから、そのままにして通ずるのである。 しかし、相手がきくことを欲しない時には聞こえない。 それは丁度テレビやラジオの如きものであると考えたらよい。 またその語ること、その語音によって、その相手の如何なるものなるかを知り得るのである。 即ち、その発音から、また言葉の構成から、その霊人の如何なるものなるかは、直ちに判明する。 霊人の言葉と地上人の言葉とは本質的には同様であるが、その表現は相違している。 故に、霊人と地上人と会話する時は、霊人が地上人の想念の中に入るか、地上人が霊人の想念に和するか、その何れかでなくてはならない。 しかし、霊人の言葉は、地上人の言葉に比して、その内蔵するものが極めて深く広いが故に、霊人の一語は地上人の数十語、数百語に価する場合が多く、その霊人が高度の霊人であればあるだけに、その度を増してくるのである。 原因と結果とを一つにし、更に結果より生ずる新しい原因も、新しい結果をも同時に表現し、なお言葉そのものが一つの独立せる行為となり、且つ一つの独立せる生きものとなって現われ、行為し、生命するからである。 言葉そのものが弥栄であり、生命である。 また総てであるということは、地上人には理解できぬであろう。 それは、過去が現在であり、未来もまた現在であり、更に生前も、生後の立場においては生後であり、死後の立場においては死後である。 また一里先も、百里先もまた千万里はなれていても、同一の場所であるのと同様であって理解するに極めて困難である。 だが、地上人に於ても それを知り得る内的な生命をもっているのであるから、理解することは困難であるが不可能ではない。 霊人の言葉は歓喜より発するが故に歓喜そのものであり、神の言葉でもあるが、その霊人のおかれている位置によって二つのものに大別し得る。 歓喜の現われとしての愛に位置している霊人の言葉は、善的内容を多分に蔵している。 故に、柔らかくして連続的であり、太陽の 
ローレンツ力と ○ (ひかり)と ●(熱)とに譬えることができる。 また、歓喜の現われとして真に位置する霊人の言葉は、智的内容を多分に蔵している。 故に、清く流れ出でて連続的ではなく、或る種の固さを感じさせる。 そしてそれは月の光と、水の如き清さとを感じさせる。 また前者は曲線的であって消極面を表に出し、後者は直線的であって積極面を表に出している。 また前者は愛に住するが故に、主としてOとUの音が多く発せられ、後者は智に住するが故に主としてEとIの音が多く発せられている。 そして、その何れもがA音によって統一要約する神密極まる表現をなし、またそれを感得し得る能力をもっている。 しかし、これらOU、EI及びAの母音は想念の ローレンツ力 をなすものであって、地上人よりすれば、言葉そのものとしては、感得し得ないことを知らねばならないのである。 霊界に於ける音楽もまた同様であって、愛を主とした音楽はO及びUを多分に含み、曲線的であり、真を伝える音楽はI及びEの音が多く、直線的である。 それは、言葉そのものが かかる内質をもっており、各々が霊界に於ける生命の歓喜の表現なるが為である。 またこれら霊人の言葉は、天的の韻律をもっている。 即ち愛を主とするものは、五七七律を、真を主とするものは、三五七律を主としているが、その補助律としては、千変万化である。 言葉の韻律は、地上人が肉体の立体をもっている如く、その完全、弥栄を示すものであって、律の不安定、不完全なものは、正しき力を発揮し得ず、生命力がないのである。

今回解釈するのは
“霊人は、遠くにいても近くにいても、常にお互いに語り得る。 同一線上にいる霊人の言葉は、何れも同一であって共通する。 霊人の言葉は、霊人の想念のままに流れ出るのであるから、そのままにして通ずるのである。 しかし、相手がきくことを欲しない時には聞こえない。 それは丁度テレビやラジオの如きものであると考えたらよい。 またその語ること、その語音によって、その相手の如何なるものなるかを知り得るのである。 即ち、その発音から、また言葉の構成から、その霊人の如何なるものなるかは、直ちに判明する”
ここまでとする。

 ○○○大先生の著書やブログの熱心な読者の方々は、以下の事柄の理解があれば今回取り上げている文言はある程度読み解けると思える。

  •  心は霊であり、霊は荷電粒子の回転である。
  •  神という字も、示す偏(へん)と呂で構成され、“呂”は頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれており、さらに神が巨大人の構造を持ち、神自体の“上”と“下”の荷電粒子の回転を示す字が神である。
  •  “亜”(人の心(靈)が認識しうる)根元の何か、究極微粒子)がいずる、これが“創造”の“主(ヌシ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)である。
  •  一切の生命は、“創造”の“主(ヌシ)”の息吹、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、を取り込んで進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくものである。
  •  そしてその天意の一部を、地球人の物理では電磁波と分類している。
  •  地球人は電磁波で通信が出来得ることを発見し(発明発見は、“上”から教えられたことであり、それを知る、利用する許可が出ているということ)実際に使い始める段階に入った。
  •  同様に“創造”の“主(ヌシ)”は、通信=思惑を被造物である生命に送り贈っている。
  •  “創造”の“主(ヌシ)”の息吹にも、高低がある。 これは神が巨大人の構造を持つが故に“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラに相当する息吹があるからである。
  •  肉体を持った生命は、物質が電荷を持つが故に派生するローレンツ力により、天意を取り込んでいるし、そのローレンツ力に応じた心(靈)の成長=霊的成長度ということがある。 
  •  また肉体を持った生命が発振、発信している“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目も、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による振動であり、科学では電磁波と認識されている。
  •  霊的成長度の高低において、取り込める通信、振動の高低が決定づけられる(“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない))。 
  •  同様に、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)において、心(靈)対心(靈)にも“変圧”という法則性があり、いきなり自分より高い存在とは感応しえない。 
  •  これは自分の霊的成長度に相応した発振、発信しか出来得ないからこそ、いきなり高い“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)とも感応できないのであるが、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)とは感応できる。
  •  その感応を決定づける要因は自分の心(靈)の在り方である。
  •  またこの“変圧”という法則性があるが故に、“類魂”“霊団”(ローム太霊が述べた概念)が構成され、それは地震の巻表記なら“同気同一”あるいは“同気同類”“同一線上”であり、人間においても同程度の霊的成長度の人間でなければ話が合わない、気が合わない、など、価値観の共通性や相違があるものである。
  •  よって個の心(靈)を含む“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、には、振動の法則性というものが観られ、また、それによって構成されているものである。

 これらの事を踏まえ本文の解釈に入る。 

 冒頭の文。
“霊人は、遠くにいても近くにいても、常にお互いに語り得る。 同一線上にいる霊人の言葉は、何れも同一であって共通する。 霊人の言葉は、霊人の想念のままに流れ出るのであるから、そのままにして通ずるのである”

 まず“同一線上にいる霊人の言葉は、何れも同一であって共通する”、これは同じ程度の霊的成長度の“霊人”の会話、意思の疎通、communication、これを“霊人は、遠くにいても近くにいても、常にお互いに語り得る”と述べられ、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、振動のやり取り、感応、を、双方の意志において同調するなら“語り得る”ということになる。 そしてそれは同じ程度の霊的成長度、それを“同一線上”“何れも同一”と称されている。 さらにそれは息吹なのだということを“霊人の言葉は、霊人の想念のままに流れ出るのであるから、そのままにして通ずる”と称されているものである。
 またこの事については第六帖の“霊界に於ては、思念の相違するものは同一の場所には存在しない”という文言が参考になる。
 ただしこれは“霊人”の場合であって、敢て言うまでもないことだが“地上人”にこのことは当たらない、“地上人”の言葉は、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、が台頭しているので真意は伝わらない。
余談だが、この、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、の心(靈)の動きが自我の脆弱な心(靈)において自我の強化につながっているものであることを知っておくべきでもある。 

 次の文。
“しかし、相手がきくことを欲しない時には聞こえない。 それは丁度テレビやラジオの如きものであると考えたらよい”

 これは会話のシステムのことであり、個の心(靈)が自らの意志により通信を傍受しない=同調しないで感応しないことが出来るのだ、であり、その通信は先に述べたように、思惑が振動であるから“テレビやラジオの如き”と注釈が入れられている。

 次の文。
“またその語ること、その語音によって、その相手の如何なるものなるかを知り得るのである。 即ち、その発音から、また言葉の構成から、その霊人の如何なるものなるかは、直ちに判明する”
 これは息吹が振動であり、その振動は、息吹いた心(靈)の思惑とその心(靈)自体の情報を含んでいるということである。 
今述べたことと、先のオーラが息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であるということに対し、参考のために○○○大先生の著書の<1>から以下にコピペしておく。

この世界が半霊半物質の状態に移行して人の認識も変わり、見えるものも変わってくる……“神の国、光りて目あけて見れんことになるのざぞ、臣民の身体からも光がでるのざぞ、その光によりてその御役、位、判るのざからミロクの世となりたら何もかもはっきりしてうれしうれしの世となるのぞ……”だったかな? ちょっとよく覚えていないんだが、そう記されている。そうなれば嘘をつくことはできなくなる。多分誰もがオーラの見える人になる。

 今後=アセンション後は、誰もが自分の低い心(靈)を諌め、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きである欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、ということが無くなるし、だれもが他者のオーラ、息吹を感じ取り、そこに互いが互いの思惑や意志を理解する場(フィールド)になっていく、ということを上記コピペ文から読み取っていただきたいものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

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